第10話:一の章「サンドイッチ、マンション、地図」
知里が泣きやむまで、一ノ瀬は彼女の頭をそっと撫でていた。柔らかく張りのある髪、なんだか手に馴染む感触だ。
やがて知里が息をつくと、一ノ瀬はその細い肩をぽんと叩く。
「どう? 少しは落ち着いた? とりあえず朝ごはん食べなよ。たくさん泣いたから、喉も乾いたでしょう?」
一ノ瀬はコンビニの袋からサンドイッチとお茶を取り出し、知里のすぐ目の前に置く。すると知里のおなかからきゅう、と可愛らしい音がするので、一ノ瀬は思わず吹き出す。
「やだ、やっぱりおなか空いてるんじゃない。ささ、遠慮せず食べて食べて」
あはは、と軽やかに笑いながら、知里の肩を更にぽんぽんと叩く。知里は少し恥ずかしそうにおなかを押さえていたが、明るく笑う一ノ瀬の顔を見上げると、口元をほころばせてはにかむように微笑む。
――うわぁ、可愛い。
思わず赤面しそうになる。もともときれいな子だが、こうして笑うと年相応の少女という感じがしてとても愛らしい。昨日は随分と緊張していたようだが、少しずつ緊張がほぐれてきたみたいで良かった、と一ノ瀬は思う。
その時、太田局長が一ノ瀬を呼ぶ声がドアの向こうから聞こえてくる。
「あぁ、呼ばれてる。行かなくちゃ。また後でお兄ちゃんのお話聞かせてね。暇だったらテレビでも見てて」
一ノ瀬は立ち上がり、ドアへ向かう。
「……天主さまの恵みのもとに」
ノブに手を掛ける瞬間、背後から聞こえた声に一ノ瀬は思わず振り返る。
見ると、知里がサンドイッチを目の前に手を合わせている。昨日目にした光景を思い出し、再びひっかかるものを覚えるが、その思考の端はしつこく一ノ瀬を呼ぶ局長の声によって遮られる。
後ろ手に扉を閉めると、急に現実に引き戻される。知里がきれいな涙を流した応接室は、この慌ただしい治安警備局本部とは基本的に異空間のように思える。
一ノ瀬が出て来たのを見計らって、太田局長が向こうから手招きをしている。
「ちょっと、一ノ瀬さん」
また何か面倒を頼まれそうな雰囲気だが、一ノ瀬は特に表情を変えることなく局長のデスクへ向かう。
「何でしょうか」
「悪いんだけどさ、今から佐伯くんの家に行って、様子を見てきてもらえない?」
「……わかりました」
佐伯の名前を聞いた瞬間、怒りが蘇ってくる。本当は佐伯と二人で知里の身元を調べるはずだったのだ。彼が急に行方をくらましたせいで彼の家を訪ねるという仕事が増え、知里の話をなかなか聞けない。見つけ次第、一発殴ってもいい。
一ノ瀬はふと、知里の鍵のことを報告しなければと思う。
「太田局長、佐伯のことなんですが。どうも知里ちゃんの持っていた鍵を持って、どこかへ行ってしまったようです」
太田局長は眉根を寄せる。
「鍵? 何の鍵?」
「さぁ……それは私にもわからないんですが」
「あのね、そんなことよりあの子のことだけど、あんまり長く応接室使ってもらうのもちょっと……と思ってるんだよね。お客さんが来ることもある訳だしさ。だから――」
「えぇ、わかってます。今日も身元がわからなかったら、私の家に泊まってもらいますから。とりあえず今日のところは、あの部屋を使わせてください」
局長が言い終わらないうちに一ノ瀬はきっぱりと言う。局長はあからさまにほっとしたような顔をする。まったく、どいつもこいつも。
「それじゃあ行ってきます」
一ノ瀬は肩をすくめ、本部を出る。
佐伯の自宅は、本部の入っている旧庁舎から車で二十分ほどのところにある。ただし周辺は密集した住宅街で、道が迷路のように入り組んでいて一方通行も多いため、慣れないと簡単には辿り着けない。一ノ瀬は過去に数回彼の家に行ったことがあったが、残念ながら方向音痴のため何度訪れても道順を覚えられない。ナビの言うとおりに走っても、目的地周辺で案内が終了してしまい、肝心なところがわからないのだ。
そんな訳で迷わず行けば二十分のところを三十五分かかって、一ノ瀬はそのマンションに到着する。駐車場に佐伯のRV車は見当たらない。
一ノ瀬はミニワゴンを道の脇に停め、共同玄関のインターフォンの前に立つ。そして部屋番号の後、『呼出』のボタンを押す。間延びした電子音が鳴るが、応答はない。それを二度繰り返した後、一ノ瀬は小さく息を吐いて首を横に振る。
姿を消して即座に電話を解約した人間が、自宅のインターフォンに応じたら逆に驚く。
しかしこのまま帰るのも何なので、一ノ瀬はそのマンションの管理会社に電話を掛け(『入居者募集中』の看板に番号が書いてあった)、治安警備局と名乗った上で、同僚の忘れ物を取りにきたので鍵を開けてほしいと説明する。追跡中の凶悪犯に関わる重要事項だ、などと理由は適当に作った。
二十分後、管理会社の車が到着する。三十代半ばほどと見えるその男性はひどく面倒くさそうな表情で車から出てくるが、一ノ瀬の姿を見た瞬間口元をややほころばせる。
「すみません、お忙しいところ」
「いえいえ、ご苦労さまです!」
一ノ瀬はできるだけしおらしく笑顔を作る。男性はとんでもないというふうに大袈裟に手を振り、玄関を解錠する。
女が微笑むだけで物事が円滑に進むことも世の中にはあるものだと、一ノ瀬は淡々と思う。
当然のことながら、佐伯は不在だった。
佐伯の部屋は何の変哲もない1LDKで、間取りは一ノ瀬の部屋と大差ない。隠れられるような場所もない。異常なまでに整頓されているということを除けば、特に変わったところのない部屋だ。家具ごともぬけの殻という事態も覚悟していたため、一ノ瀬は少しほっとする。管理会社の男性を外で待たせたまま、一ノ瀬は部屋の中の確認を始める。
佐伯はああ見えて几帳面な男だ。職場のデスクの引き出しも整頓されていたし、パソコン内の事案のデータも驚くほど見やすく整理されていた。
この部屋も、一見すればモデルルームと言われても信じてしまいそうなほどに、生活感がない。
テーブルの上にはテレビとエアコンのリモコンが並行に置かれており、食器は全て棚に片付けられ、ベッドのシーツはきちんと皺が伸ばされている。
クローゼットには夏物と冬物が分けて収納されており、更にその中でも制服と普段着で棲み分けしているようだ。
冷蔵庫の中にはビールの缶がいくつかと、様々な食材がバランスよく丁寧に整頓されている。料理好きの佐伯らしい冷蔵庫である。つくづく自分とは正反対だ。
一ノ瀬はもう一度部屋を見渡す。冷蔵庫の食材の充実度からすると、佐伯が計画的に姿を消した訳ではないことが推測できる。
一体彼はなぜ突然姿を消してしまったのだろう。そして今どこにいるのだろう。
諦めて帰ろうとした時、ベッド脇の小机に古びたポケット地図が置かれているのに一ノ瀬はふと気づく。それを手にとってぱらぱらとめくってみると、ある地点に×印が書かれているページに出会う。その印は第三十八自治区の北の境あたりを示している。
確か、知里が保護されたのも自治区内の北の方だった。佐伯が知里の鍵を持ち去ったことを思い出す。無関係とは思えない。
一ノ瀬は携帯端末を取り出し、本部に電話をかける。
「――一ノ瀬です。佐伯に関して気になることがあるので、ちょっと確認してきます」
先に知里の話を聞いておけば良かったと、一ノ瀬は思った。