第16話:全の章「外へ・後」
「村人はこの村から出てはいけないことになっている」
ユウマとセイジ兄ちゃんが『追放者』の小屋を訪れた六日目の夕方、彼はそう言った。
「この村に、出口はある。いや、『入り口』と言った方がいいのかな。『豊穣祭』の時に『協会』の関係の男が来ているのを見たことがあるだろう」
「それは俺も気になりました。あの人はどこから来ているんですか?」
「村の出入り口は、私が知っている。この村が『協会』によって管理されているのは君たちも知っているだろう。彼は村の様子の確認のために、その出入り口を通って村に来ている。つまり物理的に村への出入りはできるということだ。しかし、村人が『外』に出ることは許されていない。なぜなら――」
「この村の存在が、『外』では秘密だから――ですか?」
セイジ兄ちゃんが言葉を引き継ぐように言うと、『追放者』は大きく頷いた。
「そうだ。もしあの子が姿を消したことが村人に知れたら、ひどい騒ぎになる。だから彼女を『外』に逃がすのであれば、彼女は死んだと皆に思わせねばならない」
「それは……どうやって?」
村の者が死んだ時には、それなりの儀式がある。遺体がなければその儀式も行えない。
『追放者』は話を続ける。
「香を使って村人に催眠をかけ、彼女が死んだと思い込ませる」
セイジ兄ちゃんは軽く目を見開いた。
「あの香はやはり――」
「気づいていたか。あれは人を朦朧とさせ、深層の意識を操るための麻薬の一種だ。あれを使って、私が村人に催眠をかけよう」
「……あなたは一体、何者なんですか?」
セイジ兄ちゃんが眉根を寄せて尋ねた。『追放者』は静かに答えた。
「私はかつて、この村で『教師』をしていた。しかし他の連中と考えが合わなくなり、気づいたら危険思想の持ち主と言われてね。それ以来、『追放』されてここにいる」
『豊穣祭』からちょうど半月の今日は、朔の日だ。辺りは深い闇に支配されていた。辛うじて星々の瞬きだけが、空と地上の違いを教えていた。時折吹く風がさわさわと木々を揺らす音の他は、全てのものが正しく沈黙を守っていた。そこはまるで万物が死に絶えたかのような世界だった。
ランプの光が闇を切り裂いて、二人は走り続けた。村のほぼ中央に位置する集会場から『懲罰房』までは、実際それほど距離はない。しかし今夜に限っては、いくら息を急いて走れどもなかなか辿り着かなかった。暗闇が彼女に続く道のりを引き延ばしている。そうとしか思えなかった。
ユウマの心臓が激しい鼓動に耐えられなくなったころ、ようやく『懲罰房』に到着した。
セイジ兄ちゃんはランプで鍵穴を照らしながら解錠し、その重い鉄の扉を力いっぱい押し開けた。
「チィ! 無事か!」
扉を開けてまず彼らの鼻を突いたのは、むせ返るほどの甘い香の匂いと、それにかすかに混じる排泄物の臭いだった。蔵の中を充満していた澱んだ空気が一気に外へと漏れ出し、少年二人をわずかに躊躇させた。
蔵の中の暗闇は一層濃かった。それは死の気配にも似ていた。ランプを蔵の中へ差し入れると、中の様子が一息に照らし出された。
チィ姉ちゃんは、『懲罰房』の端に蹲るようにして倒れていた。
「チィ!」
セイジ兄ちゃんは彼女に掛け寄り、ランプを足元に置いてその身体を抱き起した。
ユウマはなお蔵の入り口に立ち尽くし、その光景をまるで夢の中の出来事のように眺めていた。力なく横たわるチィ姉ちゃんは、ユウマの目には死んでいるようにしか見えなかったのだ。
手遅れだったかもしれない。
ユウマにとって『死』というものはひたすらに正体が知れず、底知れぬほど冷たいものだった。それが今チィ姉ちゃんの身体を蝕みつつあるということが、ユウマには堪らなく恐ろしかった。
セイジ兄ちゃんは何度もチィ姉ちゃんの名を呼び、身体を揺すり、頬を叩いた。その度に枯れ枝のように細い彼女の手足が、彼女の意思とは無関係に揺れた。左手首の腕環が地面に当たり、小さな音を立てた。セイジ兄ちゃんは彼女の口の前に手をかざし、呼吸を確かめた。
「……まだ、生きてる」
セイジ兄ちゃんはチィ姉ちゃんを抱え上げ、蔵の外へと運び出した。彼女を一旦地面に下ろし、ランプも外に出した後、鉄の扉を再び閉ざし、かちりと施錠した。
ユウマは地面に横たわるチィ姉ちゃんの手をそっと握ってみた。その手は生き物として最低限の体温は持っていたものの、ユウマの知る彼女の手とは比べ物にならないほどひやりとしていた。
「俺がチィをおぶって行くから、ユウマはランプを持ってくれ」
セイジ兄ちゃんは彼女の腕を取り、その細い身体を背負った。ユウマがランプを持ち上げると、少年たちは再び濃い暗闇の中へと掛け出した。
二人が『追放者』の小屋に到着するのにやや遅れて、男が帰ってきた。
「おぉ、無事だったようだね」
「……辛うじて生きていますが、ひどく衰弱しています」
チィ姉ちゃんを簡素な寝台に横たえながら、セイジ兄ちゃんはそう言った。
部屋の灯りの下で改めてみると、チィ姉ちゃんは本当に死人のような顔色をしていた。艶やかだった髪はほつれ、常にやわらかな笑みを湛えていた形の良い唇はかさかさにひび割れ、土で汚れた頬には何筋もの涙の痕があった。
「この煎じ薬を飲ませるといい」
『追放者』は、セイジ兄ちゃんにコップに入った薬と匙を手渡した。セイジ兄ちゃんはチィ姉ちゃんを抱き起しながら、彼女の唇に匙をあてがった。しかし薬は全て唇の端から流れ落ち、布団にしみを作った。
彼は少し考えた後、今度は自分で薬を含み、そのまま彼女の唇に自分の唇を押しつけた。口の端から何筋かは垂れたものの、彼女の細い喉はこくんと音を立ててそれを飲み下した。
「君たちは、恋人同士なのかい?」
「……わかりません」
そう尋ねる『追放者』に、セイジ兄ちゃんはひどく静かな声でそう応えた。ユウマはその一連の光景を、ただぼんやりと見ていた。
セイジ兄ちゃんは顔を上げ、『追放者』のほうに向き直った。
「村の人たちはどうなりました?」
「あぁ、こちらは心配ない。目を覚ますころには、皆彼女が死んだと思い込んでいるだろう。それまでに全てのことを終えねばならない」
『追放者』に案内された場所は、彼の小屋の程近くだった。
「『教師』たちは時折ここを利用する。その度に私の小屋の近くを通り、私が逃げていないか見張っているんだ。元『教師』の私は、彼らにとって要注意人物らしいからね」
そこは一見すればただの茂みだった。男は慎重な手つきでその『蓋』を探り当て、取っ手のようなものを握ると一気に引き上げた。ぱこん、と詰まっていた空気が解放されるような音がした。地面に開いた穴を覗き込むと、人が一人通れるほどの縦穴になっており、壁面には梯子が取り付けられていた。
「脱出しようとしたことはないんですか? こんなに近くに『出口』があるのに」
チィ姉ちゃんを背負ったセイジ兄ちゃんが、『追放者』に尋ねた。ランプに照らされた男の顔が、自嘲気味に笑った。
「あるよ、何度も。特に追放されて最初のうちは、頻繁にね。しかし大抵すぐに『教師』が私の逃亡に気づき、『協会』に連絡が行く。『外』へ出てどれだけ遠くへ逃げ、どれだけ巧妙に隠れようとも、『協会』に悉く見つかるんだ。そのうちに脱出しようという気はすっかりなくなった」
「……『協会』とは、一体何なんですか?」
「それを説明するのは、非常に難しい。特に今のような状況ではね。まずは彼女を逃がすのが先決だろう」
『追放者』は縦穴を見やった。
「私が先に行くから、君は彼女を背負って後に続いてくれ。坊やは、どうする?」
彼は、ずっと黙ってついてきていたユウマに尋ねた。
「……僕も行く」
ユウマは小さく応えた。『追放者』は頷くと、縦穴の中に消えていった。