合い鍵の半分を渡すには、今日の雨が強すぎる
「鍵屋は、うちの看板のどこにも書いてない」
修治が「鍵を一本」と言い終える前に、あずさはシャッターを膝の高さまで下ろしたまま言った。
修治は傘を畳めずにいた。骨が一本裏返り、そこだけ雨を受ける皿になっている。直そうとすると、水が革靴の中へ流れ込んだ。
「三軒、断られた」
「四軒目を数えに来たの」
「まだ断らないでくれ」
シャッターの向こうで、安全靴が半歩遠ざかった。
修治はしゃがみ、濡れていない胸ポケットから封筒を出した。中には、黒ずんだ真鍮の鍵が一本ある。大きな輪のついた、古い箪笥の鍵を長くしたような形だった。
「今日の六時までに、これをもう一本」
安全靴が止まった。
「私の工具は」
修治は封筒を持つ手を下げた。
「車にある」
「じゃあ、それだけ置いて帰って」
午後二時十七分だった。川沿いの道は既に一車線が冠水していた。車で事務所へ戻れば四十分。ほかに当てはなかった。
「仕事として頼みたい」
「仕事だったら、なおさら順番がある」
工場の奥で電話が鳴った。あずさは出なかった。切れるまで待ってから、シャッターを持ち上げた。
「工具、先に」
昔からそうだった。話を聞くと決めても、聞いていないふりをする。その癖を懐かしいと思いかけて、修治はやめた。懐かしがれる立場ではない。
車から青い工具箱を運ぶと、あずさは作業台に置かせ、ふたを開いた。
布のくぼみが、一つ空いていた。
「小さいラチェット」
「管理先の洗面台だ。北町の集合住宅。明日、取りに」
「明日は私、ここにいない」
作業台の向こうに、茶色い段ボールが積まれていた。旋盤には値札が下がり、壁にあった工具の輪郭だけが白く残っている。
「閉めるのか」
「来週から、前に勤めてた会社。箱詰めは今日まで」
父親から継いだ工場だった。あずさは結婚しても続けると言い、修治はもちろんだと答えた。その直後に、工場を整理すれば駅前に住めるという住宅広告を見せた。
もちろん、の中身が違っていた。
「知らなかった」
「知らせる相手から外したから」
あずさは工具箱を閉じた。
「鍵、見せて」
*
修治が管理を請け負っている旧家は、来月から貸し展示室になる。六時に、最初の借り手へ鍵を渡す予定だった。
所有者の佐伯は遠方に住んでいた。草刈り、雨戸の修理、古い店舗部分の片づけ。頼まれるたび修治はできますと答えた。小さな管理代行会社を一人で始めて二年。月々まとまった管理料の入るこの家を失えば、事務所の家賃から考え直さなければならない。
「合鍵の依頼、いつ受けた」
「先月」
「鍵屋へ行ったのは」
「今日」
あずさは顔を上げた。
「草刈りがあった。あと、床の補修が延びて」
「私に言う言い訳、選んでる時間があるのね」
修治は口を閉じた。
あずさは鍵を白い布に載せた。先端の出っ張りは丸まり、根元には細い亀裂があった。
「これをそっくり写しても、減ったところまで写すだけ。錠前は?」
「現地に」
「持ち主の承諾は」
「複製していいというメールなら」
携帯を渡すと、あずさは日付から読んだ。修治が見せたかった箇所より上へ、何度も画面を戻した。
「『重くて回しづらい件も、引渡し前に確認してください』」
「それも、今日」
「今日って便利な収納箱ね」
彼女は携帯を返した。
「古い錠前の仕組み次第では、現物を見ながら合わせられるかもしれない。でも、鍵だけ直せば済むかは分からない。普通は鍵屋に錠ごと相談する仕事」
「それも電話した。交換なら来週だと。佐伯さんは表の金具を残したいそうで」
「なら来週まで待つ話をしなさい」
「待たないと言われた。前にも雨漏りの連絡を遅らせた」
雨音が一段大きくなった。工場の隅にあるバケツで、水滴が金属的に跳ねた。
あずさは鍵を封筒へ戻した。
「その遅れの最後を、私に持ってきたわけだ」
修治は封筒を受け取れなかった。
今日を乗り切れば、と朝からずっと思っていた。鍵さえできれば。六時に間に合えば。そのためにここまで来た。あずさの閉じる工場も、返していなかった工具も、そのために使おうとしている。
作業台に、返送用の送り状が三枚並んでいた。修治はそこへ目を落とした。
「そっちは、今日出す荷物?」
「四時集荷。未納品の治具と、借りてた測定器」
「俺が梱包する。指示してくれ」
「手伝えば鍵を作ると思ってる?」
「思ってる」
あずさの眉が動いた。
「今、立派な返事は出ない。契約を切られたくない。ただ、そっちの仕事を明日に押し出していいとは思ってない」
しばらくして、あずさは壁から短いチョークを取った。作業台の黒い面に縦線を引く。
左に〈発送〉、右に〈鍵〉と書いた。
「発送が先。鍵は現物を確認してから。作れなくても工賃は払う。急がせない。あと、持ち主には今から本当の進み具合を伝える」
「分かった」
「ラチェットも今日」
「……分かった」
あずさは初めて、少し口の端を上げた。
「今日の箱、いっぱいになったね」
*
佐伯へ電話をすると、最初の三十秒はトタン屋根を打つ雨音しか聞こえなかった。
「つまり、まだ一本もできていないんですね」
修治は、できそうです、と言いかけた。
「はい。錠前を見て、作業できるか判断する段階です」
「昨日は準備できていますと」
「確認せずに言いました」
あずさは隣で、測定器を収める箱を組み立てていた。修治を見なかった。
「今日の借り手には、私から時間を変更してもらいます。久留米さんから、また曖昧な話をされると困るので」
声を荒らげられるより、苦しかった。
修治は、元の鍵を加工所の柴崎あずさに預けたこと、彼女が現地で錠前を見ることも正直に伝えた。錠前の調整と、必要なら取り外すことについて、佐伯は承諾した。今日はちょうど法事でこちらに来ているという。ただし請求は先に説明すること。六時には佐伯自身が現地へ来ること。間に合わなければ契約は見直すこと。
「承知しました」
通話を切ると、修治はあずさに工賃の目安を聞き、その額と、費用は自社で負担することを佐伯へ送った。あずさが空箱を差し出した。
「底、二重にして」
修治はテープを取った。
あずさは現地の写真を確かめ、鍵と道具を鞄へ入れた。徒歩十分の家だった。修治が車を出そうとすると、梱包を続けるように言った。
「私一人で見られる。箱の中身は混ぜないで。白い札が返すもの、黄色は売るもの」
「足、気をつけて」
「その台詞で、一個ずつ包まなくてよくはならない」
雨の中へ出ていく背を見送ってから、修治は部品を持ち上げた。重さに驚いて、両手で支え直す。
彼女の仕事を手伝うのは初めてではなかった。以前は納品の帰りにラーメンを食べ、あずさは伝票に汁を飛ばした修治を叱った。仕事の話を始めると、修治はよく、難しいことは分からないけど、と先に断った。
分からなくても彼女は話したかったのだ、と今になって思った。
三時過ぎ、戻ってきたあずさは濡れた上着を脱ぎ、床に新聞紙を広げた。鞄から外してきた錠前を載せる。修治の鍵束から借りた勝手口の鍵で出入りし、佐伯の了承で問題の戸は内側から締めてきたという。
「単純な古い箱錠だった。できる可能性はある。それと、あの戸、閉めると重い。下がってるかもしれない。錠を外した状態じゃ確かめようがないから、戻したら最初に見る」
「古い戸だからな」
あずさは返事をしなかった。
「でも先にこれ」
彼女は梱包した三箱を順に確かめた。一つだけ修治の包み方を直し、送り状の番号と照らした。
そこで工場の電話が鳴った。
今度はあずさが出た。
「集荷できない? 明日じゃ困ります。精密機器なので、置いてはいけません」
川沿いの集配所へ通じる道路が通行止めになったという。北側の営業所なら持ち込みを受けるが、受付は五時までだった。
あずさは時計を見た。三時十四分。
「私が行ってくる。鍵は、その後」
「俺が行く」
「あなた、これを急がせるためなら、車も急がせるでしょう」
修治は車の鍵を握ったまま止まった。
実際、来る途中で二度、黄信号へ入った。
「裏の大通りを回る。冠水してたら戻る。着いたら電話する」
「返す測定器、父の代から借りてたものなの。最後までちゃんと返したい」
梱包したのに、修治は荷物の札を初めてちゃんと読んだ。会社名の下に、鉛筆で人の名前が添えてあった。
「届けてくる」
あずさは少し迷ってから、控えの伝票を渡した。
「帰りにラチェットも。北町なら、営業所の帰り道でしょう」
*
雨の道は遅かった。冠水した交差点を二度迂回した。
営業所へ着いたのは四時二十二分だった。荷台を開けると、雨粒が段ボールへ吹き込んだ。修治は自分の上着をかぶせ、台車を借りた。
発送を終えて工場へ電話すると、あずさはすぐに出た。
「受け付けてもらった。三箱とも」
「ありがとう」
「そっちは」
「材料を探してる。ちょうどいい真鍮があった」
「作れそうか」
「まだ分からない」
その返事を、修治は初めてきちんと待てた。
帰りに管理先の集合住宅でラチェットを回収すると、住人に洗面台の下をもう一度見てほしいと頼まれた。いつもの修治なら、五分で済みますと言って膝をついた。
「今日は確認する時間がありません。明日の十時なら来られます」
住人は不満そうだったが、分かったと答えた。十時、と修治の目の前でカレンダーに書いた。
五時十分に戻ると、作業台の〈発送〉に横線が引かれていた。
あずさは錠前と古い鍵を見比べていた。手元には、鍵に似た形になりかけた真鍮の棒がある。
「ラチェット」
「おかえりより先か」
「まだ帰ってきてなかったから」
受け取った一本を、あずさは工具箱のくぼみへ収めた。ふたは閉めなかった。
修治は発送の控えを、濡れないところに並べた。
「できることは」
「そこの照明、持って。手元に影ができないように」
錠前は作業台に固定されていた。あずさは作りかけの鍵を差し、途中で止まるとすぐに抜いた。力をかけない。削る。試す。古い鍵も確かめる。
修治には、何が変わっているのかほとんど見えなかった。
「これ、どこまで削るか分かるのか」
「分からないまま削らないようにしてる」
あずさはチョークを手に取り、新しい鍵の一部へ薄く粉をこすった。
「当たったところを見る補助。これだけで決めるものじゃないよ」
抜いた鍵には粉の落ちた箇所があった。彼女はそこを眺め、錠前の中を照らさせ、ノギスで寸法を確かめた。修治は腕がだるくなると、照明を持ち替えた。
以前なら、あと何分、と聞いていた。
五時四十一分、新しい鍵が初めて最後まで動いた。
修治は思わず声を上げた。
「できた」
「まだ。戸につけてから」
あずさの声は平らだった。ただ、丸めていた背中が少し伸びた。
修治の携帯が震えた。佐伯からだった。既に家へ着いたという。
六時まで、二十分足らずだった。
*
六時八分前。旧家の軒先で、佐伯は傘を閉じていた。
修治が車から降りると、佐伯の目はまず、上着のない濡れた肩へ行った。
「電話で言っていた、加工の方ですね」
「柴崎さんです。錠前を確認して、加工をお願いしました。費用はお伝えしたとおり、こちらで負担します」
あずさは会釈だけして工具を運んだ。
修治は照明を置き、あずさが昼に送ってきた、外す前の写真を開いた。あずさが錠前を戻す。戸を開けた状態では、新しい鍵も古い鍵も動いた。
戸を閉めると、新しい鍵が止まった。
修治の胃が縮んだ。
あずさは鍵から手を離した。
「押さないで」
誰も触れていなかった。それでも修治は両手を後ろへ回した。
言っていたとおりだった。あずさは戸を開け、閉め、受け側を確かめた。敷居には擦れた跡がある。戸が下がり、錠の出る部分と受けがずれていた。
「鍵だけの問題ではありませんでした」
佐伯が修治を見た。
「重いと言ったのは、これでしょう」
「はい」
修治はうなずいた。
「三時に、柴崎さんから戸が下がっているかもしれないと言われていました。僕は古い戸だからと流しました」
あずさは手を止めなかった。
「今日は鍵を渡せても、このまま借り手に使ってもらうわけにはいきません。建具の修理を手配します。それまで開閉には僕が来ます。間に合わせられなかったことは、僕から説明させてください」
佐伯は答えず、あずさの作業を見ていた。
彼女は大きな修理には手を出さなかった。緩んでいたねじを締め、確認できる範囲を調整すると、戸を静かに閉めた。
今度は鍵が回った。
「これは仮の調整です。建具は専門の方に見てもらってください。鍵も、使う方に何度か試してもらいたいです」
佐伯は新しい鍵を受け取り、自分で施錠し、解錠した。三度目には、鍵穴を探す手つきが少し滑らかになった。
修治は息を吐いた。
「管理契約は、今月いっぱいにしましょう」
佐伯の言葉に、息が途中で止まった。
「今日の鍵はありがとうございます。でも、毎回こちらが念を押さないと進まないのでは、遠くから頼めません」
雨が瓦を打った。
あずさは工具を布で拭いていた。修治の代わりに何か言うことも、佐伯へ顔を向けることもしなかった。
修治は鞄から手帳を出した。
「引継ぎの資料を作ります。残っている修理も、日付と連絡先を出します」
書こうとした指が滑った。手が濡れていた。ズボンで拭いて、もう一度ペンを持った。
*
工場へ戻ったのは七時前だった。
あずさは作業台に残していた自分の鞄を取り、修治は空のバケツを雨漏りの下へ戻した。
「すまなかった」
あずさは財布から領収書を出していた。
「何について」
「今日、いくつもある」
「一個ずつなら聞く」
修治は工具箱を見た。
「返すのを後回しにした。困ったら使えるように、車に積んでた」
「うん」
「工場を閉めることも、俺ならもっと早く決めたとか、言いそうになった」
「言わなくてよかったね」
「前は言った」
あずさの手が止まった。
修治は作業台の白い線を見た。左側は終わっている。右側の〈鍵〉には、まだ線がなかった。
「結婚したら俺の仕事を手伝ってほしかった。こっちの仕事は、空いた時間で続けられると思ってた」
「空いた時間でできるなら、こんなに場所を取ってない」
工場の奥を見て、あずさは笑いかけた。だが、笑いにはならなかった。
「閉めるのは自分で決めた。でも、ほっとしてる日ばかりじゃない。あなたには、ほら見ろって思われたくなかった」
修治は何か言おうとして、やめた。
あずさがここを去るのを、自分のところへ戻る余地のように感じていた。それを口にしなかっただけで、彼女の寂しさをまた一つ、自分の都合に変えていた。
「今日は帰るよ」
修治は領収書を受け取り、工賃を払った。財布には、明日の昼食を考えるくらいの金が残った。
あずさは古い鍵を差し出した。
「管理している間は、あなたが持つんでしょう。根元が傷んでるから、無理に回さないで」
佐伯の手には新しい一本がある。修治の手には、使い続けて薄くなった一本が戻った。
「半分ずつになったな」
あずさは首を振った。
「鍵を分けただけ。管理の責任まで半分にしないで」
修治は鍵を封筒にしまった。
出口まで行くと、雨はまだ強かった。壊れた傘を開こうとして、骨の曲がったところに指を挟む。
背後で、小さく笑う声がした。
「それ、もう傘として雇うのをやめたら」
あずさが工場の傘立てから、大きな黒い傘を抜いた。
差し出された柄を、修治は受け取らなかった。
「また借りっぱなしにしそうだから?」
「違う。駅まで、送っていいか」
あずさは修治の顔を見た。
「車で?」
「歩いて。車はここへ取りに戻る」
返事を待つ間、修治は傘立ての水を見ていた。
「駅前で何か食べたい」とあずさが言った。「昼、食べてない」
「俺も」
「私はラーメン」
「分かった」
「今日は割り勘ね」
あずさは作業台へ戻り、短いチョークで〈鍵〉に線を引いた。それから工具箱のふたを閉め、両手で持ち上げた。
「これは持つから、傘はそっち」
工具箱をいったん足元に置き、シャッターを下ろして施錠する彼女の頭上へ、修治は傘を寄せた。
二人で入るには、今日の雨は強すぎた。歩き出すとすぐに修治の右肩が濡れた。あずさの鞄は修治が肩にかけていた。あずさが気づいて工具箱を片手に提げ直し、空いた手を柄へ添えて、少し真ん中へ戻した。
修治は握った手を離さず、彼女の歩幅になるまで足を緩めた。




