第9話:全の章「見える世界の急変」
広場では、大人たちが『満の祭』の準備をしているようだった。
たくさんの大人たちがざわざわと動いて、食卓を移動させたり地面に落ちた飾りや何かを拾ったりしていた。村の大人全員なので、百人近くいるはずだ。会場全体を熱気が包み、それがユウマたちのいる場所まで上ってきていた。
「香の匂い、さっきより強くなってるな」
セイジ兄ちゃんが言うように、あの独特の甘い匂いはいっそう強くなっていた。恐らく会場ではもっと濃い匂いなのだろう。むっとした湿気とも相まって、その匂いが辺り一面に立ち込めているのがわかった。それを嗅いでいるうちに、ユウマはなんとなくぼんやりした気分になった。
そのまま様子を伺っていると、やがて数人の大人が松明を手に取るのが見えた。
そしてその火を、櫓に移した。
木でできた櫓はあっという間に炎に包まれ、巨大な火の化け物のように燃え上がった。
それが、開始の合図だった。
最初は、何をしているかわからなかった。大勢の大人たちがひしめき合い、うごめいていた。
初めのうちはもぞもぞとした小さな動きだったが、それはだんだんと大きな動きに代わっていった。それでようやくわかった。
彼らは衣装を――純白の布でつくった衣装を、脱いでいるのだ。
残りの松明も、燃え盛る櫓の火の中に投げ込まれた。炎はより一層大きくなり、生まれたままの姿の人間たちを赤く映し出した。
「何なの、これ……」
チィ姉ちゃんが口元を押さえてぽつりと呟いた。
宴の広場では、今や全ての大人たちがそれぞれに絡み合い、うごめき、まぐわっていた。
それらは実に動物的な動きで、会場にいる誰もが理性を放棄し、ただただ本能の赴くままに性を求めていた。
ちらちらと風に揺らめく炎がその様子を無作為に照らし、その行為を煽った。
香の匂い、酒の匂い、汗の匂い、それから訳のわからない野生の動物のような匂いが混ざり合い、淫靡な空気を作り出していた。
女の嬌声、男の喘ぎ声、時折悲鳴のような声も聞こえた。
まるで全体で一つの生命体のように脈打ち、うねり、呼吸をしているかのようだ。
ユウマには大人たちが何をしているかわからなかったが、その光景の異常さを感覚で理解した。
チィ姉ちゃんはユウマの隣でかたかたと震えていた。燃え上がる炎に照らされてもなお、その顔が蒼ざめているのがわかった。
「……行こう」
セイジ兄ちゃんがチィ姉ちゃんの髪をそっと撫で、小さな声で言った。
来た道を掛け足で戻り、元の場所に到着したときには、三人ともひどく息が上がっていた。それでもここに辿りつくまでの途中で足を止めることなどできなかった。
日時計の前に着くなり、チィ姉ちゃんは膝から崩れ落ちた。そして両手で顔を覆って、泣き始めた。
「チィ……大丈夫か?」
セイジ兄ちゃんがチィ姉ちゃんの傍らに膝をつき、そっと肩を抱いた。
「ごめ……なさ……」
「なんでチィが謝るんだ」
「わ、わたし……あんなことが、お、起きてるなんて……知らなくって……」
チィ姉ちゃんはしゃくり上げながら、セイジ兄ちゃんの胸に頭を預けた。その髪を、セイジ兄ちゃんはゆっくりと撫でた。
「それはチィのせいじゃないだろう。いいかい、今日見たことは全部忘れるんだ。いずれ大人になる日が来るとしても、子どもでいられるうちは忘れておくんだ。少なくとも、掟を破ったということを誰にも悟られてはいけない」
彼女はこくこくと頷いた。ユウマはその光景をただ見ていることしかできなかった。
やがてセイジ兄ちゃんはチィ姉ちゃんを立ち上がらせた。
「ユウマ、一人で帰れるか? 俺はチィを家まで送っていくから」
「うん、帰れるよ」
「ユウマも、今日見たことは誰にも言わないようにな」
「うん、わかった」
ユウマはそれだけ言うと、くるりと踵を返して家に向かって走り出し、そのまま振り向かず一直線に家を目指した。
――僕ではチィ姉ちゃんを慰められない。
先ほど見た大人たちの祭の様子より、ユウマにはそのことがショックだった。
『豊穣祭』の翌日、ユウマが目を覚ましたのはもう昼近いころだった。
この日ばかりは日頃の勤めもなく、祭の骨休めで皆がゆっくりしても良い決まりになっているのだ。ユウマの単家でも、他の三人はその時間になっても布団に収まって寝息を立てていた。皆いつの間に帰って来たのだろうか。家の中にはかすかに、いろいろなものが混じり合ったあの匂いが漂っていた。
ユウマは三人を起こさないように静かに家を出た。
外は既に日が高く昇り、村全体が白くあたためられていた。昨日まで大気を覆っていた湿気は、どこかへ消え去ってしまったようだ。太陽の光を強く弾いていた木々の葉も、やさしく穏やかに照らし出されていた。空は抜けるように高く、澄んだ青にはけでさっと刷いたような白い雲がかかっていた。夏はもうすっかり行ってしまったのだ。
その清々しい光景を見て、ゆうべ目にしたものは夢だったのではないかとユウマは考えた。しかしそう思い込むには、何もかもが生々しく脳裏に焼き付いていた。燃え上がった炎、赤くうごめく人の群れ、そして泣き崩れるチィ姉ちゃんと、その肩を抱くセイジ兄ちゃんと。
ふと家の玄関に目をやると、戸の上に飾られた不格好なしめ飾りがユウマを見下ろしていた。チィ姉ちゃんに教わりながら作ったしめ飾りだ。それを見ていると、なぜか胸が締め付けられるように苦しくなった。
午後の日差しの中、誰もいない教室に囁くような彼女の声が響いていたあの日。それは既に遠い日のことのように思えた。あの時は『豊穣祭』がこんなことになるなど想像だにしていなかったのだ。それまでユウマを取り巻いていた子どもの世界が、ゆうべの出来事ですっかり崩れ去ってしまったような気がした。
チィ姉ちゃんは大丈夫だろうか。ただそれだけが心配だった。
ユウマはふらりと村の中心へ向かった。村人の多くはまだ眠っているらしく、真昼間だというのに村じゅうがしんと静まり返っていた。まるでこの世界に一人きりになったかのようだ。
広場に辿りつくと、そこには既に先客がいた。セイジ兄ちゃんだった。
彼は身を屈めて地面に落ちた燃えかすを調べていたようだが、ユウマに気がつくとすぐに立ち上がった。
「あぁ、おはようユウマ。昨日は大丈夫だったか?」
「うん、大丈夫だったよ」
チィ姉ちゃんは、とはなぜか聞けなかった。
「この櫓さ」
セイジ兄ちゃんが視線で示す先には、すっかり燃え落ちて黒い炭の残骸と化した櫓があった。
「今まで祭の次の日にすっかり燃えてなくなってるから不思議に思っていたんだけど、ああいうことだったんだな」
ユウマは頷いた。村の男たちが十四日間かけて丁寧に組んだ櫓が、あの儀式のために一瞬で燃えてなくなってしまったかと思うと、妙にやるせない気持ちになった。
「これも……一体何なんだろうな」
セイジ兄ちゃんの右手の指先には、赤い葉が挟まっていた。あの独特の甘い匂いを出す、香の葉だ。
「僕、この匂いを嗅いでいると、頭がぼうっとしてくるんだ」
ユウマの言葉に、セイジ兄ちゃんは頷いた。
「そうだな、俺もそうだ。今まであまりそのことに違和感を抱いたことはなかったんだけどな。昨日の大人たちの様子を傍から見ていたら、明らかに異常だと思ったよ」
「その葉っぱ、何なの?」
「そうだな、これは多分――いや、今はまだやめておこう。確証のあることじゃないんだ。少し調べてみるよ」
セイジ兄ちゃんは葉を指先から地面に落とした。
「さぁユウマ、今日は一日ゆっくり休もう。何か心配事があったら、遠慮なく俺に相談してくれていいからな」
ユウマが頷くのを見届けると、セイジ兄ちゃんは軽く手を振って広場から去っていった。




