第11話:全の章「裏切りの暗幕」
骨休みの一日を落ち着かない気持ちで過ごしたユウマは、更にその翌朝、いつもよりも早い時間帯に目が覚めた。
外はまだ暗い。なんだか全身が緊張していてちっとも眠った気がしなかったが、かと言って二度寝する気分でもなかった。結局皆が起き出すまで布団の中でやり過ごし、いつもどおりの朝をこなして学校へと出かけた。
一時間目からそわそわが止まらず、『教師』の話す内容はほとんど頭に入ってこなかった。授業開始の以降ずっと休み時間が来るのを待ちながら、同時に恐れてもいた。
チィ姉ちゃんに、どんな顔をして会えばいいのだろう。
ユウマが思い出す限り、チィ姉ちゃんはいつも笑顔だった。ユウマが泣いているときも笑っているときも、いつも笑顔だった。だからこそあの夜激しく泣きじゃくっていた彼女の姿がユウマの脳裏に焼き付いて、チィ姉ちゃんがどんなふうに笑うのかはっきりと思い出せなくなっていたのだ。
一時間目終了の鐘が鳴らされるや、ユウマは自分の教室を出てチィ姉ちゃんの教室に向かった。
「おはよう、ユウマ」
チィ姉ちゃんはいつもの窓際の席にいた。
「一日会わなかっただけなのに、ずいぶん久しぶりみたいだね。ユウマは昨日は何して過ごしてたの?」
何にもせずにぼうっとしてた、とユウマが応えると、チィ姉ちゃんは少し笑った。
「まぁ、私もほとんど一日ごろごろしてたから同じようなもんね。あんなにゆっくりできる日、一年の中でも一日だけだもん」
そう言う彼女の声は、ほとんどいつもと変わらない響きで耳朶を打った。口元にも、ずっと笑みが浮かんでいた。
「あ、元日もそうだよね。でもまだだいぶ先だなぁ。なんて言ってると、あっという間かな?」
あはは、と軽い笑い声が漏れる。
「休み疲れか知らないけど、なんか今日はまだ頭が働かないの。ユウマはどう?」
しかし、チィ姉ちゃんはいつもとは何かが違った。
「うん、僕もだよ」
そうだ、目だ。今日はまだ一度も、チィ姉ちゃんは僕の目を見ていない。
彼女の唇はいつもと変わりない話題を紡いでいたが、それも不自然だった。明らかに特定の話題を避けている。
「ねぇ、チィ姉ちゃん――」
大丈夫? と訊こうとした。
今日初めて目が合ったその時、チィ姉ちゃんの顔からすぅっと表情が消えた。
しかし次の瞬間には、すぐにもとの淡い微笑みが戻っていた。それは見間違いかと思えるほどほんのわずかな一瞬だったが、ユウマの口をつぐませるには充分だった。
「ごめんねユウマ、次うちの組、野外授業なの。そろそろ移動しなきゃ」
ユウマは小さく頷き、自分の教室に戻った。
一日の全ての授業が終わった後、再びチィ姉ちゃんの教室を訪れた。
「チィ姉ちゃん、遊びに行こう」
彼女の右手の袖を引き、その表情を見上げた。口元には相変わらず微笑みが浮かんでいた。彼女は少しだけ首を傾けると、抑揚のない声で言った。
「ごめんね、私、行くところがあるの」
ユウマが手を放すと、チィ姉ちゃんは少しだけ彼の頭を撫でて、振り返らずに行ってしまった。ユウマはひどくがっかりしたが、心のどこかではほっとしていた。自分が今までどうやってチィ姉ちゃんと喋っていたのか、もはや思い出せなくなっていたのだ。
次の日もその次の日も、チィ姉ちゃんはユウマを置いて学校を出た。
日中は時々セイジ兄ちゃんがやってきて二人に言葉をかけたが、チィ姉ちゃんは前のように声を華やがせたりはしなかった。その変化は、ユウマを複雑な気分にさせた。
四日目の学校が終わった後、ユウマは気づかれないようにこっそりチィ姉ちゃんの後をつけた。少し前よりも明らかに落ちる速度を上げた夕日に照らされて、その背中はなんだかとても小さく見えた。
チィ姉ちゃんの足は、ユウマもよく見知った道へ向かっていた。『追放者』の男の家に続く森の道だ。
わずかに色づき始めた木々はしかし、奥へと折り重なるほどにほの暗くなっていった。まるで森が見えない力でチィ姉ちゃんを操って、ふわりふわりと歩かせてるようだ。いつもユウマの手を引いて絶えず声を掛けてくれた彼女は、今日はユウマが後をついてきていることにも少しも気づかずにゆらゆらと進み続けた。
やがて例の家まで到着すると、チィ姉ちゃんは木の扉を一定の間隔で叩いた。ややあって扉は開かれ、彼女は中へと消えていった。
ユウマはそれを見届けると、踵を返して一目散に家へ向かった。
チィ姉ちゃんの寄り道が七日も続いたある日のことだった。
ユウマが一人で帰宅すると、ケイコおばさんとミサ姉ちゃんが彼を待ち構えていた。
「ユウマ、ちょっといい?」
ミサ姉ちゃんが底冷えするような声でそう言った。
「チィちゃんのことだけど」
ケイコおばさんの口からその名が出て、ユウマの中で何かがびくりと跳ね上がった。ユウマは極力表情を変えないようにして、うん、と返事をした。
ユウマが食卓の椅子に座るなり、ミサ姉ちゃんが鬼のような形相で言った。
「ねぇあんたたちさ、こそこそ隠れて何かしてるでしょ?」
既にユウマの心臓は口から飛び出そうな勢いで鼓動を打っていた。一体、どのことを言っているのだろうか。
「南の森であんたたちを見かけたっていう人がいるのよ」
どうやら『追放者』の家を訪ねたことらしかった、祭のことでなく。
「ねぇ、あの森には近づくなって掟、知ってるでしょ? 一体何考えてるの? 掟を破ったらどうなるか、あんただって知らない訳じゃないでしょ?」
ミサ姉ちゃんはこちらに反論を許す暇もないほど、切りつけるような勢いで次々と責めを発した。
対照的に、ケイコおばさんの声は落ち着いていた。
「私たちもねぇ、うちの単家の子が自分からそんなところに行くはずないって思ってるんだよ。ユウマはまだ七歳で、チィちゃんに誘われて行っただけだって。ねぇ、そうよね?」
ユウマは思わず顔を上げた。穏やかなのに、ケイコおばさんの声には肯定以外の返答を許さない響きがあった。
「……違う」
ほんの小さく首を振り、ユウマはやっとでそう言った。喉は既にからからで、声がうまく出ない。
ミサ姉ちゃんが平手で思い切り食卓を叩いた。どん、と大きな音がして、ユウマは思わずびくりと身をすくませた。今ので心臓が一度止まった気がした。
「何が違うのよ。『あの家』に行ったこと? それともあの子があんたを誘ったこと?」
ミサ姉ちゃんはぎょろりとした目でユウマを睨んでいた。
ユウマは瞬きを忘れ、視線をミサ姉ちゃんの顔にぴたりと縫い止めた。それ以外何もできなかった。頷くことも、首を振ることも、声を出すことさえも。
「まぁまぁ、最近はあの子一人で行ってるみたいじゃない。ねぇ、ユウマ」
語気を荒げるミサ姉ちゃんをなだめるように、ケイコおばさんが言った。それに対しても黙っていると、ケイコおばさんは言葉を続けた。
「ユウマの面倒をよく見てくれてると思ってたんだけど、まさか、うちの単家の子に変なことを吹き込んでるなんて思いもよらなかったわ」
ケイコおばさんは、「うちの」というところを強調して言った。
「あの子、鬼の子だよ」
ミサ姉ちゃんが口元を歪めて言った。
「ねぇ、ユウマは無理やり付き合わされただけよね?」
ケイコおばさんが言った。
手が痺れる。呼吸が浅い。脇の下を冷たい汗が伝っていく。まるで全身が心臓になったかのようだ。未だかつて、こんなに恐ろしい思いをしたことはなかったかもしれない。
ちらりと部屋の奥のハルじいさんを見やると、彼はあさっての方向を向いて静かに目を伏せていた。ユウマはひとりぼっちで、もはや何が正しいのか判断することができなくなっていた。
ユウマの脳裏には、彼の手を引っ張るチィ姉ちゃんの姿が浮かんでいた。ユウマがいくら怖がろうとも、迷わず手を引いて森の奥へ突き進んでいく彼女の姿が。
加えて、この数日のチィ姉ちゃんの表情が思い浮かんだ。ユウマが声を掛けてもあまり目も合わさず、以前のように笑いかけてもくれず、授業が終わればさっさと一人であの家へ行ってしまう。
考えてみたらチィ姉ちゃんはいつも自分勝手で、僕を振り回してばかりだ。あの祭の夜だって、言い出しっぺのくせに一番先頭で走って逃げて、突然泣き出して、セイジ兄ちゃんに慰めてもらって――。
僕のせいじゃない。僕は行きたくなかったんだ。なのに、チィ姉ちゃんが僕を引っ張っていくから。
鼓動の反響は今や部屋じゅうに響き渡って、他のいっさいの音を遮断していた。視界は狭く、ユウマを責める二人の女の顔だけが浮き彫りになっている。
気づけば、ユウマは首を縦に振っていた。
その瞬間、心の中に暗幕が降りた気がした。
ほら、やっぱりそうじゃない。ミサがきついこと言うから、この子怖がっちゃったのよ。
ケイコおばさんの声が耳の奥で聞こえたのを最後に、世界からは雑音が溢れ出した。視界は滲み、全てのものの輪郭が入り混じった。遠くで呼吸の音がする。誰が息をしているのだろうか。彼の犯した罪が、緩やかに彼の世界を閉ざしていくようだった。