第四十五話 吸血鬼と狼女
その日の昼頃。
私とエルゼは、モニカの家を訪れた。
もちろん、今日は仕事ではなくプライベートの用事だ。
インターホンを押すと、家の中から、銀髪で褐色の体格のよい男性が現れる。
その男性は、右目に眼帯をつけており、なおかつ、左腕が義手だった。
「アデルとエルゼじゃねぇか。今日は仕事じゃねぇだろ? いったいどうしたんだ?」
「アップルパイを少し焼きすぎてしまってね。だからこうして、お裾分けに来たんだよ。モニカはいないのか、コウガ?」
「モニカならまだ寝てるぞ。徹夜で研究していたからな」
「そうか……。では、これを渡しておいてくれ」
「寂しいこと言うなよ。茶でも出すから、上がってけって」
「しかし……」
「ここは素直に甘えようぜ、アデル。外はあちぃし、喉もカラカラなんだ」
「わかった。君がそう言うなら……」
一年前、死んだと思ったコウガは生きていた。
あのときは死ぬ一歩手前だったが、今ではこうして元気にしている。
行き場のなかったコウガを、モニカが再び引き取った。
今度は被験体ではなく、同居人としてだ。
同棲している二人の仲は良好らしい。
もっとも、恋仲ではないと本人たちは言っている。
とはいえ、怪しいのは確かだ。
まあ、詮索する気はさらさらないので、深くは追及しないでおこう。
ちなみにコウガの義手は、モニカの知り合いの義肢装具士が作ってくれたと聞いている。
そのおかげで、日常生活に困ることはほとんどないらしい。
「みんな、おはよう~。いいにおいがするから、思わず飛び起きちゃったよ~」
「おはよう、モニカ」
「おはようさん」
「おはよう、モニカ。今茶を入れる」
「わぁ、アップルパイだ! いただきま~す。う~ん、美味しいねぇ~。……ぐぅ」
モニカはアップルパイを一切れかじると、テーブルに突っ伏して眠ってしまった。
コウガはやれやれといった表情をしながら、彼女をお姫様抱っこする。
「ちょっくら、ベッドに運んでくるわ」
コウガはそのまま二階へと上がっていく。
すると、エルゼはこそっと耳打ちをしてくる。
「なあ、アデル。あいつらは、どこまでいったと思う?」
「そんなこと気にしてどうするんだ? 何かあったら、においですぐわかるだろ?」
「におい消ししてるかもしれないぞ。あいつら距離が異様に近いんだよな……」
「残念だが、エルゼ。オレたちはただの同居人だ。それ以上でもそれ以下でもない」
コウガが否定しながらやってくる。
エルゼは途端につまらなさそうな顔をして、お茶を飲み干した。
「なんだよ、つまんねぇな」
「そういう関係だって別にいいだろ? モニカが研究をして、それをオレが支える。特に家事全般をな。今のオレは、それだけで幸せなんだ」
「……お前、本当にコウガか?」
「それはこっちのセリフだ。……いや、お前はあまり変わらんか」
「どういう意味だ! 表に出やがれ!」
「エルゼ、落ち着け」
モニカの家をあとにしようとしたとき、コウガが何かを渡してきた。
これは……濃縮血液の入った瓶?
「別に今必要ではないのだが?」
「それは肉体を強化するものじゃなくて、精神を補助するものらしい。モニカが、今日のアデルにはこれが必要になる、と言ってたぜ」
「……そういうことなら、ありがたくいただいておくよ。彼女に礼を言っておいてくれ」
「あいよ」
「相変わらず、外はあちぃな! どうした、アデル? 早く行こうぜ」
「わかったわかった。ではな、コウガ。モニカをよろしく頼む」
「おう、任せとけ」
最後に訪れたのは、ミネットとメデューサの住む屋敷だ。
カーテンが締めきられた部屋は、レトロなシャンデリアの灯りでほのかに照らされていた。
私たちは、その柔らかな光の中へと通される。
案内してくれたのはメデューサではなく、ミネットだった。
メデューサは仕事に行っているらしい。
「わー! 美味しそうなアップルパイ! お兄ちゃんとエルゼが作ったの?」
「ああ、一人ホール一個だぞ」
「こんなに大きいの食べきれないわ」
「アデルは肉づきのいい女がタイプらしいぞ」
「これくらいペロリよ。あと三個は食べられるわ。そのあとに、クロワッサンとバニラシェイクもいけるわね」
「けっ、現金な奴だぜ……」
「ただいま戻りました!」
メデューサの声が玄関から聞こえてくる。
彼女は部屋に入ってくるなり、ミネットに抱きついた。
そんなメデューサの頭を、ミネットは優しく撫でる。
「ミネット様~! 疲れました~!」
「お疲れ様、メデューサ。いつも頑張って偉いわ。今日の夕食はカレーよ。デザートに、お兄ちゃんとエルゼが作ったアップルパイもあるわ」
「ハッ、アデル様にエルゼもいたのですか! 申し訳ありません、今気づきました!」
「なんでアタシだけ呼び捨てなんだよ……。まあ、いいけどさ」
「メデューサ、仕事は上手くいってるのか?」
「もちろんです。夕食を食べたら、また仕事に行きますよ」
現在、メデューサは「なんでも屋」を営み、毎日休まずに働き続けている。
いくら洗脳されていたとはいえ、彼女は多くのものを壊しすぎた。
その過去は決して変えられない。
一時期、彼女のメンタルは自決未遂まで至ったが、ミネットの必死の説得で持ち直した。
今の彼女は正体を明かさず、過去に奪ったものを、一つでも多く返していこうとしているのだ。
ちなみに、メデューサの姉二人は無事に解放された。
なんでも、グウェドの拠点の地下に監禁されていたらしい。
姉二人は故郷に帰ったが、メデューサからは、この街に骨を埋める覚悟が伝わってくる。
「ミネット様のカレー、とても美味しいです!」
「そう言ってもらえて嬉しいわ。これはお兄ちゃん直伝のスパイスカレーなの。それと、あなたの料理の教え方が上手かったのよ」
「アデル様とエルゼの作ったアップルパイも、大変美味しいです! わたくしは幸せ者ですね。これで、夜の仕事も頑張れます!」
「気に入ってくれてよかった。また差し入れを持ってくるよ」
「そんな嬉しそうな顔をされると、なんだか照れちまうな……」
「ふふっ、本当に可愛いわね、ワタシのメデューサは……」
メデューサは満面の笑みを浮かべ、涙を流しながら、カレーとアップルパイを頬張っている。
ミネットはそんな彼女を愛おしそうに見つめていた。
「では、行って参ります」
「いってらっしゃい、メデューサ」
「気をつけて行くんだぞ」
「頑張れよ」
「メデューサ、行ってきますのチューは?」
「お、お戯れを、ミネット様……」
「しないと怒るわよ?」
「は、はい……。では……」
メデューサは恐る恐る、ミネットの頬に軽いキスをした。
すると、ミネットは急に上機嫌になる。
私たちはいったい、何を見せられているのだろうか……。
メデューサを見送ったあと、エルゼは再びトイレに行く。
残った私とミネットは、とある作戦について話し合う。
「今夜、決めるのね、お兄ちゃん?」
「……ああ」
「応援してるわ、頑張って。あ、でも、ワタシと過ごす時間は削らないでね。削ったら、怒るから」
「も、もちろんだ。ありがとう、ミネット」
「二人とも、何こそこそと話してんだ?」
「……兄妹には、秘め事の一つや二つあるものよ」
「そうか……? 相変わらず仲良いな、お前ら」
夜になり、私たちはヴァンピールに戻ってきた。
誰もいない店内で、並んでカウンター席に座り、コーヒーを飲みながら、ただただ雑談をして過ごす。
テーブルに置かれたカップと、触れ合うように重なった私たちの手だけが、灯りに照らされていた。
やがて会話が途切れ、静けさが店内を満たす。
気まずさはなく、むしろ心は落ち着いていく。
先程渡された濃縮血液の効果もあるのだろう。
それなのに、コーヒーの味だけが、いつもより苦かった。
「どうした? 急に黙って……」
「いや、なんでもない。ただ、綺麗な君を見ていただけだよ」
「は? なんだその言い方。気持ちわり……」
エルゼは露骨に顔をそらす。
しかし、確かに顔を紅潮させていた。
この反応を見ると、余計に胸が騒ぐ。
このタイミングを逃したら、一生後悔する。
深く息を吸うと、掌に汗が滲んだ。
――言うぞ。
「エルゼ、君に渡したいものがあるんだ」
「……ああ。そういえば、今日はアタシの誕生日だったな。まさかプレゼントってやつか?」
私は彼女の前に静かに膝をついた。
胸の奥から溢れる鼓動を押さえ込むように、懐へ手を伸ばす。
小さな箱を取り出し、震える指で開いた。
「エルゼ――」
灯りを受けて、指輪が淡く輝いた。
エルゼの瞳にはその光が映っている。
その視線をまっすぐ受け止めながら、私は彼女へ指輪を差し出した。
「私と一緒にこの店を続けてほしい。これからの夜も、人生も、すべて君と歩んでいきたいんだ」
彼女は目を丸くしながら驚いていたが、次第に表情が変わっていく。
顔全体をリンゴのように赤くしながら、その目には涙が浮かんでいた。
「……ったく、わざわざこんなもん買いやがって。ずりぃよ……こんなの……」
「嫌だったか?」
「嫌なわけねぇだろ! ……めちゃくちゃ嬉しいよ……」
「エルゼ、答えを聞かせてほしい」
「……イエスだよ。アタシでよけりゃ、これからもずっと一緒にいてやるさ」
私はそっとエルゼの左手を取った。
指輪がその薬指に吸い込まれるように収まった瞬間、彼女の瞳が静かに揺れる。
「愛してるよ、エルゼ」
気づけば、彼女を強く抱き寄せていた。
彼女も同じ力で抱き返してくる。
その温もりが、二度と失いたくないものを、はっきりと教えてくれた。
「アタシもだよ、アデル」
額同士が触れ合い、息が混じる。
その距離のまま、彼女の名をもう一度呼び――そして、静かに唇を重ねた。
彼女も自然とそれに応える。
それは、祝福のように温かく、私たちの新しい物語の始まりを告げる、甘いキスだった。




