第七話 姉弟喧嘩
満月の夜が訪れた。
ツクヨミ高原から街を見下ろすと、そこには家々やビル群の光が瞬いている。
夏だというのに夜気はほどよく冷たく、肺の奥に届くたびに、昼の暑さを洗い流してくれるようだった。
「あの……アデルさん、エルゼお姉ちゃん。巻き込んでしまって本当にごめんなさい。全部僕のせいなのに……」
青梅のもとへ向かう途中、赤椰君がもう何度目かわからない謝罪の言葉を口にする。
彼はその場に立ちすくみ震えていた。
私とエルゼは、そんな彼の肩に優しく手を置き、声をかける。
「何度でも言うが、君にはなんの責任もない。だから、自分を責めるのはよすんだ」
「で、でも……!」
「アデルの言うとおりだぜ、赤椰。心配すんな、アタシらが全部解決してやるから」
「う、うん……ありがとう」
赤椰君を落ち着かせたあと、再び歩みを進める。
こちらの準備は万全だ。
あとはシノさんの安否が気になる。
事前情報から推測するに、青梅がその辺りを軽視するとは思わない。
きっと大丈夫であろう。
ツクヨミタワーの前まで歩を進めると、そこには青梅が待ち構えていた。
赤椰君をエルゼに任せ、私は数歩前へ進む。
しかし、周囲にシノさんの姿は見当たらない。
「青梅、シノさんはどうした? もしや、約束を反故にするわけではあるまいな?」
青梅は不敵な笑みを浮かべながら、白い粉雪のような息を吐き、腕を組んだ。
その様子に、一瞬最悪な結末が頭をよぎる。
「そう怖い顔をするでない。うちは約束を破らないことを信条としている。あのご婦人がこの場にいるのは危険じゃ。もしかしたら、巻き込んでしまうかもしれないからのぅ」
「……何? それはどういう意味――」
「お、おい、どうしたんだよ、赤椰!? アデル、逃げろ!」
エルゼの声を聞き、後ろを振り向こうとした瞬間、背中を貫き、腹へと抜ける凄まじい痛みが走った。
視線を落とすと、私の腹から何者かの腕が飛び出している。
青梅の仕業でも、月の光に当てられたエルゼの暴走でもない。
私の胴体を貫いていたのは――赤椰君の腕だった。
「ごふっ……! しゃ、赤椰君、な、なぜ……?」
「なんだ、吸血鬼も大したことないじゃないか」
「アデル!」
赤椰君は腕を乱暴に引き抜いた。
風穴が空いた胴体からは、大量の血液がこぼれ出てくる。
痛みのあまり、私はその場で膝をつく。
次の瞬間、彼はとてつもない力で私の胴体を蹴り上げたのだ。
その結果、青梅のすぐ近くまで吹き飛ばされてしまった。
「が、がはっ……! ハァ……ハァ、うぐっ……!」
青梅は倒れた私を冷静な顔で見下している。
普通に考えるなら、この鬼の姉弟がグルであり、絶体絶命な状況だろう。
しかし今、私たちはとある人物から、ある情報を受け取っている。
その情報が確かなら、きっと彼女は……。
「大丈夫か、吸血鬼よ? いや、おぬしはアデルと言う名じゃったな。今助けてやるぞ」
青梅は止まらない血を一瞬で凍らせ、一時的に傷口も塞いでくれた。
私は躊躇なく、懐から濃縮血液の入った小瓶を取り出し、中身を飲み込んだ。
みるみる傷口は塞がっていき、あっという間に元に戻る。
「……聞いていたとおり、君は善人のようだな」
「おぬし……どこまで知っている?」
「『全部』だ。今は緊急事態なのだろう? ならばここは、お互い協力しようじゃないか」
「誰の助言かはわからんが、話が早くて助かるのぅ。では、共にあの『悪鬼』を打ち倒そうぞ」
青梅は膝をついている私に、手を差し伸べてくれた。
私はそれに応え、立ち上がる。
そして、悪鬼となった赤椰君と対峙した。
さっきまでの心優しい彼ではない。
今は悪鬼が人格を乗っ取っているのだ。
姿はそれほど変わっていないが、声のトーンはかなり低い。
よく見てみると、奴の額の生え際から立派な黒い角が一本だけ生えている。
悪鬼はニヤッと半笑いになりながら、血塗れの腕をペロリと舐めた。
しかし、味が気に入らなかったのか、顔を少し歪める。
「チッ、どうやら真実を知っているようだな。同士討ちになれば楽だったんだが……」
「赤椰! 目を覚ませ!」
満月の光で狼女となったエルゼが、悪鬼に襲いかかる。
奴はそれをひらりとかわすと、裏拳を彼女の胴体に叩き込んだ。
その衝撃で彼女もこちらに吹き飛ばされた。
私は勢いよく飛んでくる彼女を受け止める。
彼女の身体からはわずかな血のにおいと、肉が焦げるようなにおいが発せられていた。
「い、いてて……。アデル、ありがとな」
「ほぉ、その獣も割と頑丈のようだ。これは意外だな」
悪鬼は自身のこぶしに、赤黒い炎を纏っている。
やはり、奴も不思議な力を扱うようだ。
私とエルゼと青梅の三人は、再び悪鬼となった赤椰君と対峙する。
奴の力がどれ程かはいまだにわからない。
しかし、三対一なら勝機はあるはずだ。
「もしや、勝てると思っているのか? 俺は百年に一人の選ばれし鬼なんだぞ?」
「あまり驕っていると痛い目を見るぜ?」
「ならば俺を楽しませてみせろ、雑魚共が!」
悪鬼は両手をこちらに向けると、無数の赤黒い炎の塊を飛ばしてきた。
すると、青梅が私とエルゼの前に出る。
彼女が手を振りかざすと吹雪が吹き荒れ、炎の塊は瞬時に凍結し、こちらに届く前にすべて消失した。
「ほぉ……さすが姉上」
「おぬしに褒められても嬉しくはないのぅ。よもや、その程度ではあるまい?」
「ハッ、言ってくれる。すぐに自分の発言を後悔することになるぞ」
「……やってみるがよい」
青梅は片足を前へ出し、地面を強く踏み込んだ。
地面からは鋭利な氷の柱が次々と現れ、勢いよく悪鬼に迫っていく。
奴はそれを避けるために大きく跳躍する。
今度は炎の槍を生み出し、彼女へ向けて投げ放った。
青梅が咄嗟に両腕を突き出すと、眼前に巨大な氷壁がせり上がる。
炎槍と氷壁が激突した瞬間、轟音とともに白い水蒸気が噴き上がり、辺りの視界は一瞬で塗りつぶされた。
「……今じゃ、行けっ!」
私とエルゼはその声に反応し、においを辿りながら、一気に悪鬼へと接近する。
霧が晴れたときには、すでに奴の目と鼻の先まで迫っていた。
私は血でできた剣を、エルゼは鋭い爪で、弱点である黒い角に、同時攻撃を加える。
しかし、角には傷一つつかない。
「狙いはいい! だが、力不足だな!」
悪鬼が地面に両手を押しつけると、複数の巨大な火柱が噴き出した。
近づけないと悟った私たちは、迷いなく距離を取る。
「これは褒美だ。受け取るがいい」
悪鬼の両手から、蛇のような炎の塊が飛び出す。
それは火柱の間を縫うようにして、こちらへと向かってくる。
そのまま私の右腕とエルゼの左腕に絡みつき、ジュウという音を立て、服ごと肉を焼いた。
「ぐっ……!」
「がっ……!」
次の刹那、悪鬼は私たちの間に割り込んだ。
そして、炎を纏ったこぶしで私とエルゼを殴り飛ばす。
間一髪、私は血の鎧で防ぐことはできたが、彼女はモロに食らい、ツクヨミタワーに叩きつけられる。
「エルゼ!」
エルゼは気絶したのか、そのまま動かなくなってしまう。
彼女の心配をしてしまったのが、悪手だった。
すでに炎を纏った手刀が眼前に迫る。
もうダメだ――!
そう思った瞬間、吹雪によって視界が遮られた。
そのおかげでわずかに軌道が逸れ、左肩口を抉られるだけで済んだ。
「距離を取れ、アデルよ!」
「……やはり、姉上から先に片づけたほうがよさそうだ」
悪鬼は私にとどめを刺さずに、青梅へと一直線に向かっていった。
奴は身体全体に赤黒い炎を纏っており、吹雪の中をものともせずに突き進んでいく。
悪鬼は青梅と肉薄し、彼女の首を絞めた。
彼女は必死にもがいている。
一方、奴は邪悪な笑顔を浮かべていた。
まだか……。
まだ効いてこないのか……?
「よくも俺を殺そうとしたな、姉上。だが、これですべて終わりだ」
「くっ……! こうなれば、うちの最終奥義で道連れにしてやる!」
「……姉さん、本当に僕を殺す気なの?」
悪鬼は口調と声のトーンを元に戻す。
そのせいで、青梅は一瞬だけ動きを止めてしまう。
「しゃ、赤椰……?」
「……残念、俺でした」
「や、やめるんだ!」
「じゃあな、姉上」
青梅の身体は、一瞬で赤黒い炎に包まれる。
炎は衣服も皮膚も、髪の毛さえも焼き尽くす。
悪鬼の手の中には、炭のように変貌した青梅の無惨な姿だけが残った。
「せっかくの美人もこうなっちゃおしまいだな」
悪鬼は青梅を雑に投げ捨てる。
それから、こちらを振り向いた。
「次はお前の番だ」
「貴様!」
悪鬼は一瞬で私との距離を詰める。
さっきの青梅のときと同じように、首を絞められた。
まずい、殺される……!
「じゃあな、吸血鬼」
「ぐっ……!」
「――がっ!? がふっ……!?」
悪鬼は急にもがき苦しみ始める。
私の首から手を離し、自身の首に手を当てながら、苦痛の表情を浮かべていた。
……どうやら、やっと効いてきたようだ。
「な、なぜ、こ、こんなにも苦しいんだ!?」
「私の血はな、貴様のような異形にとっては猛毒なのさ」
「な、なんだと……!? だが、お前を殺すなんて造作もないことだぞ!」
悪鬼は再び私の首を絞め、炎を放出し始めた。
次の瞬間、奴が後方に吹き飛んだ。
目の前には、こぶしを突き出したエルゼがいる。
彼女のおかげで、私は助かったのだ。
「よお、アデル。お取り込み中だったか?」
「いいや、ちょうど君が来るのを待っていたところだよ」
「……調子いいこと言いやがって。さてと、さっさとアタシらで終わらせるぞ」
「当然だ」
私とエルゼは悪鬼の前に立ち塞がる。
その場に倒れ込んだ悪鬼は泡を吹き、のたうち回りながら、もがき苦しんでいた。
「ぐががっ……! こ、殺さないで……ください……!」
青梅のときと同様に、悪鬼は赤椰君の声で命乞いをする。
しかし、私たちにそれは通用しない。
「赤椰君を殺しはしない。死ぬのは貴様だけだ、悪鬼!」
「さっさとやっちまおうぜ、アデル」
「ああ、もちろんだ」
「や、やめて……くれ……!」
私はもう一度、濃縮血液を摂取する。
そして、手だけに血液を集中させ、真っ赤に染めあがった手刀をつくりあげた。
エルゼも力を溜める構えをとる。
「お、お前らは……いったいなんなんだ……?」
「貴様を地獄へ送る前に教えてやる。私は半吸血鬼のアデル」
「アタシは半狼のエルゼだ」
「では、いくぞ、エルゼ」
「ああ、いつでもいいぜ、アデル」
「や……め……ろ……」
私たちは全身全霊で、黒い角に同時攻撃を仕掛ける。
その結果、角にはヒビが入り、やがてボロボロと崩れ去った。
悪鬼の気配は消え、赤椰君の気配が戻ってくるのを感じ取れる。
しかし、毒のせいで息遣いが荒く、顔色も悪い。
そこで私は、懐から解毒剤の入った小瓶を取り出し、中身を彼に飲ませる。
すると、彼は穏やかな表情を取り戻し、ゆっくりと呼吸を繰り返すようになった。
意識は戻っていないが、大した怪我もしていないので、命に別状はなさそうだ。
「どうやら、悪鬼は完全に消え去ったようだ」
「赤椰が無事で何よりだぜ」
「しかし、青梅は……」
「心配ご無用。あとは私に任せてもらえますかな?」
突如、何者かの声が辺りに響き渡った。




