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第1話:全の章「村の少年」


「――王子と姫は結ばれて夫婦となり、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」

 男の口から語られる童話は、そんなふうに幕を閉じた。

 絵本を閉じるパタンという乾いた音が、やけに部屋の中に響いた。窓の外では音もなく日が傾いていき、鬱蒼とした木々の陰ごしに家の中を照らし出した。木目の壁はきっちりとしており、湿気以外のものの侵入を拒んでいた。まるで世界からこの空間だけがそっくり切り取られているかのようだ。

 彼の話に耳を傾けていた二人の子どもは、互いに顔を見合わせた。正確に言うと、二人のうち少女の方がもう一方の少年の顔を見たので、それにつられて少年も少女の顔を見返したのだ。

「ねぇおじさん、『結ばれてフウフとなる』ってどういうこと?」

 少女は首を傾げてそう尋ねた。眉のところで切りそろえられたまっすぐな前髪が、さらりと揺れた。男を見つめる瞳には理知的な光が灯っていた。

 少女の問いに、男は軽く苦笑した。

「うん、どう説明したものかな。君たちにはちょっと難しいかもしれないね」

 少女は眉根を寄せ、不満そうに口を尖らせた。

 彼女の隣にいた幼い少年は、その年上の少女の表情の変化を不思議な気持ちで見ていた。

「あぁ、ごめん、君の頭が悪いという意味で言ったんじゃないんだ。君が賢い子だということは私もよく知っている。私が言いたかったのは、つまりその――君たちの今の生活には存在しない概念だから、うまく説明できるかわからないってことだよ」

「ガイネン?」

 少女は更に首を捻った。そこで男はひとつ咳払いをした。

「そうだ。このことを説明しようとすると、『外』の世界の仕組みを説明しなくちゃならないからね。いくら私とはいえ、そしていくら君とはいえ、これがすんなり行くかどうかは難しい。簡単に言えば、『結ばれて夫婦となる』ということは、つまり二人が『結婚』したということなんだ。『結婚』、聞いたことあるかい?」

 彼女は首を横に振った。

「それまで他人だった男と女が、家族になる約束をするんだ。そして一つの家で一緒に生活をする。やがて二人の間には子供が生まれて、家族が増える。『外』ではそういう制度になっているんだ」

「『カゾク』は単家(たんか)のこと?」

「うん、単家みたいなものだ。この村では単家は『協会』によって決められるけど、『外』の世界では誰と家族になるのか自分で決めることができる」

 男はそこで言葉を切り、間を取った。少女は口元に手をあて、しばらく考え込んだ。

「……好きな人と一緒の単家になれるってこと?」

 男は大きく頷き、微笑んだ。

「まぁそんなところだ。さっきの話では、王子と姫はお互いのことが好きで一緒になることができた。だから幸せになったということなんだ。『結婚』とは、ごく簡単に言えばそういうことだ」

「それならわかった」

 その説明を聞いて、少女はようやく頷いた。

 少年は二人のやりとりをじっと聞いていたが、もちろんさっぱり理解できなかった。しかし少女の満足そうな表情を見て、彼も嬉しくなった。

 男は二人の顔を順に見ると、ぱんと手を叩いた。

「さぁ君たち、そろそろ帰らないと。単家の人たちが心配するぞ」

「単家の人たちには、セイジ兄ちゃんのところにいるって言ってあるから大丈夫」

「つまり、ここにいることがばれたらまずいんだろう?」

 男が苦笑しながら言った。少女ははっとして、少し顔を赤くして俯いた。

「……ごめんなさい」

「いや、いいんだ。そうじゃなきゃ、こんな森の奥に一人で住んじゃいないさ。今日はもう日が暮れる。ここにはいつでも来るといい」

 少女はしぶしぶ頷き、立ち上がった。それにつられるようにして、少年も慌てて動いた。

「おじさん、今日はありがとう。『ケッコン』のお話、面白かった」

「いいや。わかっているとは思うが、その話は……」

 玄関で二人を見送る男は、少し困ったような顔で口を濁した。

「うん、わかってる。私たちとおじさんの秘密、でしょう?」

 少女が微笑むと、男は小さく息をついた。そんな二人の様子を、少年は黙って見上げていた。

「じゃあ、気をつけて帰るんだよ」

 二人は男に手を振り、その小屋を後にした。



 少年は自分の手を引いて歩く少女の横顔を、そっと見上げていた。

 夕暮れ時の森は薄暗く、辺りにはじっとりとした湿気が漂っていて気味が悪かったが、少女の手のあたたかさがそれをやわらげた。

 彼女の視線は空に張り付いた北極星に固定されていた。それは家に帰ろうとする子どもの目ではなく、遠い真実を追い求める賢者の目だった。宵闇に融ける彼女の横顔は美しかったが、この夏七歳になったばかりの彼は『美しい』という概念をまだ知らなかった。ただ、心細い森の中を先へと導く彼女の存在に、心強さにも似た高揚感を覚えていたのである。

 少年は少女に話しかけた。

「ねぇ、チィ姉ちゃん」

「うん」

 チィ姉ちゃんと呼ばれた少女は短く返事をしたが、その声はぽかんと宙に浮いた。

「あのおじさんのところにいたことは、ハルじいさんやケイコおばさんには内緒?」

 チィ姉ちゃんははっと少年の方を向いた。

「うん、この前も言ったじゃない。内緒よ、絶対内緒」

「どうして?」

「どうしてって、それは……あのおじさんが、『追放者』だからよ」

「『ツイホウシャ』ってなに?」

 彼女の意識が自分の方へ向いたのをいいことに、彼は次々に質問をした。もとより、いろいろなことを聞きたい盛りの年頃だ。

「ええと……とにかく、本当はあのおじさんと話をしちゃいけない掟になってるの。だからそれを破ったことが他の大人にばれたら、きっとひどく怒られるわ。ううん、怒られるだけじゃ済まないかも。おしおき部屋に入れられて、一生出してもらえないかもしれないわ」

 彼女がこわい顔で言ったので、彼は不安になった。自分たちがあのおじさんの家にいたことは、とんでもなく悪いことなのかもしれない。

「……セイジ兄ちゃんは?」

「セイジ兄ちゃんは私たちの味方だから、話しても大丈夫。でもその他の人には、絶対に言っちゃだめよ」

「……わかった。僕、内緒にする」

 少年のその言葉を聞いて、チィ姉ちゃんはようやくにっこりとした。

 しかし彼の心には、重く不穏な影がずしりと腰を下ろしていた。時折カラスの鳴き声が不気味に響くほかは、がさがさと小路の雑草を踏む二人の足音が断続的に聞こえるだけだった。身体にまとわりつく湿気が、冷たい汗を引き出した。彼は思わず、チィ姉ちゃんの手をぎゅっと握った。彼女の細い手首に嵌まった木の腕環がするりと落ち、彼の手に当たった。

「見て、ユウマ。チェシャ猫が笑っているわ」

 少女の声に、少年は顔を上げた。

 少女が指さす先の空にはごく細い下限の月が寝転んでいた。それは確かに、にやりと笑ったチェシャ猫の口元のように見えた。『不思議の国のアリス』の話も、少し前にあの男から聞いたものだった。物語の中でその猫はアリスに意地悪を言って、道を教えずに消えてしまったのだ。

「本当だ。こわいね」

 チィ姉ちゃんは、ふふ、と口元で笑った。

「大丈夫よ。ほら、村が見えてきたわ」

 視線を空から正面に戻すと、家々の灯りが目に入った。ユウマはほっと息をついた。


 チィ姉ちゃんはユウマを家まで送り届けてくれた。

 その木造の簡素な住居の玄関で出迎えたのは、ひどく痩せた中年の女だった。彼女は神経質な微笑みを口元に作り、ユウマの背をぽんと叩いた。

「チィちゃん、いつもありがとうね。ほら、ユウマもお礼を言いなさい」

 チィ姉ちゃんはにこりと微笑んだ。

「いいえ、ケイコおばさん。ユウマはずっといい子にしてましたから」

 二人の間で行われるやりとりを、ユウマはむずむずとした気持ちで聞いていた。

「じゃあユウマ、また明日学校でね」



 チィ姉ちゃんが行ってしまうと、ユウマはひどく心許ない気持ちになった。ケイコおばさんのことは少し苦手だ。家の中には野菜の煮込みの匂いが満ちていたが、できることなら夕飯も食べずに、秘密と共に布団に潜り込んで眠ってしまいたかった。

「さぁ、もうごはんよ」

 ケイコおばさんに促されて、ユウマは食卓に着いた。既に彼の単家の人々はそれぞれの席に座って彼を待っていた。

「さぁ、手を合わせて。天主さまの恵みのもとに」

 天主さまの恵みのもとに。この単家で最年長のハルじいさんの声に続き、皆目を閉じて口々に復唱した。ユウマももごもごとした声で、それを唱えた。

 日常生活を送るために、たくさんの掟があった。単家の全員がそろって食事をすることや食事の前のあいさつは、そのほんの一部だった。ここでは掟を破ることが、何よりもの悪とされていた。夕飯を取らないなどという大それたことは、ユウマにはとてもできそうになかった。

 単家替えがあってまだ半年。ユウマはこの新しい単家に居場所を見つけられずにいた。単家替えは三年に一度なので、まだあと二年半もこの単家で過ごさなければならない。そう思うと、ユウマの心は暗く翳った。

 だから自分の単家から離れ、チィ姉ちゃんやセイジ兄ちゃんと一緒にいられる昼間の時間こそが、彼にとってほっと息をつける大切なときだった。夜の時間は何より恐ろしい。

「ユウマ、よく噛んで食べるのよ」

「はい、ミサ姉ちゃん」

 ユウマの隣に座っている二十歳前後の女は、じろりと横目だけで彼を見た。彼はこのミサ姉ちゃんのことも苦手だった。彼を見る目が妙に意地悪なのだ。

 秘密がばれたらどうしよう。

 ユウマはひどく不安な気持ちで味のしない料理を口に運んだ。正面のハルじいさんを見ると、彼は少しだけにこりとして見せた。何だか心を見透かされたような気分になったが、ユウマは黙々と食事を続けた。もとより食事の間はお喋りをしてはいけない掟だ。彼はそのことに人知れず感謝した。


 夕飯が終わると、ユウマは寝る準備を始めた。

 風呂の日は三日に一回という決まりだった。今日は風呂の日ではなかったため、夕飯が終れば皆すぐに就寝準備にかかる。まだ幼い彼は食事を取ると眠くなるので、風呂でない日は嬉しかった。

 ランプの灯を消すのが、単家内でのユウマの夜の役目だった。皆がそれぞれの布団に正座し就寝の祈りを唱えた後で、彼は灯りを消した。するとたちまち家の中は闇に包まれた。

 ユウマはすばやく布団に潜り込み、目を瞑った。目を閉じて見える闇の方が、彼には明るく思えた。その闇の中にチェシャ猫の笑顔を思い浮かべながら、彼の意識はまもなく沈んでいった。



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