第１７話：一の章「村へ・前」
「知里ちゃん、本当にここ？ ただの岩にしか見えないんだけど」
目の前には、一ノ瀬の腰ほどの高さの岩。それはまさしく今日の午前中に一ノ瀬が見かけた岩であり、佐伯の部屋にあった地図の×印の場所だ。
大きめの懐中電灯を持ってきたのだが、特定方向しか照らせないので視野はかなり狭い。一ノ瀬は携帯端末のＧＰＳ機能を利用しつつ、知里を連れて目的の場所を探した。昼間でもどこか陰鬱とした雰囲気だった森は、その身に纏う闇を一層濃くしていた。湿気すらひやりとしている。一旦ぐるりと見回したら、すぐに自分がどちらの方向を向いているのかわからなくなった。端末の画面と周囲の地形に交互に目を這わせながら、岩の場所に巡り着くまでに一時間以上の時間を要した。体力にはそれなりに自信のある一ノ瀬だが、夜目の効かない暗い森を進むのは普段とは違う神経を遣う。
苦労して辿り着いた岩は、木ばかりが生える森の中に突然現れたようにも思えるが、それ以外はやはり特に何の変哲もない岩である。ましてや『村』の入り口などには到底見えない。
知里はやおら岩の足元にしゃがみこみ、細い指で地面をなぞる。やがて知里は取っ手のようなものを探り当て、思い切りよく引っ張り上げる。するとその『蓋』はぱこんと音を立てて口を開ける。
「これが『村』の入り口？」
「そうです」
昼間の明るさでもまったく気付かなかった。知らなければ絶対にわからない入り口だ。
一ノ瀬はその縦穴の中を懐中電灯で照らす。マンホール程度の大きさのそれは、壁面に小さな梯子がついている。
「ついて来てください」
知里はそう言うと、呆気に取られる一ノ瀬を置いてするりと穴の中に入り、梯子を下る。一ノ瀬は慌てて懐中電灯の取っ手の紐をベルトに通して両手を空け、知里に続く。不思議の国に行ったアリスも、最初はうさぎの縦穴に落ちていったのだ。
縦穴はそれほど深くなく、梯子を五メートルほど下りたところで足が地面に着く。そこからは、横に伸びるトンネルになっている。コンクリートの壁で囲われた横穴は、身長百五十七センチの一ノ瀬が背筋を伸ばして立ってもまだ随分と頭上に余裕がある。これなら彼女より頭一つ分大きい佐伯も腰をかがめずに通れるだろう。ふとそんなことを思う。
「それにしてもこんな隠し通路からじゃないと行けない知里ちゃんの『村』って、一体何なの？ 知里ちゃんはこれまで、『村』の外に出たことはあった？」
知里は首を横に振る。
「私は生まれてからずっと、村の中で暮らしていました。『外』に出たのはこれが初めてです」
二人の声と足音はトンネルの中に反響する。そのことが、まだこの道がしばらく続くということを教えている。
「どんなところなの？」
「村の人は皆規則正しい生活をしています。日の出とともに起きて、大人たちはそれぞれ与えられた役割で仕事をして、子どもたちは学校へ行って大人になるためにいろんなことを学びます」
「ふぅん。日の出とともに一日が始まるなんて、随分早起きだね」
「基本的に、日が出ている間しか活動してはいけない決まりなんです。だから私、いろんな時間に寝たり起きたりしたのって、初めてで」
知里の声に少し笑みが混ざる。そういう反応を見る限りは普通の少女なのに、と思う。
そのまましばらく進んでいくと、横穴は唐突に終わる。
突然正面に現れた壁には、入り口と同じような梯子が取り付けられており、まっすぐ上方に伸びている。知里が躊躇いなく梯子を上っていくので、一ノ瀬もそれに続く。
梯子の途切れたところで、知里は天井を思い切り押し上げる。するとぱこん、と先ほど聞いたのと同じ音がして、『蓋』が開く。
穴を這い出た先は、これまた森の中だ。心なしか妙な甘い匂いがする。
「これはさっきと同じ森？ あの穴を通らないと来れないの？」
「はい、あの通路が、村と『外』をつなぐただ一つの道です。私について来てください」
知里は一ノ瀬の手を取り、どんよりと暗い森の中を進んで行く。一ノ瀬は空いた手で懐中電灯を握り、行く先を照らす。上を見上げると、満月に近い形の大きな月が夜空に煌々と輝いている。普段の電気のある生活の中ではあまり気に留めないことだが、こうして見ると月は随分と明るい。懐中電灯の明かりだけで知里が迷いなく森を歩けるのは、月のおかげなのかもしれない。
森をしばらく行くと、小さなログハウスが現れる。知里はその小屋の扉の前に立ち、ノックする。その独特のリズムが、妙に頭の中にこだまする。
ややあって扉が開かれ、中から男性が顔を出す。
彼は生成りの生地でできた長袖に、同じ地でゆったりとしたズボンを身につけている。白髪混じりの髪とも相まって、どことなく仙人を彷彿とさせる風貌だ。
「ただいま、おじさん」
「……チサト？ 帰って来たのか……」
男性は知里に声をかけた後に一ノ瀬の顔を見やり、驚いたように目を見開く。しかし彼は無言のまま、二人を小屋の中へと促す。
一ノ瀬は曖昧に会釈をして、その得体の知れない小屋へそろりと足を踏み入れる。
その小屋は、非常にシンプルなつくりのログハウスだった。
まず扉をくぐった正面に木の机と椅子のセットが置かれているのが目に入る。中は二十畳ほどの広さで仕切りはなく、左手奥に簡素なベッドがある。家具と呼べるようなものは極端に少ない。テレビとか、冷蔵庫とか、普段の生活で見るような家電も一切見当たらない。辛うじて壁伝いに棚が設置されている程度だ。随分と薄暗いと思ったら、なんと照明はランプだ。どうりで影が揺れている訳だ。
「一ノ瀬？」
その見慣れぬ雰囲気の小屋の中には、見慣れた同僚の男がいた。
しかし彼はいつもの制服ではなく、男性と同じような生成りの服を着ている。
「……佐伯」
「どうしてここに来た？」
「どうしてって、知里ちゃんを家まで送り届けに来たのよ」
佐伯は一ノ瀬の隣の知里に目をやる。その表情は、今まで見たことがないほど険しい。知里は思わず一ノ瀬の後ろに隠れる。
「一ノ瀬、彼女を連れてきてくれてありがとう。だがもう夜遅いから、帰った方がいい」
「え？」
「帰り道はわかるか？ 暗いから気をつけて帰れよ」
佐伯は一ノ瀬の背を押し、玄関へ連れ出そうとする。
「ちょ、ちょっと。私は佐伯に、聞きたいことが山ほどあるのよ。一体どうして――」
「いいから！」
突然佐伯が出した大きな声に、一ノ瀬はびくりと身を震わせる。穏やかなこの男がこんな風に大声を出すのを、初めて聞いた。
「……早く帰れ。一ノ瀬には関係のないことなんだ」
一転落とした声で目を逸らしながら言う佐伯に、一ノ瀬の中で何かが外れる。
「何、それ。どこが関係ないって言うの？ 昨日まで一緒に働いてたのに、一言の相談もなく勝手に仕事辞めて……一体どういうつもりなの？ 大体私は、知里ちゃんをきちんと家まで送り届ける責任があるの。というか、知里ちゃんをここにすんなり帰していいのか、ちゃんと調べる必要があるの。佐伯だってわかるでしょう？ 同じ仕事してたんだから。大体ね――」
「一ノ瀬」
早口で捲し立てる一ノ瀬を、再び佐伯が遮る。今度は静かな声だったが、何か底知れぬ重みがあり、一ノ瀬はまた口をつぐむ。佐伯の表情はひどく強張り、瞳には懇願にも似た色が過る。
「頼むから、帰ってくれ。一ノ瀬を巻き込みたくないんだ」
「何よ、それ。一体どういう……」
一触即発の二人に、横から男性が口を挟む。
「まぁ二人とも、少し落ち着きなさい。お嬢さん、あなたは――」
「一ノ瀬です。第三十八治安警備局の。佐伯とは同じ職場でした、昨日まで」
一ノ瀬は横目で佐伯を睨む。佐伯は視線を逸らし、息を吐く。
「知里ちゃんの家は……お兄ちゃんはどこにいるんです？ とりあえず、ご家族の方と話をさせてください」
「イチノセさん、その件は我々でどうにかします。だから――」
「みなさん大抵、そうおっしゃるんですよ。でもどうにかできていたら、そもそも初めから問題なんて起きなかった。違いますか？」
男性は口を閉ざす。
一ノ瀬は部屋の中を見渡す。ランプの灯が揺れるたび、部屋全体が伸び縮みしているかのような錯覚に陥る。森の中から続く甘い匂いは既に意識の下に潜り込んでいるが、何だかこめかみの辺りをじわじわと圧迫するような頭痛がする。
「それに、この『村』。一体何なんです？ 地図にも載ってないですし、航空写真にも写っていない。私、この仕事をして八年目ですが、こんなところに『村』があるなんて知りませんでした。しかも入り口はあんなふうに隠されていた。一体、何なんです？ 本当のことを教えてください」
「一ノ瀬、それは――」
佐伯が口を開いたところを、男性が制する。
「――仕方ない、いずれにせよ見られてしまったからには、本当のことを話しましょう。ただし、『外』の誰にも言わないでください」
一ノ瀬は軽く眉根を寄せる。
「……話の内容にも拠りますが、心掛けます」
