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第14話:一の章「パスタ、村、佐伯」



 知里は一ノ瀬の部屋のソファに座って、じっと自分の膝を見つめている。まるでそこに哲学の真意でも書かれているかのように、眉根を寄せて何かを考え込んでいるように見える。

 先ほどからの知里の様子は少し気になるが、それ以上に彼女が朝食を食べたきりであることのほうが気にかかり、一ノ瀬はとりあえず制服の上にエプロンを着けて夕飯の準備に取り掛かる。

 一人暮らしのキッチンには、基本的にろくな食材は揃っていない。料理は嫌いではないが、別に得意という訳でもない。それなりに栄養が摂れてお腹が膨れれば良いというのが、一ノ瀬のスタンスだ。

 フードストッカーを覗くと、運良くパスタのレトルトソースが二つ入っている。一ノ瀬は大小の鍋を取り出し、その両方に水を張って火にかける。

 水が沸騰するまでの間、冷蔵庫からキュウリとトマトと使いかけのレタスを取り出す。野菜をざっと洗ってから手早く切り刻み、直接皿に盛り付けていく。ツナ缶があったことを思い出し、サラダの上に乗せる。

 サラダが完成した時点で鍋が沸騰し始めたので、大きい方には塩大さじ二杯とパスタ二把、小さい方にはレトルトのパックを突っ込む。パスタはまんべんなくかき混ぜながら、七分間茹でる。茹で上がったパスタを皿に盛り付け、すっかり温まったレトルトソースをその上に掛ける。本日の夕飯の完成である。所要時間は約十五分。

 できあがった料理をソファの前のテーブルまで運んでいくと、知里がはっと驚いたように顔を上げ、一ノ瀬の顔をじっと見つめる。一ノ瀬は口の両端に微笑みを作る。

「さ、食べて。手抜きで申し訳ないけど」

 テーブルを挟んで知里の反対側のカーペットに腰を下ろし、言うなり食べ始める。

 知里はしばしパスタの皿を見つめた後、例によって手を合わせ、小さな声で「天主さまの恵みのもとに」と呟く。

「ね、知里ちゃんのそれ、さ。宗教か何かなの?」

 一ノ瀬に倣っておずおずとフォークとスプーンを両手に取った知里は、一ノ瀬の言葉にふと動きを止める。そしてきょとんとした表情で一ノ瀬を見つめる。恐らく、質問の意味がわからなかったのだろうと思う。

「……いや、やっぱりいいや」

 一ノ瀬が促すと、知里はぎこちなくパスタを絡め始める。しばらくは部屋には食器と食器が触れ合う音だけが響く。


「あの、イチノセさん」

 食事がそれほど進まぬうちに、出し抜けに知里が声を上げる。イチノセ、というイントネーションがわずかに不安定で、一ノ瀬は知里に初めて名前を呼ばれたことに気づく。

「お願いがあります」

 これまでの消え入りそうな声とは違って、きっぱりとした口調だ。いつの間にか、知里の瞳にはひたむきでまっすぐな光が宿っている。その眼差しはもはや怯えて戸惑う小さな子どものものではなく、明確な意志を持った一人の人間のそれだった。

「私を、村まで連れていってください」

「村? 知里ちゃんの家のある村ってこと?」

「はい」

「えぇと、それはどこにあるのかな」

「……私が最初にいた場所の近くだと思います」

「森の近く?」

 知里は少し考えてから、頷く。

 一ノ瀬はテーブルの脇に置いたショルダーバッグから地図を取り出す。佐伯の部屋にあった古いポケット地図だ。

「それってひょっとして、この辺りこと?」

 例の×印の少し上辺りを指でなぞりながら尋ねる。知里は首を傾げる。

「この地図は、よくわかりません」

「そう……知里ちゃんは一昨日、この辺りにいたんだよ。実は今日、この近くまで行ってみたの。すごく暗い森が続いてて、壁があった。私はそこまでしか行かなかったんだけど、知里ちゃんの言う『村』はあの壁の向こうにあるの?」

「はい」

 一ノ瀬は腕を組む。治安警備局に就職して以来ずっと自治区内のパトロールをしてきたが、この辺りに『村』があるなんて話は聞いたことがない。地図に載らない村が存在するということなのだろうか。

 だとすれば――偶然ではない気がする――佐伯はなぜこの付近を示す地図を持っていたのだろうか。知里が教えたのでないとしたら。

「ねぇ知里ちゃん、あなたにこんなことを聞くのはおかしいかもしれないんだけど……佐伯は何者なの? この地図は佐伯の部屋にあったの。知里ちゃんの鍵を持っていなくなった佐伯は、その『村』の関係者なの?」

 一ノ瀬は知里をじっと見つめる。知里の瞳に映る自分は、ひどく強張った表情をしている。

 知里の唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「サエキさんは――『キョウカイ』の人だから」

 『キョウカイ』?

「えぇと……それは、どういうこと?」

 知里は口元に手をあてる。少し考えてから、再び口を開く。

「私の村は、『キョウカイ』に管理されているんです」

「ということはつまり、佐伯は知里ちゃんの村を管理する立場の人ってこと?」

「そうです」

 一ノ瀬はこめかみを押さえる。三年間一緒に働いていた佐伯が、地図にない村の役人とは。全く訳がわからない。経歴を詐称していたということなのだろうか。

「サエキさんは、村にいます。お兄ちゃんを止めるために、村に行きました」

「知里ちゃん、あなたは……佐伯を呼びに、『村』を出たの?」

 一ノ瀬の問いかけに、知里は長いまつ毛を静かに伏せる。彼女は小さく首を横に振るが、わずかに横に逸らされた彼女自身の視線が、その回答を探しているかのようにも見える。

「……私はまた、村に戻らないといけません。だからお願いです、私を村まで連れていってください」

 知里は顔を上げ、再び強い眼差しで言う。

「えぇ、それはもちろんだけど。明日はちょうど休みだし、ちょっと早めに起きて――」

「時間がないんです」

 知里が一ノ瀬の言葉を遮って言う。一ノ瀬は軽く目を見開く。

「えっ、今から?」

 知里は頷く。

「……時間が、ないの……。サエキさんには、しばらくイチノセさんのところで待っているように言われたんですけど……お願いです、イチノセさんしか頼る人がいないんです」

 テーブルを挟んで一ノ瀬を見つめる少女の瞳は、懇願するように光を揺らす。一ノ瀬は戸惑いながらも、首を縦に振るほかなかった。



「ねぇ知里ちゃん、聞きそびれていたんだけど」

 一ノ瀬の運転するミニワゴンは、人気のない田園地帯の闇を切り裂いて走っていく。アクセルに軽く置かれた足は、昼間のパンプスからスニーカーに履き替えられている。治安警備局員という自分の立場を明確にするために、服装は制服のままだ。

「さっき庁舎から帰るときの車の中で、『お兄ちゃんが全部壊そうとしている』って言ってたよね? 具体的に、どういうことなの?」

 知里は一ノ瀬の横顔をちらりと見やり、視線を落とす。そして言葉を探しながら何度も口を開きかけた後、小さく首を横に振る。

「……私が掟を破ったせいでお兄ちゃんに迷惑を掛けたんです。私のせいなのに、お兄ちゃんは『キョウカイ』を壊そうとしているんです」

 一ノ瀬は小さく唸る。いまいち話が見えない。

「えぇっと……つまり、佐伯とお兄ちゃんは敵同士?」

「? ……はい、たぶん」

 一ノ瀬は困り果てて口元にうすく笑みを浮かべる。

「――まぁいいや、とにかく私が知里ちゃんのお兄ちゃんに話を聴いてみるよ」

 知里は返事の代わりに、膝の上で拳をぎゅっと握る。その様子をちらりと横目で見やり、一ノ瀬は続ける。

「……そう言えば、あの鍵はなんだったの?」

「あれは、お守り代わりにお兄ちゃんからもらったものだったんです」

「へぇ……それを佐伯が持って行っちゃった訳か。なんで佐伯がそんなことしたのかよくわかんないけど、大事なものなら私が取り返してあげるからね」

 一ノ瀬は力強く言い切る。しかしその反面、心の焦点をどこに結んだら良いのかを考えあぐねていた。

 佐伯に対しては、今は怒りよりもいくつもの疑問が身体の中心から静かに湧き出ている。

 彼は今までずっと、素性を隠していたのだ。そして何も告げないまま、一ノ瀬に知里を預けて姿を消してしまった。この三年間すぐ隣にいたのに、結局私は佐伯のことを何一つ知らなかったんだ。そう思うと、昨日まで接していた佐伯の存在がまるごと揺らいでしまう。彼に再会するのは、少しだけ怖かった。



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