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合い鍵の半分を渡すには、今日の雨が強すぎる

作者: _mon_mon_
掲載日:2026/10/18

「鍵屋は、うちの看板のどこにも書いてない」


 修治が「鍵を一本」と言い終える前に、あずさはシャッターを膝の高さまで下ろしたまま言った。


 修治は傘を畳めずにいた。骨が一本裏返り、そこだけ雨を受ける皿になっている。直そうとすると、水が革靴の中へ流れ込んだ。


「三軒、断られた」

「四軒目を数えに来たの」

「まだ断らないでくれ」


 シャッターの向こうで、安全靴が半歩遠ざかった。


 修治はしゃがみ、濡れていない胸ポケットから封筒を出した。中には、黒ずんだ真鍮の鍵が一本ある。大きな輪のついた、古い箪笥の鍵を長くしたような形だった。


「今日の六時までに、これをもう一本」


 安全靴が止まった。


「私の工具は」


 修治は封筒を持つ手を下げた。


「車にある」

「じゃあ、それだけ置いて帰って」


 午後二時十七分だった。川沿いの道は既に一車線が冠水していた。車で事務所へ戻れば四十分。ほかに当てはなかった。


「仕事として頼みたい」

「仕事だったら、なおさら順番がある」


 工場の奥で電話が鳴った。あずさは出なかった。切れるまで待ってから、シャッターを持ち上げた。


「工具、先に」


 昔からそうだった。話を聞くと決めても、聞いていないふりをする。その癖を懐かしいと思いかけて、修治はやめた。懐かしがれる立場ではない。


 車から青い工具箱を運ぶと、あずさは作業台に置かせ、ふたを開いた。


 布のくぼみが、一つ空いていた。


「小さいラチェット」

「管理先の洗面台だ。北町の集合住宅。明日、取りに」

「明日は私、ここにいない」


 作業台の向こうに、茶色い段ボールが積まれていた。旋盤には値札が下がり、壁にあった工具の輪郭だけが白く残っている。


「閉めるのか」

「来週から、前に勤めてた会社。箱詰めは今日まで」


 父親から継いだ工場だった。あずさは結婚しても続けると言い、修治はもちろんだと答えた。その直後に、工場を整理すれば駅前に住めるという住宅広告を見せた。


 もちろん、の中身が違っていた。


「知らなかった」

「知らせる相手から外したから」


 あずさは工具箱を閉じた。


「鍵、見せて」


     *


 修治が管理を請け負っている旧家は、来月から貸し展示室になる。六時に、最初の借り手へ鍵を渡す予定だった。


 所有者の佐伯は遠方に住んでいた。草刈り、雨戸の修理、古い店舗部分の片づけ。頼まれるたび修治はできますと答えた。小さな管理代行会社を一人で始めて二年。月々まとまった管理料の入るこの家を失えば、事務所の家賃から考え直さなければならない。


「合鍵の依頼、いつ受けた」

「先月」

「鍵屋へ行ったのは」

「今日」


 あずさは顔を上げた。


「草刈りがあった。あと、床の補修が延びて」

「私に言う言い訳、選んでる時間があるのね」


 修治は口を閉じた。


 あずさは鍵を白い布に載せた。先端の出っ張りは丸まり、根元には細い亀裂があった。


「これをそっくり写しても、減ったところまで写すだけ。錠前は?」

「現地に」

「持ち主の承諾は」

「複製していいというメールなら」


 携帯を渡すと、あずさは日付から読んだ。修治が見せたかった箇所より上へ、何度も画面を戻した。


「『重くて回しづらい件も、引渡し前に確認してください』」

「それも、今日」

「今日って便利な収納箱ね」


 彼女は携帯を返した。


「古い錠前の仕組み次第では、現物を見ながら合わせられるかもしれない。でも、鍵だけ直せば済むかは分からない。普通は鍵屋に錠ごと相談する仕事」

「それも電話した。交換なら来週だと。佐伯さんは表の金具を残したいそうで」

「なら来週まで待つ話をしなさい」

「待たないと言われた。前にも雨漏りの連絡を遅らせた」


 雨音が一段大きくなった。工場の隅にあるバケツで、水滴が金属的に跳ねた。


 あずさは鍵を封筒へ戻した。


「その遅れの最後を、私に持ってきたわけだ」


 修治は封筒を受け取れなかった。


 今日を乗り切れば、と朝からずっと思っていた。鍵さえできれば。六時に間に合えば。そのためにここまで来た。あずさの閉じる工場も、返していなかった工具も、そのために使おうとしている。


 作業台に、返送用の送り状が三枚並んでいた。修治はそこへ目を落とした。


「そっちは、今日出す荷物?」

「四時集荷。未納品の治具と、借りてた測定器」

「俺が梱包する。指示してくれ」

「手伝えば鍵を作ると思ってる?」

「思ってる」


 あずさの眉が動いた。


「今、立派な返事は出ない。契約を切られたくない。ただ、そっちの仕事を明日に押し出していいとは思ってない」


 しばらくして、あずさは壁から短いチョークを取った。作業台の黒い面に縦線を引く。


 左に〈発送〉、右に〈鍵〉と書いた。


「発送が先。鍵は現物を確認してから。作れなくても工賃は払う。急がせない。あと、持ち主には今から本当の進み具合を伝える」

「分かった」

「ラチェットも今日」

「……分かった」


 あずさは初めて、少し口の端を上げた。


「今日の箱、いっぱいになったね」


     *


 佐伯へ電話をすると、最初の三十秒はトタン屋根を打つ雨音しか聞こえなかった。


「つまり、まだ一本もできていないんですね」


 修治は、できそうです、と言いかけた。


「はい。錠前を見て、作業できるか判断する段階です」

「昨日は準備できていますと」

「確認せずに言いました」


 あずさは隣で、測定器を収める箱を組み立てていた。修治を見なかった。


「今日の借り手には、私から時間を変更してもらいます。久留米さんから、また曖昧な話をされると困るので」


 声を荒らげられるより、苦しかった。


 修治は、元の鍵を加工所の柴崎あずさに預けたこと、彼女が現地で錠前を見ることも正直に伝えた。錠前の調整と、必要なら取り外すことについて、佐伯は承諾した。今日はちょうど法事でこちらに来ているという。ただし請求は先に説明すること。六時には佐伯自身が現地へ来ること。間に合わなければ契約は見直すこと。


「承知しました」


 通話を切ると、修治はあずさに工賃の目安を聞き、その額と、費用は自社で負担することを佐伯へ送った。あずさが空箱を差し出した。


「底、二重にして」


 修治はテープを取った。


 あずさは現地の写真を確かめ、鍵と道具を鞄へ入れた。徒歩十分の家だった。修治が車を出そうとすると、梱包を続けるように言った。


「私一人で見られる。箱の中身は混ぜないで。白い札が返すもの、黄色は売るもの」

「足、気をつけて」

「その台詞で、一個ずつ包まなくてよくはならない」


 雨の中へ出ていく背を見送ってから、修治は部品を持ち上げた。重さに驚いて、両手で支え直す。


 彼女の仕事を手伝うのは初めてではなかった。以前は納品の帰りにラーメンを食べ、あずさは伝票に汁を飛ばした修治を叱った。仕事の話を始めると、修治はよく、難しいことは分からないけど、と先に断った。


 分からなくても彼女は話したかったのだ、と今になって思った。


 三時過ぎ、戻ってきたあずさは濡れた上着を脱ぎ、床に新聞紙を広げた。鞄から外してきた錠前を載せる。修治の鍵束から借りた勝手口の鍵で出入りし、佐伯の了承で問題の戸は内側から締めてきたという。


「単純な古い箱錠だった。できる可能性はある。それと、あの戸、閉めると重い。下がってるかもしれない。錠を外した状態じゃ確かめようがないから、戻したら最初に見る」

「古い戸だからな」

 あずさは返事をしなかった。

「でも先にこれ」


 彼女は梱包した三箱を順に確かめた。一つだけ修治の包み方を直し、送り状の番号と照らした。


 そこで工場の電話が鳴った。


 今度はあずさが出た。


「集荷できない? 明日じゃ困ります。精密機器なので、置いてはいけません」


 川沿いの集配所へ通じる道路が通行止めになったという。北側の営業所なら持ち込みを受けるが、受付は五時までだった。


 あずさは時計を見た。三時十四分。


「私が行ってくる。鍵は、その後」

「俺が行く」

「あなた、これを急がせるためなら、車も急がせるでしょう」


 修治は車の鍵を握ったまま止まった。


 実際、来る途中で二度、黄信号へ入った。


「裏の大通りを回る。冠水してたら戻る。着いたら電話する」

「返す測定器、父の代から借りてたものなの。最後までちゃんと返したい」


 梱包したのに、修治は荷物の札を初めてちゃんと読んだ。会社名の下に、鉛筆で人の名前が添えてあった。


「届けてくる」


 あずさは少し迷ってから、控えの伝票を渡した。


「帰りにラチェットも。北町なら、営業所の帰り道でしょう」


     *


 雨の道は遅かった。冠水した交差点を二度迂回した。


 営業所へ着いたのは四時二十二分だった。荷台を開けると、雨粒が段ボールへ吹き込んだ。修治は自分の上着をかぶせ、台車を借りた。


 発送を終えて工場へ電話すると、あずさはすぐに出た。


「受け付けてもらった。三箱とも」

「ありがとう」

「そっちは」

「材料を探してる。ちょうどいい真鍮があった」

「作れそうか」

「まだ分からない」


 その返事を、修治は初めてきちんと待てた。


 帰りに管理先の集合住宅でラチェットを回収すると、住人に洗面台の下をもう一度見てほしいと頼まれた。いつもの修治なら、五分で済みますと言って膝をついた。


「今日は確認する時間がありません。明日の十時なら来られます」


 住人は不満そうだったが、分かったと答えた。十時、と修治の目の前でカレンダーに書いた。


 五時十分に戻ると、作業台の〈発送〉に横線が引かれていた。


 あずさは錠前と古い鍵を見比べていた。手元には、鍵に似た形になりかけた真鍮の棒がある。


「ラチェット」

「おかえりより先か」

「まだ帰ってきてなかったから」


 受け取った一本を、あずさは工具箱のくぼみへ収めた。ふたは閉めなかった。


 修治は発送の控えを、濡れないところに並べた。


「できることは」

「そこの照明、持って。手元に影ができないように」


 錠前は作業台に固定されていた。あずさは作りかけの鍵を差し、途中で止まるとすぐに抜いた。力をかけない。削る。試す。古い鍵も確かめる。


 修治には、何が変わっているのかほとんど見えなかった。


「これ、どこまで削るか分かるのか」

「分からないまま削らないようにしてる」


 あずさはチョークを手に取り、新しい鍵の一部へ薄く粉をこすった。


「当たったところを見る補助。これだけで決めるものじゃないよ」


 抜いた鍵には粉の落ちた箇所があった。彼女はそこを眺め、錠前の中を照らさせ、ノギスで寸法を確かめた。修治は腕がだるくなると、照明を持ち替えた。


 以前なら、あと何分、と聞いていた。


 五時四十一分、新しい鍵が初めて最後まで動いた。


 修治は思わず声を上げた。


「できた」

「まだ。戸につけてから」


 あずさの声は平らだった。ただ、丸めていた背中が少し伸びた。


 修治の携帯が震えた。佐伯からだった。既に家へ着いたという。


 六時まで、二十分足らずだった。


     *


 六時八分前。旧家の軒先で、佐伯は傘を閉じていた。


 修治が車から降りると、佐伯の目はまず、上着のない濡れた肩へ行った。


「電話で言っていた、加工の方ですね」

「柴崎さんです。錠前を確認して、加工をお願いしました。費用はお伝えしたとおり、こちらで負担します」


 あずさは会釈だけして工具を運んだ。


 修治は照明を置き、あずさが昼に送ってきた、外す前の写真を開いた。あずさが錠前を戻す。戸を開けた状態では、新しい鍵も古い鍵も動いた。


 戸を閉めると、新しい鍵が止まった。


 修治の胃が縮んだ。


 あずさは鍵から手を離した。


「押さないで」


 誰も触れていなかった。それでも修治は両手を後ろへ回した。


 言っていたとおりだった。あずさは戸を開け、閉め、受け側を確かめた。敷居には擦れた跡がある。戸が下がり、錠の出る部分と受けがずれていた。


「鍵だけの問題ではありませんでした」


 佐伯が修治を見た。


「重いと言ったのは、これでしょう」

「はい」


 修治はうなずいた。

「三時に、柴崎さんから戸が下がっているかもしれないと言われていました。僕は古い戸だからと流しました」

 あずさは手を止めなかった。


「今日は鍵を渡せても、このまま借り手に使ってもらうわけにはいきません。建具の修理を手配します。それまで開閉には僕が来ます。間に合わせられなかったことは、僕から説明させてください」


 佐伯は答えず、あずさの作業を見ていた。


 彼女は大きな修理には手を出さなかった。緩んでいたねじを締め、確認できる範囲を調整すると、戸を静かに閉めた。


 今度は鍵が回った。


「これは仮の調整です。建具は専門の方に見てもらってください。鍵も、使う方に何度か試してもらいたいです」


 佐伯は新しい鍵を受け取り、自分で施錠し、解錠した。三度目には、鍵穴を探す手つきが少し滑らかになった。


 修治は息を吐いた。


「管理契約は、今月いっぱいにしましょう」


 佐伯の言葉に、息が途中で止まった。


「今日の鍵はありがとうございます。でも、毎回こちらが念を押さないと進まないのでは、遠くから頼めません」


 雨が瓦を打った。


 あずさは工具を布で拭いていた。修治の代わりに何か言うことも、佐伯へ顔を向けることもしなかった。


 修治は鞄から手帳を出した。


「引継ぎの資料を作ります。残っている修理も、日付と連絡先を出します」


 書こうとした指が滑った。手が濡れていた。ズボンで拭いて、もう一度ペンを持った。


     *


 工場へ戻ったのは七時前だった。


 あずさは作業台に残していた自分の鞄を取り、修治は空のバケツを雨漏りの下へ戻した。


「すまなかった」


 あずさは財布から領収書を出していた。


「何について」

「今日、いくつもある」

「一個ずつなら聞く」


 修治は工具箱を見た。


「返すのを後回しにした。困ったら使えるように、車に積んでた」

「うん」

「工場を閉めることも、俺ならもっと早く決めたとか、言いそうになった」

「言わなくてよかったね」

「前は言った」


 あずさの手が止まった。


 修治は作業台の白い線を見た。左側は終わっている。右側の〈鍵〉には、まだ線がなかった。


「結婚したら俺の仕事を手伝ってほしかった。こっちの仕事は、空いた時間で続けられると思ってた」

「空いた時間でできるなら、こんなに場所を取ってない」


 工場の奥を見て、あずさは笑いかけた。だが、笑いにはならなかった。


「閉めるのは自分で決めた。でも、ほっとしてる日ばかりじゃない。あなたには、ほら見ろって思われたくなかった」


 修治は何か言おうとして、やめた。


 あずさがここを去るのを、自分のところへ戻る余地のように感じていた。それを口にしなかっただけで、彼女の寂しさをまた一つ、自分の都合に変えていた。


「今日は帰るよ」


 修治は領収書を受け取り、工賃を払った。財布には、明日の昼食を考えるくらいの金が残った。


 あずさは古い鍵を差し出した。


「管理している間は、あなたが持つんでしょう。根元が傷んでるから、無理に回さないで」


 佐伯の手には新しい一本がある。修治の手には、使い続けて薄くなった一本が戻った。


「半分ずつになったな」


 あずさは首を振った。


「鍵を分けただけ。管理の責任まで半分にしないで」


 修治は鍵を封筒にしまった。


 出口まで行くと、雨はまだ強かった。壊れた傘を開こうとして、骨の曲がったところに指を挟む。


 背後で、小さく笑う声がした。


「それ、もう傘として雇うのをやめたら」


 あずさが工場の傘立てから、大きな黒い傘を抜いた。


 差し出された柄を、修治は受け取らなかった。


「また借りっぱなしにしそうだから?」

「違う。駅まで、送っていいか」


 あずさは修治の顔を見た。


「車で?」

「歩いて。車はここへ取りに戻る」


 返事を待つ間、修治は傘立ての水を見ていた。


「駅前で何か食べたい」とあずさが言った。「昼、食べてない」

「俺も」

「私はラーメン」

「分かった」

「今日は割り勘ね」


 あずさは作業台へ戻り、短いチョークで〈鍵〉に線を引いた。それから工具箱のふたを閉め、両手で持ち上げた。


「これは持つから、傘はそっち」


 工具箱をいったん足元に置き、シャッターを下ろして施錠する彼女の頭上へ、修治は傘を寄せた。


 二人で入るには、今日の雨は強すぎた。歩き出すとすぐに修治の右肩が濡れた。あずさの鞄は修治が肩にかけていた。あずさが気づいて工具箱を片手に提げ直し、空いた手を柄へ添えて、少し真ん中へ戻した。


 修治は握った手を離さず、彼女の歩幅になるまで足を緩めた。


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