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吸血鬼と狼女  作者: 松川スズム
第四章
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第三十八話 敗北

 エルゼはすでに動いていた。

 風を裂く音とともに、彼女の蹴りが父上へと伸びる。

 それは鋭く、速い。

 薬の効果で筋肉が暴れ、しなやかさが獣じみた破壊力に変わっていた。

 私も追うように剣と盾を形成し、横合いから斬り込む。

 しかし、父上は血を纏った右手で彼女の蹴りを受け止め、左手に生成した小さな血の盾で、私の斬撃を受け流した。


「それが本気か? だとしたら、拍子抜けだ」


 淡々とした声。

 それが鋭いナイフのように心に突き刺さる。


 血を纏った父上の膝が、エルゼの腹に沈み込む。

 鈍い音がして、彼女の身体が大きく揺れた。 

 だが、まだ倒れない。

 薬の補強もあるが、それ以上に彼女の意地がそうさせていた。


「ぐっ……! まだまだァ!」


 私は咄嗟に血で鎖を作り、父上の腕に絡める。

 ほんの一瞬でいい。

 隙を作れば――。


 だが、その期待は即座に砕かれる。

 父上が軽く腕を振るだけで鎖が霧のようにほどけ、逆に私の胸へ掌底が突き刺さった。


「ぐっ……!」


 肺が裏返るような痛みとともに、息が漏れる。

 それでも私は倒れない。

 倒れたら、全部終わる。


「おらおらおらァ!」


 エルゼが再び突っ込んでいく。

 爪を立て、牙を軋ませ、父の懐へ滑り込む。

 今の彼女は私よりずっと速い。

 薬の効果の乗りも、獣の勘も段違いだ。


 だが、それでも届かない。

 血を纏った父上の肘が、彼女のこめかみにめり込み、頭部が激しく揺れる。

 彼女の身体は、力なく崩れ落ちた。


「よくもエルゼを!」


 叫びながら走り込む。

 血を斧へと変え、父の横腹を狙う。

 しかし、父上は冷静に生成した斧で、私の斧を弾いたのだ。

 そのまま空いた手で、私の胴体に裏拳を放つ。

 その衝撃で私は大きく後退し、その場で片膝をつく。


「ぐっ……! ハァ……ハァ……」


 エルゼが地に伏した。

 薬の効果があっても、さすがにあの一撃は耐えられない。

 呼吸音が聞こえてくるので、まだ生きている。

 ただし、戦闘には参加できそうにない。


 ここからは、私一人だ。

 不意に胸の奥がざわめく。

 恐怖と、怒りと、悔しさと……わずかな決意。

 それらを飲み込み、私は立ち上がる。


「まだ立つ……か」

「私は負けません、父上!」


 両腕に血を纏い、地を蹴った。

 父上も腕に血を纏い、再びこぶしが迫る。

 一見、避けられない速度。

 だが、今回は違う。

 

 事前に濃縮血液を浴びるように飲んでいる。

 そのおかげで身体が勝手に動き、こぶしの軌跡に合わせて、最小限の回避を取ることができた。

 皮膚が裂け、骨が軋むが、致命傷ではない。


 ――前よりも、見えている。


 父上の足の動き、肩の揺れ、呼吸の深さまでもがはっきりと感じられた。

 父上は明らかに苛立ったように眉をひそめる。


「その身体能力の向上……濃縮血液か?」

「あなたを倒すためには必要なものです!」

「お前は吸血鬼としてのプライドがないのか?」

「誇りなど、とうの昔に捨て去りました!」

「……軟弱者め」

 

 父上の瞳が、わずかに細くなる。

 次の刹那、父上が突っ込んできた。

 今度はさっきよりも速い。

 こぶしが顔に迫り、空気が歪む。

 受け止めれば腕が爆ぜる。

 避けても次の攻撃は受けきれない。


 ならば、前進あるのみだ。

 迫るこぶしを肩で受けた。

 骨が悲鳴を上げ、視界が歪む。

 だがその痛みが、むしろ身体を前へ押した。


 父のわずかな隙。

 攻撃のつなぎに生まれる、ほんの一瞬の間。


 ――ここだ。


 血を瞬時に凝縮し、槍に近い形へ変える。

 貫くことだけに特化した形。

 次の瞬間、父上の目が、わずかに開かれた。


 一撃が届いたのだ。

 父上の左脇腹へ、私の槍が微かに刺さった。

 皮膚を破り、ほんの少し血が滲む程度。

 だが、それで十分だ。

 毒さえ回ればこちらの勝ちである。

 

 父上は確かに驚いていた。

 しかし、冷静に剣を生成し、即座に攻撃を受けた脇腹を肉ごと抉る。

 しまった、あれでは毒が回らない……。


「……少しはやるようだな」


 私は息を荒らげながらも、地を踏みしめる。

 まだ勝てない。

 きっとこのあと、父の反撃でまた押し潰されるだろう。


 それでも――ついに、届いたのだ。

 それは私が初めて父上へ刻んだ傷だった。


 父上は脇腹の傷を一瞥すると、ゆっくりと息を吐く。

 その仕草だけで、ぞっとするほどの威圧感が漂う。

 まるで今までの戦いが、「準備運動だった」と言われたような錯覚さえ覚えた。


「……だが、あまり調子に乗るなよ、アデル」


 父上の声は静かで、その機微が読めない。

 ただ、次は確実に殺しに来る、それだけが理解できた。


 父上が一歩踏み込む。

 同時に、父上の血が瞬時に噴き上がり、鋭い槍と化す。

 目で追うよりも早く、槍が迫っていた。


「ッ……!」


 私は咄嗟に血の盾を展開する。

 しかし、衝撃が盾ごと私の身体を後方へ吹き飛ばした。

 腕の骨が軋み、そのまま地面に背中から叩きつけられ、息が抜ける。


「まだまだ……」


 父上の声が真横から聞こえた。

 飛ばされたはずなのに、すぐ隣に立っている。

 私が反応するより先に、父上の手が私の髪を掴み、無造作に引きずり上げた。


「もっと苦しむのだ、アデル」


 こぶしが腹部に突き刺さる。

 肋骨が軋み、胃がせり上がり、口から血が零れた。


「がっ……は……!」


 父上は私を放り捨てるように、地面へ叩きつけた。

 そのまま剣を生成し、無表情で振り下ろしてくる。


「……ッ!」


 私は残った力で、横へ転がる。

 剣は地面を深く抉り、破片が飛び散った。

 呼吸が荒くなり、肺が燃えるように熱い。


「ふふっ、まだ動けるのか……」


 父上がわずかに口角を上げる。

 だが、それはただの愉悦ではなく観察者のようだ。

 まるで私という試験体が、どこまで動くのか測っているかのようだった。


 再び父上が消える。

 踏み切り音さえ聞こえない。

 次の瞬間には、真上からその影が落ちてきていた。


「しまっ――」


 言葉よりも前に、肩へ蹴りが落ちる。

 骨が砕ける鈍い音がした。


「ぐあ……!」


 痛みで視界が揺れる。

 それでもなんとか立とうとする。

 足に力を入れるたび、膝が笑い、地面へ沈みそうだった。


「思いのほかよく耐えたな。……しかしながら、これで終わりだ」


 次の刹那、父上の血が鞭のように伸び、私の身体を締め上げた。

 肋骨が折れ、肺が圧迫される。

 呼吸ができない。

 骨が、内臓が、悲鳴を上げる。


「あ……ぐ……!」

「ここまでだな……」


 父上は一切の感情がない目で言い放つ。

 その言葉とともに、締めつける力が一気に強まった。


 世界が暗く染まる。

 手足の感覚が薄れ、意識が遠のく。

 私は膝から崩れ落ち、その場に倒れた。


「やはり、弱いな。だが、その気概だけは褒めてやる」


 父上は私の髪を掴み、気絶しているメデューサの前に放り投げた。

 彼女はいまだに沈黙している。

 

「アデル、お前の戦いには感銘を受けたよ。そこで提案がある。この役立たずのメデューサを、お前が始末するんだ」

「それは……できない!」

「おっと、立場を弁えたほうがいいぞ。周りをよく見てみろ」


 父上の言うとおり、周りを見渡す。

 そこには傷だらけの仲間たちが、狼人間に捕らえられ、地面に押しつけられていた。

 その中には、アンジェラと戦っていたはずのモニカも混じっている。

 どうやら、気づかないうちに劣勢に陥っていたようだ。


「メデューサを殺せば、お前たちは解放してやろう。もちろん、それが無理だったときは、わかっているな? ふふっ、私は優しいだろう? さあ、選ぶのだ、アデルよ」


 父上は私に究極の二択を迫る。

 メデューサを殺せば、石にされたライアンとシャノン、無辜の民は帰ってこない。

 しかし、殺さなければ、この場にいる全員が命を落とすことになるだろう。

 

 ……私の心はすでに決まっていた。

 ゆっくりと立ち上がり、メデューサと向かい合う。

 そして、血で生成した剣を振り上げる。

 狙いは、彼女の額だ。


「ほう、お前にとっては、ここにいる仲間のほうが大事のようだな。量より質を選ぶ……。実に私好みの答えだ。さあ、やるのだ! 我が息子よ!」


 メデューサに剣を振り下ろす直前、彼女の耳にある、金色と銀色のピアスが視界に入った。

 その瞬間、走馬灯のように彼女との記憶が脳内を駆け巡る。






 

 私はショッピングモールを訪れていた。

 私をここに誘ったのは、メデューサだ。

 彼女はクリスマスに、ミネットへプレゼントを贈りたいと、相談してきたのである。

 悩んだ末に選んだのは、小さな銀色のピアス。

 お嬢様の雰囲気に合う、と彼女が嬉しそうに笑ったのを、今も覚えている。


 迎えたクリスマス当日、ミネットはそのピアスを受け取って目を輝かせていた。

 だが驚いたことに、ミネットも同じデザインのピアス――。

 ただし、色違いの金色のピアスを、メデューサのために用意していたのだ。

 二人は顔を見合わせて、まるで姉妹のように笑い合った。


 その光景を眺めながら、私はただ、ミネットにこんな関係ができたことを嬉しく思う。

 二人は以前より、ずっと距離が近くなったように見えた。


『見て見て、お兄ちゃん。ピアスを片方ずつ交換したのよ。何か感想をちょうだい』

『二人とも、とても似合っているよ。まるで姉妹みたいだ』

『姉妹だなんて、とんでもない。わたくしはただの従者で……』

『メデューサ本当にありがとう。このピアス、大切にするわね。そうだ、これからエルゼたちにも、見せに行きましょう』

『ま、待ってください、お嬢様!』


 ミネットは屋敷から飛び出した。

 メデューサも慌ててあとを追う。

 しかし、途中で立ち止まり、こちらに歩み寄ってきた。


『ありがとうございます、若旦那様。おかげで、お嬢様に喜んでいただけました』

『そんなに畏まらなくていい。これくらい友人なら、当然のことだよ』

『……若旦那様。もし、わたくしがいなくなったら、お嬢様を頼みます』

『いきなりどうしたんだ? 正直、ずっとミネットの傍にいてくれないと困るよ。君には来年のクリスマスも、再来年のクリスマスも、一緒にプレゼントを選んで、ミネットを喜ばせる義務がある。だから、いなくなったりはしないだろう?』

『……そうですね。今のは忘れてください。来年もよろしくお願いいたします、若旦那様』

『こちらこそよろしく頼むよ、メデューサ』


 あのときの幸せそうなメデューサの顔が、私の心の奥に確かに焼きついていた。


 

 


 


 気づけば、私は振り下ろした剣を何もない地面に突き刺していた。

 その様子を見て、父上はいかにも落胆した表情を浮かべている。

 

「私は……どちらも選べない……!」

「……がっかりだよ、アデル。実に愚かな回答だ。その身をもって、己がいかに無力かを味わうがよい。覚醒せよ、メデューサ!」


 父上はメデューサと繋がっている鎖を赤く光らせる。

 すると、メデューサは目を覚ました。

 しかし、毒が回っているせいか、苦悶の表情を浮かべている。

 そんな彼女の前に、青梅と赤椰が差し出された。

 

「がああっ!」

「アデルよ、うちらのことは気にするな!」

「僕たちより、街の人たちを優先してくださ――」

「やれ、メデューサ」


 言葉が切れる前に、メデューサの赤い光によって、二人は石化した。

 次にメデューサはこちらを振り向き、迫ってくる。

 

「青梅! 赤椰!」

「実に残念だよ、アデル。私はお前のような、優柔不断な奴が大嫌いでね。もう顔も見たくないんだよ。メデューサよ、こいつも石にしろ」


 目の前でメデューサの赤い眼光が炸裂する。

 もうダメだ――。

 そう思った瞬間、何者かが私に突進してきた。

 なんと、モニカが私を庇ったのだ。

 しかし、光線は避けきれておらず、モニカは下半身、私は左腕が石化した。


 石化が徐々に肩まで侵食してくる。

 このままでは、まずい――。

 そう思った私は、肩口から左腕を自切する。

 その直後に、モニカのもとへ駆け寄った。


「大丈夫か、モニカ!」

「アデル……あたしはここまでだ。君にはこれを……託すよ」


 モニカの身体はすでに、胸の辺りまで石化が進んでいる。

 そんな中、彼女は小声で鍵を渡してきた。

 幸い、私の身体が壁になり、父上からは見えていない。


「……これは?」

「あたしの家の……マスターキーさ。これで、彼を解放してやって……くれ。きっと……きみたちの力になってくれる……はずさ」

「彼……?」


 モニカの石化は、すでに首もとまで進行していた。

 彼女は最後に力を振り絞り、口を開く。


「あたしに遠慮しないで……アンジェラを……討ち果たして……くれ……よ……」

「モニカ!」


 モニカは完全に石化してしまった。

 その直後、身体から力が抜け、意識が徐々に遠のいていく。


「……面白い展開になってきたな。もっとお前を絶望させたくなったよ。モニカ君の心意気を買って、今日は見逃してやろう。次に会うのが楽しみだよ、アデル」


 父上は高笑いを上げながら、眷属とともにこの場から引き上げていく。

 私はただ、それを黙って見ていることしかできなかった。

 視界が滲み、音も遠のいていく。

 そのまま、私の意識は夜の闇へと溶けていった。

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