第四十二話 決戦前
雨脚は、まるで空が落ちてくるかのように激しかった。
屋根を叩く水音は重く、湿った木の香りが別荘の隅々にまで満ちている。
エルゼとミネットはそれぞれ休息を取っていたが、どこか落ち着かない空気が漂っていた。
胸の奥のざわつきは、雨のせいだけではない。
そのとき、空気が不意に震えた。
雷でも風でもない。
——もっと重い、圧力がかかるような気配。
次の瞬間、窓の向こうの闇が揺らいだ。
一拍遅れて、轟音が大地を震わせる。
大きな何かが、夜を裂いて落ちてくる気配が迫った。
「逃げろ、お前ら!」
次の刹那、コウガの叫び声が聞こえてくる。
その直後、別荘の壁が砕け散った。
巨大な岩が唸りを上げながら突き破り、木材を粉々にし、床が大きく跳ね上がる。
破片と土砂が混ざり合い、容赦ない雨が一気に吹き込んできた。
「大丈夫か、みんな!?」
視界が白い木屑と闇に染まる中で、私は必死に仲間の姿を探した。
だが、聞こえてくるのは、別荘が崩れ落ちていく不吉な軋みだけだ。
建物全体が悲鳴を上げるように揺れ、屋根が崩れ落ちる音が背後から迫ってくる。
崩壊した別荘から飛び出し、冷たい土に膝をついた瞬間、私はようやく悟った。
外の闇には、雨を切り裂くような低い唸り声が混じっている。
ただの獣ではない、これは狼人間の声音だ。
囲まれている、しかも大勢に。
これはただの奇襲などではない。
最初から私たちを逃がす気のない、狩りそのものだ。
「いいサプライズだろう、我が息子よ」
「……グウェド!」
目の前の闇から、グウェドとアンジェラ、メデューサが姿を現した。
その瞬間、私はミネットのことを思い出す。
身体の血が一気に沸き、気づけばグウェドに襲いかかっていた。
しかし、雨のときは血装術が使えない。
案の定、グウェドに達する前に、メデューサの尻尾の横なぎが直撃する。
私は勢いよく廃屋に叩きつけられた。
その衝撃で身体中の骨が折れ、動けなくなってしまう。
「可愛げのない息子を持つと苦労するな。以前のように、私のことは父上と呼びたまえ。……やれ、メデューサ」
「がああっ!」
「もうやめて、メデューサ!」
突然ミネットが現れ、メデューサの前に立ち塞がる。
すると、メデューサは頭を抱え、苦しみだした。
「うぐっ……!? お、お嬢……様……?」
「そうよ、ミネットよ! グウェドの洗脳なんかに負けないで、メデューサ!」
「うが……あ……あ!」
「チッ、役立たずめ……。狼人間ども、こいつらを食い殺せ」
「グオオッ!」
今度は周りの狼人間たちが襲いかかってきた。
明らかに前よりも数が増えており、ざっと見ただけで三百体くらいはいる。
奴らは周囲を包囲し、その輪が二重三重と増えていく。
「グオオッ!」
「くそっ……!」
私は襲いかかってくる狼人間たちに、なす術なく蹂躙された。
狼人間たちは一斉に私の身体に群がり、その鋭い爪と牙で肉を引き裂いていく。
このままではまずい――。
そう思った瞬間、群れていた狼人間たちは、バラバラに砕け散った。
「大丈夫か、アデル」
「まだ死んでねぇみたいだな」
そこにはエルゼとコウガが立っていた。
狼人間たちは、まるで恐れることを忘れてしまったかのように、突撃してくる。
二人はその大群を、体術のみでなぎ倒していく。
この調子ならいけるか――?
「お前たち、これを見ろ!」
グウェドのほうを見ると、ミネットが首を掴まれたまま、足を宙に浮かせていた。
エルゼとコウガは動きを一瞬止めてしまう。
その隙が命取りになり、一瞬で狼人間の群れに飲み込まれる。
「ミネット、エルゼ、コウガ!」
「ふふっ、アデルよ。残るは、お前だけだな」
「お兄……ちゃん……。ワタシの……ことはいいから……こいつを殺して……!」
「まったく、親に向かってなんという言い草だ。……また一から躾け直してやらねばならんな」
「ひっ……!」
「ふふっ、怖いか? そうだアデル、これから愉快なショーを見せてやろう」
「や、やめろ、グウェド!」
グウェドはニヤリと笑ったあと、メデューサの前にミネットを投げ捨てる。
そして、メデューサに非情な命令を下した。
「やれ、メデューサ! ミネットを石にするんだ!」
「い、嫌で……す……! ぐっ……がああっ!」
「ごめんなさい、お兄ちゃん。ワタシはここまで――」
次の瞬間、ミネットはメデューサの光線を浴び、一瞬で石の像と化した。
私の怒りは頂点に達し、グウェドに迫る。
しかし、奴は冷静にかわし、カウンター気味に膝を腹部にめり込ませた。
私は意識を失いかけ、その場に倒れ込む。
だが、それでもグウェドを必死に睨みつけた。
「おっと、そう怖い顔をするな。せっかくの美形が台無しだぞ? ……うーむ、この場でお前を殺してもいいのだが、それではつまらないな。……そうだな、明日の夜ツクヨミタワーで決着をつけようじゃないか」
「な……に……?」
「明日の夜までには、服をちゃんと洗っておけ。ドレスコードは大切だからな」
グウェドは笑いながらそう言い残し、眷属たちを引き連れ、闇の中へと消えていった。
あとに残されたのは、無惨に崩れた別荘と石化したミネット。
満身創痍のエルゼとコウガ……そして、無様に倒れ伏す私だけだった。
満月の光は雲ひとつない夜空から惜しげもなく降り注ぎ、山の斜面を白く照らしている。
眼下に見える、ツクヨミシティは静まり返っていた。
ただ、月光に照らされた廃墟群だけが、傷痕としてくっきり残っている。
ツクヨミタワーが近づくにつれ、空気は澄み、夜風はよりいっそう冷たくなった。
エルゼとコウガの足音が背後から続いてくる。
そのリズムは乱れず、迷いも感じられなかった。
誰も言葉を発しない。
言葉を必要としないほど、覚悟は決まっていたのだ。
やがて、木々の隙間からツクヨミタワーの姿が見え始めた。
山の頂にそびえ立つその建造物は、満月の光を受けて、輪郭を鮮やかに浮かび上がらせている。
街の象徴、あの頂で、すべてが終わるのだ。
胸の奥に揺らぎはない。
恐怖も焦りという感情も、すでに手放していた。
満月に照らされた山道を進むたびに、静かな熱が身体の中心で膨らんでいく。
風が頬を撫で、その熱は形を持つようになり、歩幅に重みを与える。
タワーの白い壁面がはっきりと見えたとき、私は思わず息を飲んだ。
タワー前の広場には、アンジェラと三百――いや、それよりもさらに多い、四百近い狼人間たちが待ち構えていた。
予想していた光景だが、実際に目にすると重さが違うな……。
「簡単には通してくれねぇみたいだな……」
「これは想定内だ。コウガ、ここは頼むぞ」
「ああ、任せろ。予定どおり、オレが囮になって奴らを引きつける。お前らは、あの階段まで一気に走れ」
「わかった。生きてまた会おう」
「気をつけろよな」
「心配すんな、あのアンジェラって野郎は確実に殺す。あいつは一応同種族だ。だが、奴はほかの同胞たちを殺しすぎた。その同胞の無念は、オレが代表して果たしてみせる」
「君になら安心して託せそうだ。……しかし、本当に強狼剤はいらないのか?」
「これもあの野郎が作ったもんだろ? そんなもん使わねぇよ。それに、オレは純血の狼男だぜ?」
コウガはそう言うと、満月を見上げた。
彼は獣人形態――狼男へと姿を変える。
そして、そのまま単騎で狼人間たちの群れに突っ込んでいく。
「オレの名はコウガ! 仲間を守るためなら、この身一つで牙も爪も振るう! 来いよ! 全部まとめて、食い破ってやる!」
「みんなひるまないで! 敵は一人よ! 蹂躙してやりなさい!」
「グオオッ!」
作戦どおり、コウガは囮となり、狼人間たちを引きつける。
私とエルゼはその隙に階段を上っていく。
しかし、頂上まであと少しというところで、メデューサが姿を現し、私たちの前に立ち塞がった。
「がああっ!」
「くそっ! こんなときに……!」
「……アデル、お前は一人でグウェドと決着をつけろ」
「エルゼ? それはいったい――」
エルゼは満月を見上げ、狼女へと変貌する。
そして彼女は、手に持った強狼剤の瓶を握り潰した。
「アタシもこれは使わねぇ。使わずとも勝ってやるさ」
「エルゼ、本気なのか?」
「安心しろ、あとでちゃんと合流するからさ」
「……わかった。私は君を信じている。ここは任せたぞ」
「へへっ、アタシもお前を信じてるぜ、アデル。グウェドに一発かましてやれ。いくぜ、オラァ!」
「がああっ!」
エルゼはメデューサに勢いよく飛びかかる。
二人は階段を飛び出し、そのまま落下していく。
私は振り返ることなく、タワーの頂上まで一気に駆け上がった。
「……ここまで辿り着いたのはお前だけか、アデルよ」
頂上に着くと、そこには濃い月の光を一身に浴びるグウェドの姿があった。
奴は一歩も動かず、ただ口元を緩めている。
あれは余裕なんて生易しいものではない。
完全に勝ちを確信している者の顔だ。
「……つまらん、実につまらんぞ。弱者のお前が、圧倒的強者であるこの私に、本気で勝てると思っているのか? 羽虫ごときが、鷲の影すら踏めると思うなよ」
「以前の私だったら、そう思われてもおかしくはない。だが、今は背負っているものが違う! 犠牲になった人々や仲間たちのためにも、必ずお前を討ち果たしてみせる!」
「相変わらず、口だけは一人前だな。具体的に、どうやってこの私を倒す気だ?」
「今の私にはこれがある」
私はモニカから託された、銀色の液体の入った瓶を取り出す。
グウェドはがっかりしたような表情を浮かべ、私に軽蔑の眼差しを向けた。
「まだそんなものに頼るのか? まったく、懲りない奴だ。貴様は本当に、吸血鬼としてのプライドがないようだな。……いいだろう、一瞬で片をつけてやる」
空気がわずかに揺らぎ、辺りにひやりとした緊張が走った。
その感覚に引きずられるように、コウガとのやり取りが脳裏をよぎる。
『そういや、その銀色の液体について、まだ伝えてないことがある。それはアデル、お前自身の血を濃縮したものなんだと。前にも言ったとおり、それを飲めば、お前は死ぬかもしれない。それでも飲むのか?』
『……言うまでもないよ』
『そうか……。まぁ、生きて帰ってきてくれよ。またお前の淹れたコーヒーを飲みたいしな』
『ふっ、善処するよ』
私は躊躇なく、瓶に入った自身の濃縮血液を飲み干した。
ここから先こそ、すべての決着がつく。
本当の最終決戦の始まりだ。




