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第20話:一の章「蔵、記憶、若者」



 一ノ瀬が閉じ込められたのは、蔵のような建物だった。

 男たちは一ノ瀬の手首を後ろ手に縛ってこの蔵に放り込み、鉄の扉を閉めた。一旦締め切ってしまうとこの蔵の中は完全な暗闇で、照明はおろか一筋の光も差し込んで来ない。

 試しにあらん限りの声を張り上げて叫んだり、扉への体当たりを試みたものの、何の反応もない。男たちは一ノ瀬を閉じ込めてから、その場所を離れてしまったのかもしれない。そう言えば、誰かに報告するというようなことを言っていたような気もする。

 一ノ瀬は中から助けを求めるのをとりあえず諦め、壁際に腰を下ろす。壁は硬質な冷たさを持っており、一ノ瀬の背中をしんと冷やす。深くため息をつき、これからどうすべきか考える。

 とは言え、今彼女にできることは非常に限定的だ。手の自由も奪われ、ろくな身動きも取れない。せいぜい大声を出すくらいが関の山だが、ここへ至るまでに通ってきた道のりを思い出す限りこの蔵の周辺に民家はなく、誰かが偶然気づいてくれる可能性は限りなく無に近い。万が一誰かが気づいたとしても、彼女を簡単に解放してくれるとも限らない。あの男たちに乱暴されなかっただけでも、感謝すべきなのだろう。

 ふとポケットに携帯端末を入れてきたことを思い出し、身を捻って取り出すが、画面には『圏外』の二文字が無情に並んでいる。時刻は午前一時七分。明日――いや、もう今日か――が休みで良かったと、やけに冷静に考える。

 私があの小屋から抜け出したことに、『追放者』の男性は気づいただろうか。私のことを探しまわっているかもしれない、と一ノ瀬は思う。

 一ノ瀬は仕方なく、自分の行動の軽率さについて改めて考えを巡らせることにする。何しろ時間はたっぷりありそうだ。

 知里に連れられてこの得体の知れない『村』に来て、『追放者』の男から日本政府の存在を聞かされ、佐伯が政府関係者であることを知った。それだけで充分警戒して行動すべきだったのに、自分の心の中の違和感を解明したい思いだけで抜け出してしまった。それはほとんど好奇心だったと言ってもいい。『村』の存亡が危惧される状況を聞かされていたにも関わらず、また知里を無事に家に帰すという責任があったにも関わらず、自分自身の好奇心に負けてしまったのはあまりに幼稚だ。

 しかしながら、自分の中に無視できない引っかかりがあったのもまた事実だ。

 そもそも、一ノ瀬の中にはずっと埋められない空白があった。別の言い方をすれば、暗闇で塗り潰された部分があった。

 『親』の顔を知らないこと、『家族』という感覚がわからないことに加えて、幼少期の思い出が彼女には全くなかったのである。

 遡ることのできる記憶は、第三十八自治区内の孤児院のような施設にいたのが最初だ。どういう経緯でそこにいたのかはわからないが、とにかく彼女にはその施設内ではあまり居場所がなかった。見知らぬものだらけだったし、彼女には自分の名前ぐらいしかアイデンティティを補足できるものがなかったのだ。

 程なくして一ノ瀬家に引き取られたので、そのひどくぼんやりした時期のことはもう幻のようにしか思い出せない。今となってはその前段階が記憶として欠落しているのかどうかすら、特別に意識しなければ曖昧だ。

 だが知里に出会って以降、違和感や既視感を覚えるたびにその暗闇の部分は徐々に存在感を増していた。『村』に来てからは、更にそれが強くなった。

 もしかして――と一ノ瀬は思う。もしかして、私は以前この『村』に来たことがあるのではないか。つまり、その暗闇の時代の間に。

 感覚としてはほぼ確信に近かったが、それを証明できるものは何もない。

 ひとしきり考えたものの、結局はここからどう脱出するかということが現在最も重要な問題であることに変わりはないのだ。



 鉄の扉のきしむ音で、一ノ瀬は我に返った。

 暗闇に目が馴染み過ぎて眠っていたのか起きていたのかすら不確かだったが、その音は紛れもなく現実のものだ。やがて正面の闇がわずかに割れ、その中央部分にあたたかい橙色の灯りが現れる。自然の炎の灯りだ、と一ノ瀬は思う。

 扉が開けられたことに安堵を覚えながらも、次の瞬間には誰がそこにいるのか、自分の身に何が起ころうとしているのかという懸念に、ぼんやりしていた脳が急速に覚醒する。頭痛は相変わらずそこに重く居座っている。

 ランプを持った人物が、更に扉を押し広げて蔵の中に入ってくる。するとそれまで闇に支配されていた空間が一気にぱっと照らし出される。闇に慣れ切っていた瞳孔はその光を咄嗟に受け切れず、一ノ瀬は思わず顔をしかめてぎゅっと目蓋を閉じる。

 恐る恐る開ける薄目は、目の前に人影を捉える。大人の男性のようだ。

 彼は一ノ瀬の傍まで来ると静かにしゃがみ込み、彼女に目線を合わせる。

「こんばんは」

 若い男の声だ。

「あなたは……?」

「僕はこの村で『教師』をしている者です」

 徐々に慣れてきた目にぼんやり浮かび上がるように映るのは、線の細い、端正な顔立ちの若者の姿だ。年齢は二十歳前後だろうか。その瞳には表情というものがなく、暗い影をたたえている。

「あなた、どうやってこの村に入ってきたんですか?」

 彼は抑揚なくそう言う。問い質す訳でも、咎める訳でもない口調だ。それが却って、何か底知れぬものを感じさせる。

「え、と……。あの、私は第三十八自治区治安警備局の者です。こちらの『村』の知里ちゃんという女の子を保護したので、おうちに送り届けに来たんです」

 一ノ瀬は正直に言う。少なくとも教師という立場の人であれば、それなりにきちんとした人物だろうと思ったのだ。

「……チサトを?」

「えぇ」

 彼は、一瞬驚いたように目を見開く。そして顎に手をあて、何かを考えるように眉根を寄せる。その表情の変化に、一ノ瀬はもしやと思う。

「ねぇ、あの、ひょっとして知里ちゃんの『お兄ちゃん』は、あなたですか?」

 若者は一ノ瀬に視線を戻す。しかし彼女の言葉の続きを待つかのように、彼は無言を返すのみだ。一ノ瀬はそれを肯定と受け取り、毅然とした声で言う。

「知里ちゃんに、お兄ちゃんを助けて、と言われました。あなたが何か計画を立てているということも、聞きました」

 彼はいっさいの表情を変えずに、じっと一ノ瀬の目に視線を注ぐ。それに一瞬たじろぎそうになるが、彼女は話を続ける。

「……あなたの計画については、私はとやかく言える立場ではありません。でも知里ちゃんは、あなたと今まで通り暮らしたいと言っています。だから――」

「あなたは」

 若者が一ノ瀬の言葉を遮る。その声はぴしゃりと響き、蔵の中に余韻を残す。一ノ瀬は思わず口をつぐむ。

「――治安警備局、と言いましたか?」

「え? えぇ、そうですけど……」

 彼は更にまじまじと一ノ瀬の顔を見つめる。一ノ瀬は動揺を隠し、唇を引き結んで睨み返す。

 ふいに、若者の手が一ノ瀬の方に延ばされる。彼女は一瞬びくりとして身をすくませる。彼は一ノ瀬の頬にそっと触れたかと思うと、後ろで一纏めにしている髪をするりと解く。彼女の長い髪がぱさりと肩口に落ち、頬にかかる。

 今や息がかかりそうなほどの至近距離に、相手の顔がある。彼はわずかに目を細める。そのビー玉のような瞳に映るランプの灯がゆらりと揺れる。

「あなただったのか」

 静かに言葉を吐き出す若者の唇が、にわかに笑みを形作る。その微笑みはどこか狂気を孕んでおり、一ノ瀬はぞくりとする。

 やおら彼は立ち上がり、一ノ瀬に背を向ける。

 一ノ瀬ははっとして、声を上げる。

「ねぇ、ちょっと待って! ……あなた――誰?」

 彼は一瞬立ち止まり、少しだけ振り返って口を開く。

「――あなたは『外』に帰った方がいい。もはやこの『村』で起こることは、あなたには関係のないことなんだ」

 若者は一ノ瀬の質問には答えずにそれだけ言うと、再び扉を閉めようとする。

「あっ、ちょっと! だったらここから出して――」

 一ノ瀬の抗議も虚しく光の入り口はあっという間に狭くなり、重い音を立てて再び暗闇の世界が構築される。風のように過ぎ去った出来事に、一ノ瀬は一人呆然とする。



 闇は先ほどよりも深く、一ノ瀬の心の中まで忍び込んでくる。

 正体不明の思考の渦が、心臓からこんこんと湧きあがって全身を駆け巡っている。

 彼女の身体が必死に悲鳴を上げながら、脳に何かを訴えかけているかのように思える。

 今のは、今の若者は――。

 知っている、はず。私は知っているはず。忘れてはいけない、大切なことを。

 ますます激しくなる頭痛。

 全身が心臓になったかのように、一ノ瀬の全てが脈を打っている。

 なぜ忘れてしまったのか、どうして思い出せないのか。

 ――わからない。

 絶え間ない痛みの波。それは断続的に彼女を襲い、正常な思考を奪う。

 こめかみの辺りから流れ出した砂嵐が暗闇の視界を覆い尽くし、幾度も幾度も寄せては返しながら万物の輪郭をさらっていく。その向こう側で何かの感情の切れ端が新たな像を結ぼうとするが、その形を捉え切る前に消失する。

 痛みすらもはや、原型を留めてはいない。

 振動と、反響と、点滅――。

 その波がピークに達した時、彼女はついに意識を手放した。



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