アダムとイブ
「ねぇ、アダムとイブって、なんで生まれたんだと思う?」
放課後の図書室。西日が窓ガラスを通して木の机に模様を落としていた。埃が光の中でふわふわ舞っていて、静かで、世界から切り離されたような空気だった。
「……どういう意味?」
僕は本を閉じて顔を上げた。向かい側に座っているのは、クラスメイトの木下葵。文化系の部活に所属しているわけでもないのに、毎日のように図書室にいる変わった子だ。
「だってさ、神様が人類を創ったっていうなら、そもそもなんで創ったの? ただの興味? 遊び? それとも……寂しかったのかな?」
葵は窓の外を見つめながら言った。校庭の向こうで、サッカー部が走っているのが見える。
「……そんなこと考えたこともなかったな」
「だよね。普通、考えない。でもさ、私、アダムとイブって“理由”にしか見えないの」
「理由?」
「うん。“生まれてしまった理由”っていうより、“世界を始めるための、仕方ない言い訳”みたいなもの」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かがカチリと音を立てた。
木下葵とは、実はそれほど仲がいいわけじゃない。席も遠いし、話すようになったのも最近だった。だけどこの図書室だけは、なぜかふたりの距離が少しだけ近づく。
「もしアダムとイブがいなかったら、この世界って始まらなかったのかな?」
「でもさ、人類がいなければ、世界は平和だったかもよ?」
葵はさらっと残酷なことを言う。だけどその口調はどこか優しくて、悲しそうだった。
「葵は、この世界が嫌い?」
「ううん、逆。……好きだからこそ、どうしてこうなっちゃったんだろうって思うの」
彼女の目が、一瞬だけこちらを見た。憂いを帯びた瞳。まるで、遠い未来を一人で背負っているような。
「たぶんね、アダムもイブも、選ばれたんじゃないと思うの」
「じゃあ?」
「押しつけられたの。罪とか責任とか、希望とか、全部」
……そう言ったあと、彼女は小さく笑った。
「私、今すごく嫌なこと言ったでしょ」
「……ううん、なんか……わかるかもしれない」
僕はそう答えていた。自分でも驚くほど純粋に素直な声で。
それから僕らは、毎日のように図書室で会うようになった。葵は時々突拍子もないことを言う。「人間の心はどこまでが自分のものなんだろう」とか、「この世界は誰かの夢じゃないか」とか。でも不思議と、話すたびに視界が開けていくようだった。
ある日、葵はいつものように哲学書を開きながら言った。
「アダムとイブがさ、最初に林檎を食べたって話あるでしょ」
「ああ、知恵の実ってやつ?」
「うん。でも、もしあれが“知ること”そのものだったとしたらさ。あの瞬間、彼らはただ人間になっただけなんじゃないかな」
「神じゃなくて?」
「うん。神様は完璧で、何も知らなくてもよかった。でも人間は、知らなくちゃ生きていけない。だから……林檎を食べた瞬間に、私たちは“知るという呪い”を背負ったのかもね」
「呪い、か……」
「でもね、私、それって同時に“祝福”でもあると思うの」
「祝福?」
「だって、知ろうとすることって、愛に近いじゃん」
葵の言葉に、僕はしばらく黙ってしまった。心の中が、ぽかりと何かに満たされる感覚があった。
「もし、神様が孤独だったとしたら」
ある日、彼女はそう言った。
「それを埋めるためにアダムとイブを作ったのなら、私たちも誰かの孤独を埋める存在として、生まれてきたのかもしれないね」
そのとき僕は、たまらなく彼女に触れたくなった。手を伸ばせば届く距離に、彼女はいる。でも、その背中に背負っているものの重さに、触れてはいけないような気がして、指先は宙で止まった。
でも、その夜、僕は決めた。
「葵、もし君が林檎を食べたイブなら、僕は――」
そう言いかけた言葉は、口の中で溶けた。けれど葵は、少しだけ笑ったように見えた。
春が来て、僕たちは進級した。相変わらず図書室は静かで、埃が舞い、光が差し込む。だけど葵はもう、あの席にいない。
突然の転校。理由は聞かなかったし、彼女も告げなかった。
机の上に残された一冊の本。ページの隅に、小さな文字でこう書かれていた。
「アダムとイブは、誰かの孤独を引き受けた。
それは悲劇でもあったけど、きっと、誰かを救った。
私も、誰かを救いたかったんだ。
……そして、気づいたの。
私がずっと“なぜ生まれたのか”を考えてたのは、
本当は“誰かと、生まれてきた意味を分け合いたかった”からなんだって。
ありがとう。林檎を一緒に食べてくれた人へ。」
僕はしばらく、その文字を見つめた。
心臓が痛いほどに脈を打っていた。
葵はもうここにはいない。けれど、彼女の問いかけは今も僕の中で生きている。
だから、これからも僕は考え続ける。
世界のしくみと、生まれてきた理由と、誰かの孤独を。
そして、願いのように、誰かに手を差し伸べていくんだ。
あの林檎は、“誰かの痛み”でも“責任”でもなかった。
あれは彼女が差し出してくれた、“一緒に考えること”そしてそれを"分かち合うこと"だったんだ。
それを僕は、奪ったと思っていた。
何も返せなかった自分を責めていた。
でもそれは違った。
ああそうか。
僕たちは林檎を奪ったんじゃない。
それを、分け合ったんだ。
罪じゃなく、始まりとして。
あれから季節がひとつ巡った。
今でも僕は考え続けている。
葵が残した問いと、彼女が差し出してくれた小さな林檎の記憶を。
そして思う。
この世界は、誰かの問いかけでできている。
誰かの孤独や祈りが、誰かの存在を生む。
アダムとイブがいたのは、始まりの物語じゃなくて
分かち合うという選択の物語だったのだと僕は思う。
それなら、僕もきっとこの世界に、生まれてきた理由がある。
林檎の向こう側にあったのは、
罪じゃなく、祝福だった。