第21話:全の章「約束の行方」
運命の日から約一年後、セイジ兄ちゃんは『教師』になった。そして予想していたとおり、『教師』になった彼とは今までのように頻繁に話ができなくなった。新人の『教師』は、村人を導くための素養を徹底的に叩き込まれるのだ。セイジ兄ちゃんもみっちりと教育を受けているようだった。
あの日以降、ユウマは滅多なことでは泣かなくなった。チィ姉ちゃんの『遺品』を燃やした時のことを思えば大抵のことは大した苦痛ではなかったし、泣いたり祈ったりしたところで誰かが助けてくれる訳でもないのだ。結局は自分の頭で考え、自分の足で立って歩かなければ何も解決しない。皮肉なことに、あの一件はユウマを大きく成長させたのだった。
セイジ兄ちゃんは時々、ユウマと話をするために時間を作った。それは大抵ごく短い時間で、現状報告が主な内容だったが、それでもユウマにとっては大切な時間だった。その度にセイジ兄ちゃんとの『約束』を再確認し合うような気がしたからだ。いつしかあの『約束』は、ユウマの中で全ての行動の礎となっていた。
「『教師』連中は皆、この村のやり方にどっぷり浸かっている。特に上の方は頭の堅いじいさんたちが居座っていて、このままじゃなかなか上へは上がっていけない。俺はまだまだ下っ端だからな。ろくに『外』にも出れやしない。『約束』を実現できるのは一体いつになるんだろう……何か近道があるといいんだけどな」
セイジ兄ちゃんがそうこぼしたのは、彼が『教師』になって三年目のことだった。
「でもセイジ兄ちゃんは優秀だから、上の人たちの印象も良いんでしょう?」
ユウマは十歳になっていた。かつての泣き虫の面影はすっかりなりを潜め、彼は同年代の子どもたちよりも少し大人びた少年へと成長していた。元来持っていた慎重さとも相まって、今や学校での成績も上位を争うほどだった。
「印象は確かに良いかもしれないが、それはあくまで『従順な若手教師』としての評価だ。何か意見しようものなら、そんな評価は簡単にひっくり返るだろうな」
セイジ兄ちゃんの顔には悔しそうな表情が浮かんでいた。
ユウマはポケットに入れた『鍵』を握りしめ、思い切って口を開いた。
「――セイジ兄ちゃん、僕、考えてることがあるんだ」
「何だい?」
「僕も『教師』になる。『教師』になって、セイジ兄ちゃんの手伝いをするよ」
セイジ兄ちゃんは驚いたようにしばしユウマの顔を見つめ、次の瞬間表情をほころばせた。彼の笑顔を、ユウマは久々に見た気がした。
「そうだな、ユウマが『教師』になってくれたら、心強いよ」
セイジ兄ちゃんはユウマの頭にぽんと手を置いた。
「俺が弱音吐いてちゃ駄目だな。こんなんじゃ、顔向けできない」
誰に、とは言わなかった。あの日以来二人の間では、彼女の名前はまるで禁句のようにぱったりと挙がらなくなっていた。それは無為に彼女の名を口にすることによる危険の回避でもあったし、『約束』を果たす意志を更に強固にするための願掛けのようでもあった。
「セイジ兄ちゃん、僕もう子どもじゃないよ」
頭を撫でられたことに不満の意を表したユウマに、セイジ兄ちゃんは慌てて手を離した。そして口の片端だけで器用ににぃと笑った。
「悪い、ユウマはもう立派な男だ。ユウマが『教師』になる日まで、俺もできるだけのことはするよ」
そのようにして、二人の『約束』は徐々に積み上げられていった。
更に三年の時が経過して、ユウマが十三歳になった時だった。
セイジ兄ちゃんは、毎年『豊穣祭』に来ている『協会』の男の『養子』になった。どうやらその男は後継者を探していたらしく、昔から面識のあったセイジ兄ちゃんに白羽の矢を立てたようだ。
「『協会』関係者の身内になれば、村の運営に口出ししやすくなるはずだ」
その報告をしてきた時、セイジ兄ちゃんはそう言った。
『養子』という言葉にはいまいちピンと来なかったが、要は『協会』の関係者と深いつながりができるということだろう。それは『約束』の実現に向けての前進には違いなかったが、その一方で二人きりで話をする時間はますます少なくなっていった。
相変わらず村の日常は淡々と続いていた。仮初めの平和にあの日の感情を忘れそうになるたび、ユウマは『鍵』を握りしめた。いつもポケットに入っているそれは、常に変わらぬ固さでユウマに『約束』のことを思い出させた。
この頃から、ユウマには別に大切なものができた。
それは、その年に行われた単家替えで隣同士の単家になったチサトという少女だった。チサトはユウマより七歳年下で、艶やかでまっすぐな髪や華奢な手足がどことなく『彼女』を彷彿とさせた。
しかしその少女は『彼女』とは違って、引っ込み思案な性格だった。自分から人前に出られずもじもじとする様子はむしろ、幼き日の自分を思い出させた。
隣同士の単家になって最初の朝に「一緒に学校に行こう」と声を掛けたら、チサトは顔を真っ赤に紅潮させながらも、恥ずかしそうに小さく頷いた。それ以来、毎朝一緒の登校を続けていた。まるでかつての『彼女』と自分のように。
チサトは愛らしかった。
ユウマがどこに行くにもついて来たし、声を掛ければ嬉しそうにした。あぁ、自分もこんなふうだったかな、と思った。チサトが幼い恋心を自分に向けているのは明白だった。
「ねぇ、お兄ちゃんは『教師』になるんでしょう?」
チサトにそう尋ねられたのは、更に二年後の、ユウマの子ども時代最後の年だった。
このところかつてのセイジ兄ちゃんのように『教師』たちの手伝いをしていたユウマはすっかり彼らに気に入られており、そのまますんなり『教師』の道に進んでいくことは誰が見ても明白だった。
「お兄ちゃんが『教師』になっちゃったら、今までみたいに遊べなくなる?」
そう言ってチサトはひどく哀しそうな目をした。
ユウマは微笑み、彼女の髪を撫でた。
「確かに、今までと比べたら遊べなくなるかもしれないなぁ。でも僕は、チサトが安心して暮らせる村を作るために『教師』になるんだ。だから、我慢できるかい?」
それを口にしてから、はっとした。
目の前で何かを堪えるように頷くチサトの姿が、かつての自分に重なった。
その瞬間、ユウマの中である一つの可能性が浮かんだのだ。
セイジ兄ちゃんは、ユウマを安心させるためにあんな『約束』を持ちかけたのではないだろうか――と。
村を変えたいというセイジ兄ちゃんの想いは本物だったかもしれない。『彼女』を失った哀しみと後悔は、間違いなくセイジ兄ちゃんも感じていたはずだ。
しかしそれと同時に、彼はユウマのことを心配していただろう。当時とんでもなく弱虫だったユウマが『彼女』を失って、更に翌年には彼自身も『大人』になりユウマの傍にいられなくなるという状況だった。ユウマを一人立ちさせるための装置として、『約束』を提示したのではないだろうか。
なぜなら――あの当時のセイジ兄ちゃんと同じ年になった今なら、何となくわかるのだ。
この村を根底から変えることなど、きっと不可能だと。
あれから八年もの時間が経過したものの、具体的にどのように村を変えたら良いのか、ユウマには未だにさっぱりわからなかった。この村以外の社会や生活を、ユウマは知らないのだ。『追放者』の家を訪れることも、もはやしていなかった。
『約束』とは、一体なんだったのだろう。
それまでユウマの中で強く光を放っていた礎が途端にその輝きを失い、輪郭の不鮮明な茫洋としたものになっていった。そのことに、彼は愕然とした。
セイジ兄ちゃんにあの時の意図を問い質したかった。しかし『協会』関係者の『養子』になった彼が村にいる時間は更に少なくなる一方だった。
『鍵』は相変わらずポケットに入っていた。
だがそれを握りしめても、胸の中に溜まった泥のような不安がにじりと拡がるだけだった。そのうちに『彼女』の顔を思い出せなくなりそうで、ひどく恐ろしかった。
その翌年、ユウマは『教師』になった。
しかし一旦『教師』になってしまうと、ユウマは次に何をすれば良いのかさっぱりわからなくなった。村人を導くためのいろはは、まるで意味のない記号のようだった。子どもだったころは『約束』のためにひたすら『教師』を目指していれば良かったが、『約束』自体の意義を見失った今、目の前から伸びているのは緩慢な死へと続く道に違いなかった。
時々遠目に見かけるセイジ兄ちゃんは、いつもひどく疲れた顔をしていた。『協会』はそれなりに大変なようだった。彼の横顔はなんだかよそよそしく、別の知らない誰かのように思えた。たまに顔を合わせることはあっても、『約束』の話題はもはや出なかった。もしかして、『約束』のこと自体忘れてすっかり『協会』側の人間になってしまったのではないか。そんなふうにすら思えた。
日々は相も変わらず穏やかに、平和に流れていた。あの日の出来事は既に遠い幻のようだった。
そんな日常も悪くないと思い始めたのは、少なからずチサトの存在のせいだった。『教師』になる以前と比べたら一緒にいられる時間は減ったものの、チサトはいつもユウマに笑いかけ、手のぬくもりをくれた。淡々と続いていく生活も、チサトが傍にいるというだけであたたかく色づくように感じた。
チサトとの日々が募れば募るほど、『彼女』の存在が薄くなっていくようで時々ぞっとした。そのたび、言い訳のように『鍵』を握りしめた。それはいつもと変わらぬ固さで、ユウマの手のひらをやさしく刺すのだった。
「チィを見つけた」
セイジ兄ちゃんから報告があったのは、ユウマが『教師』になって二年目の年だった。
「元気そうだった。全然変わっていなかった」
そう言う彼は久々に嬉しそうだった。そしてどこか熱に浮かされたような目をしていた。
「でもこの村にいたことは覚えていないみたいだ。俺たちのことも……。まぁ、辛い記憶なら忘れていた方がいいのかもしれない。いずれにしても、チィは『外』で幸せに暮らしているよ」
ユウマは成長した『彼女』の姿を思い描こうとした。しかしそれは少しもうまく行かず、すり硝子の向こう側の像のようにぼんやりと滲むだけだった。
それでも『彼女』が幸せに暮らしていると聞いて、ユウマはどこか救われたような気分になった。
しかし同時に、今まで陰に隠れていた事実にも気づいてしまった。
この村に残ってそれなりに平穏な日々を送る罪悪感に似た後ろめたさが、『彼女』に対してあったこと。今やそれこそが、ユウマにとって『約束』の存在意義になり変わっているということ。そしてあろうことか、『彼女の幸せ』によってその罪悪感がいくらか和らいだ気がしてしまったこと。
――僕はまた、『彼女』を裏切っているのだ。
十年の月日が経っても、ユウマは何もできない子どものままだった。それだけならまだしも、彼の正体は卑怯な臆病者だった。何一つ変わっていないのだ、自分を守るために嘘を吐いたあの日から。
セイジ兄ちゃんは『彼女』の近くにいるようだった。
『協会』では彼が今どういう立場にいるのかわからなかったが――そして『約束』に対してどういうつもりでいるのかもわからなかったが――『彼女』の傍にいることで心の安寧を得ているように見えた。
どんな形であれ、幸せがあるのであればそれでいい。なぜならユウマとて、チサトと一緒にいることで幸せのようなものを手にしているのだから。
そう思うことにした。それでもいいと思えた。
少なくとも、あの事件が起こるまでは。