第三十八話 敗北
エルゼはすでに動いていた。
風を裂く音とともに、彼女の蹴りが父上へと伸びる。
それは鋭く、速い。
薬の効果で筋肉が暴れ、しなやかさが獣じみた破壊力に変わっていた。
私も追うように剣と盾を形成し、横合いから斬り込む。
しかし、父上は血を纏った右手で彼女の蹴りを受け止め、左手に生成した小さな血の盾で、私の斬撃を受け流した。
「それが本気か? だとしたら、拍子抜けだ」
淡々とした声。
それが鋭いナイフのように心に突き刺さる。
血を纏った父上の膝が、エルゼの腹に沈み込む。
鈍い音がして、彼女の身体が大きく揺れた。
だが、まだ倒れない。
薬の補強もあるが、それ以上に彼女の意地がそうさせていた。
「ぐっ……! まだまだァ!」
私は咄嗟に血で鎖を作り、父上の腕に絡める。
ほんの一瞬でいい。
隙を作れば――。
だが、その期待は即座に砕かれる。
父上が軽く腕を振るだけで鎖が霧のようにほどけ、逆に私の胸へ掌底が突き刺さった。
「ぐっ……!」
肺が裏返るような痛みとともに、息が漏れる。
それでも私は倒れない。
倒れたら、全部終わる。
「おらおらおらァ!」
エルゼが再び突っ込んでいく。
爪を立て、牙を軋ませ、父の懐へ滑り込む。
今の彼女は私よりずっと速い。
薬の効果の乗りも、獣の勘も段違いだ。
だが、それでも届かない。
血を纏った父上の肘が、彼女のこめかみにめり込み、頭部が激しく揺れる。
彼女の身体は、力なく崩れ落ちた。
「よくもエルゼを!」
叫びながら走り込む。
血を斧へと変え、父の横腹を狙う。
しかし、父上は冷静に生成した斧で、私の斧を弾いたのだ。
そのまま空いた手で、私の胴体に裏拳を放つ。
その衝撃で私は大きく後退し、その場で片膝をつく。
「ぐっ……! ハァ……ハァ……」
エルゼが地に伏した。
薬の効果があっても、さすがにあの一撃は耐えられない。
呼吸音が聞こえてくるので、まだ生きている。
ただし、戦闘には参加できそうにない。
ここからは、私一人だ。
不意に胸の奥がざわめく。
恐怖と、怒りと、悔しさと……わずかな決意。
それらを飲み込み、私は立ち上がる。
「まだ立つ……か」
「私は負けません、父上!」
両腕に血を纏い、地を蹴った。
父上も腕に血を纏い、再びこぶしが迫る。
一見、避けられない速度。
だが、今回は違う。
事前に濃縮血液を浴びるように飲んでいる。
そのおかげで身体が勝手に動き、こぶしの軌跡に合わせて、最小限の回避を取ることができた。
皮膚が裂け、骨が軋むが、致命傷ではない。
――前よりも、見えている。
父上の足の動き、肩の揺れ、呼吸の深さまでもがはっきりと感じられた。
父上は明らかに苛立ったように眉をひそめる。
「その身体能力の向上……濃縮血液か?」
「あなたを倒すためには必要なものです!」
「お前は吸血鬼としてのプライドがないのか?」
「誇りなど、とうの昔に捨て去りました!」
「……軟弱者め」
父上の瞳が、わずかに細くなる。
次の刹那、父上が突っ込んできた。
今度はさっきよりも速い。
こぶしが顔に迫り、空気が歪む。
受け止めれば腕が爆ぜる。
避けても次の攻撃は受けきれない。
ならば、前進あるのみだ。
迫るこぶしを肩で受けた。
骨が悲鳴を上げ、視界が歪む。
だがその痛みが、むしろ身体を前へ押した。
父のわずかな隙。
攻撃のつなぎに生まれる、ほんの一瞬の間。
――ここだ。
血を瞬時に凝縮し、槍に近い形へ変える。
貫くことだけに特化した形。
次の瞬間、父上の目が、わずかに開かれた。
一撃が届いたのだ。
父上の左脇腹へ、私の槍が微かに刺さった。
皮膚を破り、ほんの少し血が滲む程度。
だが、それで十分だ。
毒さえ回ればこちらの勝ちである。
父上は確かに驚いていた。
しかし、冷静に剣を生成し、即座に攻撃を受けた脇腹を肉ごと抉る。
しまった、あれでは毒が回らない……。
「……少しはやるようだな」
私は息を荒らげながらも、地を踏みしめる。
まだ勝てない。
きっとこのあと、父の反撃でまた押し潰されるだろう。
それでも――ついに、届いたのだ。
それは私が初めて父上へ刻んだ傷だった。
父上は脇腹の傷を一瞥すると、ゆっくりと息を吐く。
その仕草だけで、ぞっとするほどの威圧感が漂う。
まるで今までの戦いが、「準備運動だった」と言われたような錯覚さえ覚えた。
「……だが、あまり調子に乗るなよ、アデル」
父上の声は静かで、その機微が読めない。
ただ、次は確実に殺しに来る、それだけが理解できた。
父上が一歩踏み込む。
同時に、父上の血が瞬時に噴き上がり、鋭い槍と化す。
目で追うよりも早く、槍が迫っていた。
「ッ……!」
私は咄嗟に血の盾を展開する。
しかし、衝撃が盾ごと私の身体を後方へ吹き飛ばした。
腕の骨が軋み、そのまま地面に背中から叩きつけられ、息が抜ける。
「まだまだ……」
父上の声が真横から聞こえた。
飛ばされたはずなのに、すぐ隣に立っている。
私が反応するより先に、父上の手が私の髪を掴み、無造作に引きずり上げた。
「もっと苦しむのだ、アデル」
こぶしが腹部に突き刺さる。
肋骨が軋み、胃がせり上がり、口から血が零れた。
「がっ……は……!」
父上は私を放り捨てるように、地面へ叩きつけた。
そのまま剣を生成し、無表情で振り下ろしてくる。
「……ッ!」
私は残った力で、横へ転がる。
剣は地面を深く抉り、破片が飛び散った。
呼吸が荒くなり、肺が燃えるように熱い。
「ふふっ、まだ動けるのか……」
父上がわずかに口角を上げる。
だが、それはただの愉悦ではなく観察者のようだ。
まるで私という試験体が、どこまで動くのか測っているかのようだった。
再び父上が消える。
踏み切り音さえ聞こえない。
次の瞬間には、真上からその影が落ちてきていた。
「しまっ――」
言葉よりも前に、肩へ蹴りが落ちる。
骨が砕ける鈍い音がした。
「ぐあ……!」
痛みで視界が揺れる。
それでもなんとか立とうとする。
足に力を入れるたび、膝が笑い、地面へ沈みそうだった。
「思いのほかよく耐えたな。……しかしながら、これで終わりだ」
次の刹那、父上の血が鞭のように伸び、私の身体を締め上げた。
肋骨が折れ、肺が圧迫される。
呼吸ができない。
骨が、内臓が、悲鳴を上げる。
「あ……ぐ……!」
「ここまでだな……」
父上は一切の感情がない目で言い放つ。
その言葉とともに、締めつける力が一気に強まった。
世界が暗く染まる。
手足の感覚が薄れ、意識が遠のく。
私は膝から崩れ落ち、その場に倒れた。
「やはり、弱いな。だが、その気概だけは褒めてやる」
父上は私の髪を掴み、気絶しているメデューサの前に放り投げた。
彼女はいまだに沈黙している。
「アデル、お前の戦いには感銘を受けたよ。そこで提案がある。この役立たずのメデューサを、お前が始末するんだ」
「それは……できない!」
「おっと、立場を弁えたほうがいいぞ。周りをよく見てみろ」
父上の言うとおり、周りを見渡す。
そこには傷だらけの仲間たちが、狼人間に捕らえられ、地面に押しつけられていた。
その中には、アンジェラと戦っていたはずのモニカも混じっている。
どうやら、気づかないうちに劣勢に陥っていたようだ。
「メデューサを殺せば、お前たちは解放してやろう。もちろん、それが無理だったときは、わかっているな? ふふっ、私は優しいだろう? さあ、選ぶのだ、アデルよ」
父上は私に究極の二択を迫る。
メデューサを殺せば、石にされたライアンとシャノン、無辜の民は帰ってこない。
しかし、殺さなければ、この場にいる全員が命を落とすことになるだろう。
……私の心はすでに決まっていた。
ゆっくりと立ち上がり、メデューサと向かい合う。
そして、血で生成した剣を振り上げる。
狙いは、彼女の額だ。
「ほう、お前にとっては、ここにいる仲間のほうが大事のようだな。量より質を選ぶ……。実に私好みの答えだ。さあ、やるのだ! 我が息子よ!」
メデューサに剣を振り下ろす直前、彼女の耳にある、金色と銀色のピアスが視界に入った。
その瞬間、走馬灯のように彼女との記憶が脳内を駆け巡る。
私はショッピングモールを訪れていた。
私をここに誘ったのは、メデューサだ。
彼女はクリスマスに、ミネットへプレゼントを贈りたいと、相談してきたのである。
悩んだ末に選んだのは、小さな銀色のピアス。
お嬢様の雰囲気に合う、と彼女が嬉しそうに笑ったのを、今も覚えている。
迎えたクリスマス当日、ミネットはそのピアスを受け取って目を輝かせていた。
だが驚いたことに、ミネットも同じデザインのピアス――。
ただし、色違いの金色のピアスを、メデューサのために用意していたのだ。
二人は顔を見合わせて、まるで姉妹のように笑い合った。
その光景を眺めながら、私はただ、ミネットにこんな関係ができたことを嬉しく思う。
二人は以前より、ずっと距離が近くなったように見えた。
『見て見て、お兄ちゃん。ピアスを片方ずつ交換したのよ。何か感想をちょうだい』
『二人とも、とても似合っているよ。まるで姉妹みたいだ』
『姉妹だなんて、とんでもない。わたくしはただの従者で……』
『メデューサ本当にありがとう。このピアス、大切にするわね。そうだ、これからエルゼたちにも、見せに行きましょう』
『ま、待ってください、お嬢様!』
ミネットは屋敷から飛び出した。
メデューサも慌ててあとを追う。
しかし、途中で立ち止まり、こちらに歩み寄ってきた。
『ありがとうございます、若旦那様。おかげで、お嬢様に喜んでいただけました』
『そんなに畏まらなくていい。これくらい友人なら、当然のことだよ』
『……若旦那様。もし、わたくしがいなくなったら、お嬢様を頼みます』
『いきなりどうしたんだ? 正直、ずっとミネットの傍にいてくれないと困るよ。君には来年のクリスマスも、再来年のクリスマスも、一緒にプレゼントを選んで、ミネットを喜ばせる義務がある。だから、いなくなったりはしないだろう?』
『……そうですね。今のは忘れてください。来年もよろしくお願いいたします、若旦那様』
『こちらこそよろしく頼むよ、メデューサ』
あのときの幸せそうなメデューサの顔が、私の心の奥に確かに焼きついていた。
気づけば、私は振り下ろした剣を何もない地面に突き刺していた。
その様子を見て、父上はいかにも落胆した表情を浮かべている。
「私は……どちらも選べない……!」
「……がっかりだよ、アデル。実に愚かな回答だ。その身をもって、己がいかに無力かを味わうがよい。覚醒せよ、メデューサ!」
父上はメデューサと繋がっている鎖を赤く光らせる。
すると、メデューサは目を覚ました。
しかし、毒が回っているせいか、苦悶の表情を浮かべている。
そんな彼女の前に、青梅と赤椰が差し出された。
「がああっ!」
「アデルよ、うちらのことは気にするな!」
「僕たちより、街の人たちを優先してくださ――」
「やれ、メデューサ」
言葉が切れる前に、メデューサの赤い光によって、二人は石化した。
次にメデューサはこちらを振り向き、迫ってくる。
「青梅! 赤椰!」
「実に残念だよ、アデル。私はお前のような、優柔不断な奴が大嫌いでね。もう顔も見たくないんだよ。メデューサよ、こいつも石にしろ」
目の前でメデューサの赤い眼光が炸裂する。
もうダメだ――。
そう思った瞬間、何者かが私に突進してきた。
なんと、モニカが私を庇ったのだ。
しかし、光線は避けきれておらず、モニカは下半身、私は左腕が石化した。
石化が徐々に肩まで侵食してくる。
このままでは、まずい――。
そう思った私は、肩口から左腕を自切する。
その直後に、モニカのもとへ駆け寄った。
「大丈夫か、モニカ!」
「アデル……あたしはここまでだ。君にはこれを……託すよ」
モニカの身体はすでに、胸の辺りまで石化が進んでいる。
そんな中、彼女は小声で鍵を渡してきた。
幸い、私の身体が壁になり、父上からは見えていない。
「……これは?」
「あたしの家の……マスターキーさ。これで、彼を解放してやって……くれ。きっと……きみたちの力になってくれる……はずさ」
「彼……?」
モニカの石化は、すでに首もとまで進行していた。
彼女は最後に力を振り絞り、口を開く。
「あたしに遠慮しないで……アンジェラを……討ち果たして……くれ……よ……」
「モニカ!」
モニカは完全に石化してしまった。
その直後、身体から力が抜け、意識が徐々に遠のいていく。
「……面白い展開になってきたな。もっとお前を絶望させたくなったよ。モニカ君の心意気を買って、今日は見逃してやろう。次に会うのが楽しみだよ、アデル」
父上は高笑いを上げながら、眷属とともにこの場から引き上げていく。
私はただ、それを黙って見ていることしかできなかった。
視界が滲み、音も遠のいていく。
そのまま、私の意識は夜の闇へと溶けていった。




