妹の身代わりで不遇な辺境侯に嫁がされましたが、外れを引いたのはどうやら向こうだったようです
「妹にはもっと相応しい縁談があるの」
母は、泣きそうな顔の妹の肩を抱きながらそう言った。
その言葉だけで、私はだいたいのことを理解した。
また私の番なのだ。
妹が嫌がるものを、代わりに引き受ける番。
「お父様もそうお考えですか」
私は一応、確認だけしておく。
父は居心地の悪そうな顔で咳払いをした。
「……相手はグランフェルト辺境侯だ。
北辺の防衛を任される家だが、土地は寒く、社交も少ない。
エミリアには少々荷が重い」
エミリアというのは妹の名だ。
私の名はエレミア。
父はときどき、こうして呼び間違える。
昔はそのたびに傷ついたものだけれど、今はもう慣れてしまった。
「お姉様なら落ち着いていらっしゃるし」
妹のエミリアが、涙を浮かべたまま私を見る。
「辺境でもきっと上手くやれますわ。
わたくし、寒いのも粗野な土地も苦手で……」
そこまで言って、彼女はうつむいた。
可哀想な妹を演じるのが上手い。
母はそれだけで娘を守る騎士みたいな顔になる。
「エミリアには、もっと華やかな縁談があるはずなの」
母は私へ向き直る。
「北辺のような土地で埋もれるには惜しいのよ」
では私は、埋もれても惜しくないのだろう。
そういうことは、もうずいぶん前から分かっていた。
私が管理していた家計簿の字がどれだけ丁寧でも。
季節の寄付先を整え、家の支出を抑え、父の見落とした契約書の穴を埋めても。
華やかな妹の笑顔のほうが、この家ではずっと価値がある。
「分かりました」
私がそう言うと、母はあからさまにほっとした顔をした。
父も黙って頷く。
エミリアだけが、わずかに目を見開いていた。
「……いいの、お姉様?」
「あなたが寒いのが苦手なのは本当でしょう」
私は静かに答える。
「でしたら、私が行くほうが丸く収まります」
それは、昔から私の役目だった。
丸く収めること。
誰かの機嫌を損ねないよう、少しずつ削られること。
傷つかないわけではないけれど、泣いたところで何かが変わる家でもない。
だったら、最初から静かに受け入れたほうが早い。
「助かるわ、エレミア」
母は言う。
「あなたは本当に聞き分けがよくていい子ね」
褒められているはずなのに、少しも嬉しくない言葉だった。
聞き分けがよくなければ、この家では生きにくかっただけなのに。
「婚礼の支度は急ぐ」
父がようやく現実的な声を出す。
「向こうは来月には迎えを寄越すそうだ」
ずいぶん早い。
でも、向こうにとってもこれは恋愛ではなく政略の延長なのだろう。
娘が一人差し替わっても構わない程度の話。
そう思えば、少しだけ気が楽だった。
せめて辺境侯が、噂通りの冷酷で無愛想な男ならいい。
情を持たずに済むから。
そのときの私は、本気でそう思っていた。
グランフェルト辺境侯家の馬車は、王都のものよりずっと実務的だった。
装飾は少ない。
けれど防寒布は厚く、車輪も頑丈で、揺れが少ない。
長旅に耐える作りだと乗った瞬間に分かる。
見せるための馬車ではなく、ちゃんと人を運ぶための馬車だった。
北へ向かうにつれて、外の景色はどんどん色を失っていった。
青みがかった空。
白く乾いた草原。
遠くに見える針葉樹の森。
息をするたび、肺の奥まで冷えるような風。
エミリアではたしかに無理だったかもしれない、と少しだけ思う。
でも、そう思ったところで何も変わらない。
辺境侯の居城へ着いたのは、雪が降り始める前の夕方だった。
灰色の石で作られた大きな屋敷は、華やかさとは遠いけれど、古くて強い印象がある。
門兵たちの姿勢も無駄がなく、出迎えの使用人たちも落ち着いていた。
少なくとも、家の中が崩れている雰囲気ではない。
「長旅ご苦労だった」
そう言って現れたのが、グランフェルト辺境侯その人だった。
名をアシュレイ・グランフェルトという。
噂では、無愛想で冷酷で、戦しか知らない男。
そう聞いていた。
たしかに背は高く、右の眉の上に薄い傷もある。
けれど、目つきが冷たいというより静かな人だった。
相手を値踏みするような軽薄さがない。
「エレミア・フォルナーでございます」
私は礼を取る。
「このたびはお迎えいただき、ありがとうございます」
「礼は不要だ」
アシュレイ様は言った。
「本来ここへ来る予定だったのは妹君のほうだと聞いている」
いきなりそこへ触れるのかと、私は少しだけ目を瞬く。
でも、その率直さは嫌いではなかった。
どうせすぐ知られる話だ。
曖昧に濁されるよりよほどましだと思う。
「はい」
「あなたに拒否権があったとは思っていない」
そう言ったあと、彼はほんの少しだけ言葉を選んだ。
「だから最初に伝えておく。
私の妻としての礼は尽くす。
だが、この婚姻で無理に何かを求めるつもりはない」
あまりにも予想外の言葉で、すぐには返事ができなかった。
政略の身代わりとして来た女に、最初に言うことがそれなのかと思う。
少なくとも私の家では、そんな配慮は一度もなかった。
「……ありがとうございます」
「ひとまず今日は休め」
彼は続ける。
「話は明日の朝にする」
その言い方も、やはり落ち着いていた。
冷たいのではなく、むしろ必要以上に踏み込まない人なのだと、そのとき少しだけ分かった。
翌朝、私は日の出前に目が覚めた。
慣れない土地ではよくあることだ。
寝台は暖かく、部屋にも風は入らない。
使用人の気配りも行き届いている。
辺境侯家は、少なくとも私を粗雑には扱っていなかった。
着替えを済ませて廊下へ出ると、窓の外ではまだ薄暗い中庭に人影が見えた。
使用人たちが雪除けをしている。
兵士たちが荷車から袋を降ろしている。
ひどく朝が早い家らしい。
なんとなく気になって、私は階下へ降りていった。
台所の裏手を通ったところで、思わず足が止まる。
保存倉の扉が開け放たれ、中で大きな袋がいくつも積まれていたのだ。
穀物袋。
塩漬け肉。
乾燥豆。
根菜の箱。
どれも冬越しのための貯えだろう。
でも、積み方が悪い。
手前の箱のせいで奥の袋が湿気を吸うし、根菜と塩肉が近すぎる。
たぶんあと半月もすれば、いくつかは駄目になる。
「……もったいない」
思わず小さく呟いた声を、背後の誰かが拾った。
「何がだ」
振り返ると、アシュレイ様がいた。
朝の外套を肩へかけたまま、いつの間にか私の後ろに立っていたらしい。
「申し訳ありません」
私は少し迷ってから、正直に答える。
「保存倉の積み方です。
あのままですと、奥の穀物袋が湿気ます」
彼は驚くでもなく、保存倉の中へ視線をやった。
「分かるのか」
「少しだけ」
私は答える。
「実家で、冬の在庫管理をしておりましたので」
本当は“少し”ではない。
父が社交と外聞ばかりに気を取られる家で、実務を回していたのはほとんど私だ。
食料庫も、衣料も、寄付も、支払いも。
ただ、そういうことを大きな声で言うのには慣れていないだけだった。
「見てくれるか」
アシュレイ様は短く言った。
「はい?」
「困るなら直せばいい」
拍子抜けするほど自然な言い方だった。
私はしばらく彼を見た。
この人はどうやら、本当に必要なら相手へ仕事を渡す人らしい。
「よろしいのですか」
「ああ」
「私は、まだ来たばかりで」
「だからこそだ」
彼は言う。
「外から来た人間の目のほうが、崩れに気づくこともある」
その一言で、私は少しだけ救われた気がした。
口を出すなではなく、見えたなら言え。
この家では、それが許されるらしい。
「では」
私は一礼した。
「一時間ほどください」
私はその朝、保存倉の積み直しから始めた。
湿気を吸いやすい穀物袋は高い木台へ。
塩気の強い保存肉は反対側へ。
根菜箱の下には乾いた藁を足し、傷みの早いものから先に出す札をつける。
ついでに、冬用毛布の備蓄場所も見せてもらった。
こちらもひどかった。
数はあるのに、サイズ分けが曖昧で、配るたびに倉庫の奥を掘り返す形になっている。
これでは雪の日に急ぎで必要になったら混乱する。
「奥様、あんた何者だい」
倉庫番の老婆が、呆れたように言った。
でも声には敵意がない。
むしろ、ようやく話の分かる人間が来たと言いたげだった。
「ただの身代わりの妻です」
私が答えると、老婆は鼻を鳴らした。
「身代わりで、こんな札の切り方はしないね」
その返しが少し可笑しくて、私は初めてこの屋敷でちゃんと笑った。
数日もしないうちに、私はこの家のやり方をだいたい理解した。
グランフェルト辺境侯家は貧しいのではない。
厳しい土地に対して、手が少し足りていないだけだ。
だから帳面が読める人間と、冬越しの段取りができる人間が一人入るだけで、ずいぶん回りやすくなる。
アシュレイ様も、私のしたことに一つずつ目を通し、必要ならすぐ人手をつけた。
勝手にまとめた在庫表を見せたときも、彼はただ一言だけだった。
「助かる」
その言葉は不思議と軽くなかった。
社交辞令ではなく、本当にそう思っているのが分かる言い方だったからだ。
それから私は、領内の冬支度にも口を出すようになった。
兵の家族向けの毛布配布順。
学校への乾燥豆の回し方。
冬市で売る保存果実の値決め。
やればやるほど、この土地は嘘が少ないと思う。
足りないものは足りないと言う。
欲しいものは欲しいと言う。
王都みたいに、見栄のために余計なことを言わない。
だから気づけば私は、辺境の冬が嫌いではなくなっていた。
ここへ来たのは身代わりだったはずなのに。
そんなある日、王都から手紙が届いた。
母からだった。
『エミリアの縁談が決まりました。
相手は侯爵家の嫡男ユリウス様。
華やかな家柄で、王都でも評判の良縁です。
あなたも辺境で落ち着いたなら安心しました』
手紙の最後には、ついでのようにこう添えられていた。
『辺境では地味な暮らしでしょうけれど、あなたには合っているでしょう』
私はその一文をしばらく見つめてから、丁寧に畳んだ。
そうだろう。
私は地味だ。
だから華やかな妹の代わりに寒い辺境へ送られた。
それは事実だ。
でも、不思議ともう昔ほど傷つかない。
ここではその“地味”が役に立つと知ってしまったからかもしれない。
春先、再び王都から手紙が来たとき、封を見ただけで嫌な予感がした。
母ではなく、妹のエミリアからだったからだ。
『お姉様、助けてください。
ユリウス様のお家は、見た目ほど豊かではありませんでした。
しかも姑様はうるさいし、舞踏会の衣装代まで節約しろと仰るのです。
それなのに、皆さまは辺境侯家が王家から感謝状を賜ったとか、冬越し対策が見事だったとか、お姉様のことばかり褒めるのです。
どうしてお姉様ばかり。
ねえ、お姉様。
あちらの家、本当は外れではなかったのではありませんか』
最後の二行だけ、インクが滲んでいた。
たぶん怒って書いたのだろう。
でも、知らない。
私はあのとき、妹のために身代わりになっただけだ。
外れかどうかを決めたのは、最初から向こうではなくこちらの家なのだから。
私は返事を書かなかった。
代わりに、その日の夕方、冬に備えて追加発注していた毛織物が無事届いたことをアシュレイ様へ報告した。
彼は報告を聞き終えると、少しだけ考え、それから言った。
「王都からの手紙で何かあったか」
私は少し驚いた。
そんなに顔へ出ていたのだろうか。
「少しだけ」
「面倒か」
「はい」
正直に答えると、アシュレイ様はそれ以上は詮索しなかった。
ただ、机の端へ小さな鍵を置く。
「これは?」
「南倉の鍵だ」
彼は言う。
「冬織物と保存食の管理を、正式にあなたへ任せたい」
私は瞬きをした。
鍵は軽い。
でも、意味は軽くない。
「よろしいのですか」
「困るか」
「困りません。
……むしろ、嬉しいです」
そう答えると、彼はほんの少しだけ目を細めた。
たぶん笑ったのだと思う。
この人もあまり表情を大きく動かさないから、まだ少し分かりにくいけれど。
「なら、頼む」
ただそれだけだった。
けれど、私には十分だった。
身代わりとして来た女へ渡されるには、あまりにちゃんとした信頼の形だったからだ。
夏の終わり、王都から両親と妹がやって来たのは、その鍵をもらってから一月ほど後だった。
事前の知らせはなかった。
突然の来訪だった。
応接室へ通されるなり、母は部屋の調度を見回して少しだけ黙った。
質素ではあるけれど、整っている。
辺境だからといって粗末ではない。
父は窓から見える倉庫と工房を見て、予想よりきちんとしていると思った顔をしていた。
エミリアだけが、最初から機嫌の悪そうな顔だった。
「久しぶりね、お姉様」
彼女は挨拶より先に言った。
「思ったより元気そうで安心したわ」
「ありがとう」
私は微笑んだ。
「あなたもお元気そうで何より」
「ええ、まあ」
その“まあ”に、すでに不満が詰まっている。
どうやら本題は別にあるらしい。
父が咳払いをした。
「エレミア」
「はい」
「少々、相談があって来た」
やはり、と思う。
この家の人たちは、私に会いに来るのではなく、だいたい“相談”があるときだけ顔を出すのだ。
「エミリアの縁談が、破談になった」
私は驚かなかった。
あの手紙を読んだ時点で、そんな気はしていたからだ。
「ユリウス侯爵子息の家は思っていたより金回りが悪く、しかもこちらへ追加の持参金を求めてきた。
断ったら向こうから話を切ってきてな」
母が苦々しい顔で扇を握る。
エミリアは悔しそうに唇を噛んでいた。
けれど、そこに私が何を言えるというのだろう。
「それは大変でしたね」
私がそう返すと、エミリアが弾かれたように顔を上げた。
「他人事みたいに!」
「実際、他人事ですので」
部屋が一瞬だけ静まる。
父も母も、まさか私がそんな返し方をするとは思っていなかったのだろう。
昔の私は、こういう場面でももっと申し訳なさそうな顔をしていたはずだから。
「お姉様、最近少し冷たくなられたのではなくて?」
エミリアが尖った声で言う。
「辺境に来てから、ずいぶん変わってしまわれたのね」
「そうかもしれないわ」
私は静かに答えた。
ここへ来てから私は、必要なことを必要なだけ言う人たちと暮らしてきた。
だからもう、王都式の遠回しな遠慮が少し面倒になっていた。
「それで、ご相談とは何でしょう」
私が本題を促すと、母が扇を閉じる。
「……あなた、こちらでうまくやっているのでしょう?」
「はい」
「辺境侯家も、最近は王都で評判がいいわ。
冬越し対策や物資管理が見直されたとかで」
「ありがたいことに」
そこまで言ったところで、エミリアが割って入った。
「なら、今からでも入れ替われるのではなくて?」
私は、しばらくその言葉の意味が分からなかった。
「……入れ替わる?」
「そうよ」
妹は当然のように続ける。
「お姉様はもともと《《わたくしの代わり》》で嫁いだのでしょう?
なら、今度は本来の相手であるわたくしが辺境侯夫人になってもおかしくないわ」
あまりにも真っすぐな理屈で、逆に感心してしまった。
まだそんなことが言えるのか、この子は。
「あなた、結婚を交換できる衣装かなにかだと思っているの?」
思わず、少し素の声が出た。
エミリアはむっとした顔をする。
「だって、お姉様はただの身代わりだったじゃない」
「最初はそうだったかもしれないわ」
私は答える。
「でも、今は違う」
「何が違うの!」
「全部よ」
そこでようやく、私ははっきりと笑った。
前の家にいた頃なら、こういう言い方はできなかっただろう。
でももう私は、自分がどこで役に立ち、どこに居場所があるかを知っている。
「私はこの家で働いて、信頼をいただいて、きちんと役目を持っている。
あなたが今さら『代わる』と言っても、代われるものは何もないわ」
エミリアが真っ赤になる。
母が慌てて口を挟もうとした、そのときだった。
「その通りだ」
低い声がして、全員が振り向く。
応接室の扉口に、アシュレイ様が立っていた。
どうやら途中から全部聞いていたらしい。
「ア、アシュレイ様」
私は立ち上がる。
でも彼は私には頷くだけで、すぐに両親とエミリアへ目を向けた。
「私が妻に迎えたのは、エレミアだ」
その声は静かだった。
でも、反論の余地がまるでない種類の静けさだった。
「最初の経緯がどうであれ、今ここで私の隣に立つのは彼女だけだ。
今さら代われる話ではない」
母が青ざめ、父がうろたえた顔をする。
エミリアだけが、まだ食い下がろうとした。
「でも、お姉様は身代わりで――」
「その身代わりに、あなた方は何を渡した?」
アシュレイ様が問い返す。
鋭い声ではない。
けれど、真っ直ぐだった。
「家の都合で押しつけ、寒い土地だと笑い、今度は評判がよくなったから戻せと言う。
そんなやり方で、人の人生を扱う家に、私の妻を渡す理由はない」
部屋の空気が完全に変わった。
父が何かを言おうとして、言葉を失う。
母も扇を握りしめたまま黙る。
エミリアは、信じられないものを見る顔で私とアシュレイ様を見比べていた。
その視線の意味が、今ならよく分かる。
彼女はやっと理解したのだ。
外れだと思って手放したものが、実は自分のほうに向いていたはずの《《幸運》》ではなかったと。
幸運だったのは縁談そのものではなく、その場でちゃんと役に立てる人間のほうだったのだと。
「……お姉様ばかり」
エミリアが小さく呟く。
泣きそうな声だった。
でも、今の私にはそれを慰める気持ちは起きなかった。
ずっとそうだったのだから。
妹ばかり。
華やかな妹ばかり。
そう言われ続けてきたのはこちらだ。
「いいえ」
私は静かに首を振る。
「私はただ、行った先で私にできることをしただけよ」
それだけだ。
辺境へ行き、倉庫を整え、冬支度を回した。
誰かの代わりではなく、自分の手と頭で。
その結果、ここに立っている。
それを《《運がよかった》》の一言で片づけさせる気はなかった。
両親と妹は、その日のうちに帰っていった。
応接室を出るとき、父だけが一度振り返り、何か言いたげだった。
でも何も言わなかった。
たぶん今さら、謝る言葉も持っていなかったのだろう。
馬車の音が遠ざかってから、私はようやく深く息を吐いた。
思ったより疲れていたらしい。
肩から力が抜ける。
「……大丈夫か」
隣でアシュレイ様が訊く。
「はい」
私は頷く。
「少しだけ、くたびれましたけれど」
「なら、今日はもう帳面を閉じろ」
そう言って、彼は少しだけ間を置いた。
「それと」
「はい」
「身代わりなどという言葉を、二度と自分に使うな」
私は目を瞬いた。
その一言は、思っていたより深く胸に入った。
身代わり。
聞き慣れた言葉だった。
自分でもそう思っていた。
でも、ここでは違うのだと、ようやく本当に分かる。
「分かりました」
私がそう答えると、アシュレイ様は短く頷いた。
それから、いつもより少しだけゆっくりと言う。
「エレミア」
名前を呼ばれる。
それだけで、なぜか少しだけ心臓に悪い。
「私は最初から、妻が誰でもよかったわけではない」
「……」
「最初は政略だった」
彼は言う。
「だが、今は違う」
そこで言葉を切るのはずるいと思う。
でも、この人がそういうところで無駄に飾らないのも知っている。
たぶん今、言葉を選んでいるのだ。
「あなたがここに残ってくれて、よかった」
その一言は、派手ではない。
でも私には十分だった。
冬支度を褒められるより。
倉庫番に頼られるより。
ずっと欲しかった言葉だった気がする。
「私もです」
私は微笑んだ。
「ここへ来てよかったと思っています」
それは本当だった。
身代わりで嫁がされたことまで肯定する気はない。
でも、その先で自分の居場所を見つけたことは、もう否定したくなかった。
外れを引いたと思っていた。
でも違った。
外れだったのは、私を代わりの利く娘だと思っていた向こうのほうだったのだ。
私はもう、身代わりではない。
ちゃんと自分の名前で呼ばれて、自分の役目を持って、この辺境侯家に立っている。
それならきっと、この先はもう少し欲張ってもいい。
「アシュレイ様」
「何だ」
「今度、冬支度の帳面を一緒に見てくださいますか」
「もちろんだ」
「では、そのあとに」
一呼吸だけ迷ってから続ける。
「……夫婦の今後のお話も」
アシュレイ様の目が、ほんの少しだけ和らいだ。
たぶん、今までで一番分かりやすい笑顔だったと思う。
「そのつもりでいた」
辺境の風は相変わらず冷たい。
でも、私の帰る場所はもうここにある。
それが分かるだけで、昔よりずっと冬が優しく感じた。
面白ければ、ブックマークや評価で応援いただけると嬉しいです。
【4/18追記】
本作をお読み頂きありがとうございます。
本日、新連載を開始しました。
妹が「お姉様の代わりは務まります」と言うので、婚約者も役目も譲りました。ですが務まらなかったようです【連載版】
https://ncode.syosetu.com/n3418mb/
本作と同時期に投稿した同名の短編を連載化したものです。
光栄なことに、信じがたいほど多くの方々に読んで頂けた短編で(現時点で日間総合5位!)、この連載も少しでも多くの方々に楽しんでいただけるよう頑張ってまいります!
是非是非、皆様の応援をよろしくお願いいたします!
なお、本作についても少量ではありますが、連載版の準備をしております。
上記の連載が一段落したところで連載版をお出しできればと思いますので、こちらも合わせて応援の程ほど、よろしくお願いいたします。




