第四話 喫茶ヴァンピール
夜の帳が完全に下り、辺りに静寂が広がる頃、私は開店の看板を出す。
店内に響くのは、少しの作業音と遠くで流れるラウンジミュージックだけだ。
慣れた手つきでコーヒーカップを拭き、棚に戻す。
ここは喫茶「ヴァンピール」。
人間だけではなく、常識の影をすり抜けた者たちが、静けさを求めて訪れる深夜の喫茶店である。
メインストリートから少し離れた場所にあるため、人通りはまばらだ。
その分、静かで落ち着いた空気が流れていて、どこか心地よい。
店の外観はどこか洋館を思わせる造りで、扉にはコウモリを模したアイアンの装飾が施され、窓枠には赤い薔薇の蔓が巻きついている。
内観は黒を基調としたシックな内装で、壁には古びた肖像画や古びた壁掛け時計。
天井にはレトロなステンドグラスシャンデリアが吊るされていて、琥珀色の光が店内を優しく照らしている。
店内にはカウンター席が五席、四人掛けのソファー席が三卓しかなく、こじんまりとした印象を与えるのは必然だ。
目の前にはメイド服に身を包んだ、住み込みで働いているツインテールの女性がいる。
彼女は無言でカウンターの上を磨いていた。
働き始めた当初は、この格好をするのが嫌だと散々文句を言っていたが、今ではすっかり馴染んでいる。
彼女の名前はエルゼ。
本来は腰まであるくせ毛の強い灰色の髪に、褐色の肌。
身長はかなり高めで、百九十センチメートルの私とほぼ変わらない。
ショッピングモールで彼女を見失うことはまずないだろう。
今は人間の形を保っているが、満月になると狼女に変身する異形の者だ。
私たちが住んでいるこの街の名は「ツクヨミシティ」。
不思議なことに、ここには人間だけでなく、彼女のような異形の者たちが多く訪れる。
まあ、私自身もご多分に漏れず後者なのだが……。
「今日も暇だなぁ……」
「まだ開店してから十分も経ってないぞ。それより、掃除は終わったのか?」
「おう、今日もピカピカだぜ」
「ほぉ、それはご苦労。……で、これはなんだ?」
カウンターの隅を手でなぞってみると、指には埃がついていた。
彼女を一瞥すると、視線を泳がせながら頭を掻いている。
「あ、あれぇ~? しっかりと掃除したはずなんだけどなぁ~?」
「罰として、今日はおやつ抜きだな」
「そ、それは嫌だ! もう一回チャンスをくれよ!」
「ふっ、そんなに慌てるな。今日だけは見逃してやる。明日以降の君に期待しているぞ」
「おいおい、今日は妙に優しいな。もしかして、下心でもあるのか?」
「よし、やっぱりおやつ抜きだ」
「ごめんなさい。アデル様は神様です」
「神様はお客様だ」
掃除が終わってから数分後、チリン、と控えめなドアベルの音が店内に響く。
私は拭いていたカップを置き、お客様に笑顔を向けた。
「いらっしゃいませ」
「こんばんは。今日もいい夜だね、マスター」
「よお、シノ。昨日ぶりだな。毎晩来るのはいいが、身体は大丈夫なのか?」
「こんばんは、エルちゃん。気を遣ってくれてありがとう。でも、わたしはまだまだ元気だよ」
今夜最初のお客様は、常連客でもある、シノ・ユキヒラさんだ。
私はいつもシノさんと呼んでいる。
肩まである艶やかな銀髪、グレーのジャケットにダークグリーンのロングスカート。
赤いスカーフに赤い縁のサングラスが特徴的な女性だ。
なおかつ、高めのヒールを履いており、スタイルも齢七十とは思えないほど若々しい。
シノさんがカウンター席に座ると同時に、コーヒー豆を挽き始める。
その間、エルゼは水の入ったグラスとおしぼりを乗せたトレーを、シノさんの右側に置く。
いつもの手順を踏んだあと、カウンター上で真っ白のカップに濃い褐色のコーヒーを注いだ。
そして、カップの下にソーサーを敷き、彼女の目の前にそっと置いた。
彼女はカップを手に取り、しばらく香りを楽しんだあと、ゆっくりとコーヒーを一口啜る。
「……今日も変わらず美味しいわねぇ」
「ありがとうございます。すぐにたまごサンドも作りますね」
「いえ、今日は別のものにするわ」
「では、新メニューのカレードリアなどいかがですか?」
「カレードリア? 確かマスターの作るカレーは、特製スパイスカレーだろ? 辛いんじゃないのかい?」
「安心しろ、シノ。アタシが味見して、調整したから大丈夫だ」
「じゃあ、安心だね。それを一つ頼むよ」
「アデル、カレードリア一丁!」
「そんなに大声を上げるな。聞こえている」
すぐにカレードリア作りに取りかかる。
すると突然、喫茶店の扉が勢いよく開いた。
店内には、先ほどよりも騒がしいドアベルの音が響き渡る。
入店してきたのは、私よりも背が高く、銀髪で口髭を生やした黒いスーツ姿の中年男性だった。
彼はここの常連のブルートさんだ。
「こんばんは、マスター。風の噂で新メニューが完成したと聞いたので、馳せ参じました」
「いらっしゃいませ、ブルートさん。いつもお耳が早いですね。早速ご用意させていただきます」
「あ、シノさん。こんばんは」
「こんばんは、ブルートさん。何度も言うのは心苦しいけど、扉を勢いよく開けるのはよしておくれ。わたしみたいな婆さんは、ショックで心臓が止まっちまうよ」
「……すみません。善処いたします」
ブルートさんはいつもどおり四人掛けのソファー席に座った。
エルゼは先ほどと同じように、水の入ったグラスとおしぼりを乗せたトレーを、彼が座るテーブルに置く。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
エルゼは少年のような低めの声を、少し高くして接客をする。
その後、カウンター内に戻ってくると、小声で話しかけてきた。
「おい、アデル。あのオッサンは誰だ……?」
「……お客様にその言い方は失礼だぞ。彼は常連客のブルートさんだ」
「常連? ここで働き始めて一か月になるが、一度も見たことがないぞ」
「ブルートさんは新作のメニューが出たときにしか現れないんだ。毎回感想をくれる、とても良い人なんだぞ」
「へぇ~、そんな物好きな奴もいるんだな」
「奴、じゃなくて、ちゃんとお客様と言え。おやつ抜きにするぞ。……よし、ドリアが完成したな。エルゼ、これを二人に」
「へいへい、わかりましたよ」
完成したドリアが二人に行き渡る。
さて、ここからが正念場だ。
果たして、気に入ってもらえるだろうか……。
「焦げ目のついたチーズがとろけて、黄金色に輝いているねぇ。香りも意外と優しくて、あまり辛くはなさそうだ。いただきます」
「焼きチーズの香ばしさと、カレーのほどよいスパイシーな香りが食欲をそそりますね。いただきます」
二人は同時にカレードリアを食べ始める。
スプーンを入れると、チーズがゆっくり糸を引きながら持ち上がり、その下からは湯気とともに、カレーのスパイシーな香りが溢れだす。
二人はどこか目を輝かせながら、チーズとルーとライスが一体となった濃厚なドリアを口に運ぶ。
二人は最初の一口を咀嚼し終えると、無言でスプーンをせわしなく動かした。
熱いドリアを口に入れ、はふはふ食べながら、休憩も挟まずに食べ進めていく。
私とエルゼは緊張しながらも、黙ってその状況を見守る。
二人は最後まで無言で食べきった。
シノさんは食べ終えると、コーヒーを静かに啜る。
一方、ブルートさんはグラスになみなみと入った水を、一気に飲み干した。
「……うまい! チーズのコクとスパイシーだけど辛くないカレーが相性抜群だね!」
シノさんは、料理人が常に渇望している、賛辞の言葉を送ってくれた。
エルゼも嬉しそうに目を細めている。
「こんがり焼けたチーズとまろやかなカレーの一体感が美味ですね。ライスも、ただカレーをかけたものとは違い、しっかり味が染みていて別次元のうまさです。……おかわりをください」
ブルートさんの言葉で、限りない喜びに満ちる。
エルゼも嬉しさを隠しきれずに、口元を綻ばせていた。
「やったぜ!」
「お二方、ありがとうございます。エルゼ、喜ぶのもいいが、まずはお皿を下げるんだ」
「へいへい」
「シノさん、喜んでもらえたようで嬉しいです。ブルートさん、すぐに二皿目を用意しますね」
エルゼは空になった皿を回収する。
その後、ウォーターピッチャーを持ち、ブルートさんに確認したあと、グラスに水を注いだ。
その際、シノさんにも確認していたが、必要ないと言われたので、そのままカウンター内に戻ってくる。
「だんだんと、うちのやり方がわかってきたじゃないか」
「そりゃ、あれだけ『調教』されたら嫌でも身につくもんさ」
エルゼは笑顔でとんでもない発言をした。
彼女の発言によって店内は静まり返る。
「エ、エルちゃんはマスターに、ちょ、調教されたのかい?」
「お二方、そういうプライベートな話は、人前ではやめておいたほうがいいかと」
「お、おい、『調教』なんてしていないだろ!? 私は熱心に『教育』を施したんだ!」
「意味は同じなんだし、別にどっちでもいいだろ?」
「同じじゃない!」
エルゼは頭の後ろで手を組みながら、笑顔を崩さない。
一方、シノさんとブルートさんは、どこか疑うような眼差しで私を見てくる。
「エルちゃん、つらかったらいつでもわたしを頼ってくれてもいいんだよ?」
「マスター、少し落胆しました。なので、おかわりは無料にしてください」
いや、二人は完全に悪ノリしているだけだ。
その証拠に、二人は笑いを必死に堪えていた。
エルゼが来てから、私の保ってきたクールなキャラが崩壊しつつある。
この喫茶店のイメージのために、彼女にはもっと「教育」を施す必要があるな……。
「この髪型とメイド服も、無理やりさせられたんだろ?」
「髪型はそんな感じだな。でも、メイド服はアタシが自ら選んだんだ。アデルが何十種類もメイド服を持ってて助かったぜ」
「お、おい、喋りすぎだ、エルゼ!」
「へ、へー、そりゃよかったねぇ……」
「マスター、今のはさすがに引きました……」
二人から生温かい視線を向けられる。
私の性癖が知られてしまった。
しかも、常連である二人に……。
これはもう本格的に「調教」が必要なようだ。
シノさんとブルートさんが帰ったあと、店内には再び心地よい静寂が訪れた。
そんな中、エルゼは黙々と皿洗いをしている。
黙っていれば美人なのだがな……。
そう言いかけて、思わず口を閉じる。
これ以上失態を繰り返すと、私のキャラが完全に崩壊してしまう。
何かに集中しなければ……。
そうだ、ちょうどおやつの時間なので、彼女のためにチョコレートパフェを作ることにしよう。
「あ~、疲れたぜ。カレーって洗うのが手間なんだよな。それに、あのブルートってオッサンは食いすぎだ。ドリアを三回もおかわりしたうえに、スペシャルパフェも食いやがって……」
エルゼは皿洗いを終えると、カウンター席にどっかりと座る。
私はチョコレートパフェとミルクのたっぷり入ったカフェオレを、彼女に提供した。
「おっ、待ってました。ちょうどパフェが食いたかったんだよ。それじゃ、いただきまーす」
「だからオッサンではなくブルートさんと言え。普段からその呼び方だと癖になるぞ」
「へいへい、気をつけますよー」
エルゼは黙々とパフェを食べ始める。
言葉は発さないが、表情は非常に豊かだ。
彼女の嬉しそうな表情を見ると、なぜか元気が出る。
さて、明日は何を作ってやろうか……。
次の刹那、店の扉が大きな音を立てて、勢いよく開け放たれた。
突然切り裂かれる静寂。
そして同時に、喫茶店にはふさわしくない血のにおいが漂い始めた。
「た、助けてください……!」
そこに現れたのは血塗れの少年だった。
しかも、そのにおいは明らかに人間のものではない。
どうやらこの街は、再び異形の者を招き寄せてしまったようだ。




