第15話:全の章「外へ・前」
「いくらチィがしっかりしているとは言え、さすがに六日も『懲罰房』にいたら、やばいと思う」
渋い表情をしながら、セイジ兄ちゃんはそう言った。
授業の合間の休み時間で、教室は騒がしかった。教室の隅で囁くように話す二人の会話を、気に留める者はいない。窓から差し込む日差しは思い出したように強く、無表情に彼らの焦りを照らし出していた。
「しかしチィ自身があそこから出る気がなければ、ずっと出られない。というか、出たくないのかもしれない。もちろん、大人が引きずり出せば別だけど」
ユウマは視線を落とした。
「どうして? やっぱり僕のことを怒っているのかな……」
「いや、たぶん――あそこから出ないことが、チィの戦いなんだよ」
ユウマにはそれがどういう意味なのかわからなかったが、要するにチィ姉ちゃんは自分で『懲罰房』を出る気はないということらしい。
「そんなの、嫌だよ。チィ姉ちゃんに会いたいよ……」
また泣きそうになるユウマの頭を、セイジ兄ちゃんがわしゃわしゃと撫でた。
「そうだな、俺もそうだ。さすがに水だけで六日間、そろそろ限界のはずだ。でも出られたとして、チィは前みたいな普通の生活が送れるだろうか」
既に大人たちの間では、チィ姉ちゃんを『追放』することで話が固まりつつあった。例え彼女が心を入れ替えて掟に従って生活することを誓い、元のとおり村の一員として暮らすことを許されたとしても、一度広まった『鬼の子』という偏見は簡単にはなくならないだろう。狭い村なのだ。第一、強情な彼女が「心を入れ替える」可能性は限りなく無に近かった。
「チィに残された道は――『追放者』として生きるか、『懲罰房』の中で死ぬか。そのどちらかだ」
「チィ姉ちゃんはあのおじさんと一緒に暮らすの?」
セイジ兄ちゃんは首を横に振った。
「いや、違う。『追放者』は実はあのおじさんだけじゃないんだ。俺の知る限り、『追放者』は他にあと二人ほどいる。村外れの北と東の森、それぞれ離れた場所に家を与えられている。『追放者』は徒党を組まないように、一人ずつで集落を追い出されるんだ。つまりチィも、一人ぼっちで森の中に放り出されるってことだ」
ユウマは目を見開いた。
「そんなの――そんなの嫌だ……だって、僕のせいなのに」
「そんなこと。ユウマのせいじゃない。俺はそう思うし、チィだってきっとそう思ってる」
ユウマは俯いた。誰に何を言われても、ユウマは自分が許せなかった。
「しかし俺も、この村はおかしいと思う。あの祭はもちろんそうだし、香の葉のことも気になる。何よりユウマ、俺たちはこの村から出られないんだ」
「え?」
「俺は試しに、この村を端から端まで歩いてみた。薄暗い森がどこまでも続いていたんだけど、やがて行き止まりに突き当たった。それは高い高い壁のようなものだった。壁伝いにずっと進んで行ったけど、出口はどこにもなかった。俺たちはこの村から出られないんだよ、ユウマ」
ユウマは驚いた。
村から出る?
生まれてから一度もここから出たことのないユウマには、そもそもこの村が世界の全てだった。何せ、生活の何もかもが村の中で完結してしまうのだ。『外』の世界は、『懲罰房』の闇より深い色で塗りつぶされていた。チィ姉ちゃんが『追放者』からいろんな『外』の話を聞くのを彼も隣で聞いていたが、いつも自分とは無関係の遠い世界のことのように思っていた。
「考えてもみなよ。一体どうして『追放者』たちは、『外』へと追い出されずにこの村の中にいるんだろう? 本当に『追放』したいのであれば、この村の『外』に追い出してしまえばいいのに」
ユウマは首を横に振った。難しい話はよくわからなかった。
「――ごめん、つまり俺が言いたかったのは、チィを『外』に逃がせないかってことなんだ」
セイジ兄ちゃんの言葉に、ユウマは驚いて顔を上げた。
「この村で生きられないなら、チィは『外』で生きた方がいい。ユウマもそう思わないか?」
チィ姉ちゃんを『外』に逃がす。それについてユウマは少し考えてみたが、どういうことかうまく掴めなかった。また、真っ暗闇だ。
「俺はあの『追放者』のおじさんが何か知ってるんじゃないかと思う。今日の授業が終わったら話を聞きに行くけど、ユウマも来るか?」
ユウマはとりあえず頷いた。チィ姉ちゃんを助ける糸口は、少なくともそこにしかなさそうだった。
授業後、ユウマとセイジ兄ちゃんは『追放者』の家へと向かった。
まだ日は高く、森の木々は穏やかな表情をしていた。チィ姉ちゃんに連れられて来た時にはひどく不気味に感じた道だが、今や彼女を助ける唯一の可能性に続く道だと思えば、不思議と怖くはなかった。森に入っていくところを誰かに見られないように用心しながら、二人は先を急いだ。
程なくして『追放者』の家に到着した。ユウマは玄関に立ち、チィ姉ちゃんがやっていたのと同じように一定の間隔でその木の扉を叩いた。ややあって開かれた扉の向こうから顔を覗かせた『追放者』は、二人の姿を認めると少し驚いたような顔をした。しかし少年たちの真剣な眼差しに、男は何を尋ねることもなく、静かに彼らを招き入れた。
「チィが『懲罰房』に入れられました」
勧められた椅子に座るなり、セイジ兄ちゃんが口を開いた。
「この場所を何度も訪れていたことを、大人に見つかったんです」
『追放者』は表情を替えずに、じっとセイジ兄ちゃんの顔を見つめた。
「もう六日目になりますが、チィは一向に出てきません。チィ自身が、頑なに外へ出ることを拒んでいるようです。一方で、大人たちはチィを異端者として『追放』することを決めました。このままではチィは『懲罰房』の中で衰弱死するか、あなたと同じように『追放者』として森の中で暮らすか、どちらかしかありません」
「それで君は、私を責めに来たのか」
『追放者』は抑揚のない声で訊いた。セイジ兄ちゃんは首を横に振った。
「違う、そんなことでここへ来たんじゃありません。俺は――俺たちは、チィを助けたいんです。できれば『外』に、この村の『外』にチィを逃がしたいと考えています。でも俺の調べた限りでは、この村に出口はありませんでした。あなたなら何か知っているんじゃないかと思って、ここへ来たんです」
木目の壁で区切られた部屋の中を、沈黙が満たした。外ではカラスが一声、戒めのようにカァと鳴いた。
「それは、あの子が望んだことなのかい?」
「え――」
「あの子自身が村の『外』へ出たいと、そう言ったのかい?」
「それは……」
「確かに私は、あの子に『外』の世界の話をした。だがあの子は『外』に行きたいなんてことは一度も言わなかった。この村での生活に疑問を持っていたことは確かだろうが、ここから逃げたいなんてことは、私の知る限り口にしなかった。なぜだと思う?」
セイジ兄ちゃんは静かに首を横に振った。
「あの子は君や坊やの話をよくしていたよ。それは楽しそうに、話していた。君たちのことがとても好きだったんだ。そんな彼女が君たちを置いて一人で『外』に逃げることを、望むと思うのか? あの子はただ、真実を求めていた。この村において、真実を追い求め自分を貫く存在であろうとしていた。『懲罰房』から六日も出ずにいるのであれば、それが彼女の意志なんだろう」
セイジ兄ちゃんはすっかり口をつぐみ、俯いた。
『追放者』の瞳は険しく、まるで罪を咎めるかのようにセイジ兄ちゃんを射抜いた。
外では相変わらず、カラスがカァ、カァと声を上げていた。その警告のような鳴き声は徐々に大きく、突き刺さるように鋭くなってきていた。
「……僕は嫌だ」
それまで沈黙を守っていたユウマが、突然口を開いた。
「僕は嫌だ。チィ姉ちゃんがあの小屋の中で死んだり、森の中で辛い暮らしをするのなんて、嫌だ」
ユウマの声は小さかったが、しっかりとした口調だった。『追放者』はなだめるような声で言った。
「坊や、もしチィ姉ちゃんが『外』に出たら、一生会えなくなるんだ。それでもいいのかい?」
ユウマは目をしっかりと開き、『追放者』の顔をじっと見据えた。そして震えた声で言葉を紡いだ。
「……チィ姉ちゃんに会えなくなるのは、嫌だ。でも、チィ姉ちゃんが辛い思いをするのは、もっと嫌だ」
かたく見開いた目から大粒の涙が溢れた。ユウマはそれを拭おうともせず、男の目を捉え続けた。そんなユウマの頭に、セイジ兄ちゃんは手を置いた。
「俺も同じ気持ちです。チィの意志がどうであれ、俺たちはチィに幸せでいてほしい」
セイジ兄ちゃんは、今度はきっぱりとそう言った。まっすぐに見つめる二人の少年の眼差しを受けて、『追放者』はしばらくその瞳の中の意志を検分するかのように見つめ返した。やがて彼はしかし、ふっと口元を緩めた。
「君たちの気持ちはよくわかった。私も彼女に、幸せでいてもらいたいと思うよ」
その瞬間、小屋の中の空気がふわりと軽くなったのがわかった。二人の少年はほっとして互いに顔を見合わせた。
「この村に、出口はある。でも一人の人間を『外』に脱出させようと思うと、いくつかの問題がある。それを解決するのに、君たちも辛い思いをするだろう。生半可な覚悟じゃできないよ。それでもいいかい?」
少年たちは迷うことなく、しっかりと頷いた。
チィ姉ちゃんが『懲罰房』に入れられてから七日目の夜、村では定例集会が行われることになっていた。
これは月に一回集会場で行われるもので、村人全員が参加する。作物の出来高や、村であった出来事などが報告される会だ。
ユウマやセイジ兄ちゃんも、例に漏れず集会場にいた。
ただ一人今も『懲罰房』にいるチィ姉ちゃんを除いて、既に村人全員が集会場に集まり、今にも定例集会が始まろうとしていた。二人は顔を見合わせ、ほんの小さく頷き合った。彼らの手には濡れたハンカチが握られていた。
やがて『教師』の一人が壇上に上がり、集会は始まった。それとほぼ同時に、例の甘い香の匂いが会場じゅうに拡がった。村で集まりがある時には、大抵この香が焚かれている。しかしこの日の匂いは、いつもよりもずっと濃かった。
香の葉はいつも『教師』が管理している。セイジ兄ちゃんはこのところの『教師』の手伝いの一環で、この日の香の葉の設置も任されていた。そこでこっそりと、いつもよりも葉の量を増やしておいたのだ。ユウマとセイジ兄ちゃんはハンカチで鼻と口を塞ぎ、香を吸わないようにした。
集会は淡々と進んでいった。いつもと変わりのない手順だ。しかし進行役の『教師』の声は、徐々に水の中を進むかのように重くなり、張りを失っていった。
建物内にすっかり香が充満した頃、ほとんどの人が朦朧とした状態になっていた。
ユウマも多少香を吸い込んだため、こめかみが痺れるような感覚があったが、意識を手放すほどではなかった。セイジ兄ちゃんも眉間に皺を寄せながら、正気を保っているようだった。しかし呼吸を制限していたため、肺が新鮮な空気を欲していた。行動は手早くしなければならない。
折り重なるようにして横になった人々を避けて、セイジ兄ちゃんは『懲罰房』の差し入れ係の『教師』を探した。
子どもを含め百数十人もの人々の群れが、彼らの行く手を阻むように足元を埋め尽くしていた。逸る気持ちと今も彼らの身体への侵食を狙う香の匂いが、視界に映る状況をより判然としないものにしていた。
早く、早く。早くしないと――。
ようやく見つけ出したその男は、会場前方の『教師』たちのかたまりの中に倒れていた。二人は人波を漕ぐように、彼のほうへと歩み寄った。
セイジ兄ちゃんは彼の腰につけられた鍵をもぎ取り、ユウマの手を取って引き返した。会場の外に出るまでに何人もの人の身体を踏みつけたが、もはや気にする余裕はなかった。
「うまく行ったかい?」
集会場の外では、『追放者』の男が待っていた。ユウマは久しぶりに胸いっぱいに外の空気を吸い込み、少しむせた。
「鍵は手に入れました。中にいる人たちは、だいたい皆朦朧としています」
セイジ兄ちゃんは鍵をかざしてそう言った。
「よし、ご苦労さん。ここは私に任せて、君たちはあの子を助け出してくれ。私の小屋で合流しよう」
男の言葉にセイジ兄ちゃんは頷いた。そして集会場の外に掛けられていたランプを右手に、ユウマの右手を左手に取り、村の西はずれの『懲罰房』に向かって走り出した。