第三十五話 目覚め
あれは、いつの頃だっただろう。
ほんの少し背伸びをしないと、父上の手に届かなかった頃。
私がまだ父上の後ろを、小さな影のように追いかけていた、幼い日のことだ。
父上は、決して優しい人ではなかった。
むしろ、ぶっきらぼうで、無愛想で、気分屋で……。
とても子ども好きとは、言えない性格だった。
しかし、そんな父上にも、私には忘れられない思い出がある。
それはカフェ――。
当時の自宅のすぐ近くに、深夜でも営業している、煉瓦作りの古いカフェがあった。
父上は時々、きまぐれで私をそこへ連れていってくれたのである。
『……あまりうるさくするなよ』
入るなり、いつも父上は必ずそう言うのだ。
それでも、私は分かっていた。
静かにしていれば、父上は怒鳴らない。
それにコーヒーの香りがすると、父上はほんの少しだけ、柔らかくなるのだ。
私はテーブルにちょこんと座り、父上の向かいで、熱気の立つカップをじっと眺めている。
父上は深煎りの苦いコーヒーを好んだ。
一方幼い頃の私は、ミルクと砂糖をたっぷり入れた甘い飲み物を注文するのが習慣だった。
時折、父上がカップを口に運ぶと、肩の力が緩んでいくのが、子どもでも分かるのだ。
『……美味い』
ぽつりと、いつもより少し低い声でそう言う。
その一言が聞きたくて、私は何度も一緒にカフェへに連れていってもらった。
たぶん、父上は気づいていなかったのだろう。
けれど私は、あの瞬間の父上が好きだった。
静かで、穏やかで、どこか普通の父親のようで。
私だけが知っている、父上の柔らかい一面だった。
『アデル。さすがにそれは甘すぎるだろう』
私がホットミルクに大量の砂糖を溶かしていると、父上は呆れた様子で言った。
そのくせ、私の飲み物が減ってくると、何も言わずに店員を呼んで追加を頼んでくれる。
その後、面倒くさそうにため息を吐くまでがセットだった。
『そんなに好きなら、自分でカフェを開いてみたらどうだ? そうすれば、好きなだけ甘い物を飲み食いできるかもしれないぞ?』
何気なく放たれたその言葉を、私はずっと覚えていた。
父上が本気で言ったのかどうか、そんなものはどうでもよかった。
あのとき見た父上の顔。
わずかに目尻が下がっていた表情。
私はあれを、ずっと胸に抱き続けて大人になった。
そして、気づけば私は、ツクヨミシティで喫茶店を開いていたのである。
あのカフェの空気を、もう一度自分の手で作りたかったからだ。
大人になって、甘い物よりも苦味のある物ほうが好みの舌になり、あのときの父上に共感するようになった今日この頃。
今では父上と同じ目線で、仲間たちに甘い物を提供する側になった。
正直に言うと、きっかけをくれた父上には感謝している。
それは敵対している今でも変わらない。
まさか、そのせいで父上と戦うときに躊躇してしまうとは、思いもしなかったが……。
あのときは、武器を向ける手が震えたのだ。
きっと幼い頃の記憶が、邪魔をしたのだろう。
それに加え、族滅と、ミネットを押しつけて姿を消したこと、ブルートさんだった頃の交流が、枷となり尾を引いている。
『アデル……』
意識の底で、遠ざかるように父上の声が響いた。
何を言われたのかも曖昧で、残響だけが耳に残っている。
なぜだか、カフェの香りがほんの一瞬だけ漂った気がした。
重い瞼をかろうじて持ち上げると、天井がゆっくりと視界に入り込んできた。
腹部に鈍い痛みがある。
次いで、腐った鉄の味が口の中に広がっていることに気づく。
ここは……どこだ?
カーテンは締め切られていて、辺りは薄暗い。
見たことのない部屋だったが、においはどこか覚えがある。
唯一はっきりしているのは、その見知らぬ部屋のベッドで寝かされている、ということだけだ。
「お兄ちゃん!」
どこから現れたのか、突然ミネットが抱きついてきた。
しかし、動こうとしても、身体が言うことをきかない。
腕も足も、自分のものではないように重かった。
「モニカ! お兄ちゃんが起きたわ!」
ミネットは大声を上げながら、ドタドタと階段を下りていく。
襲ってくる頭痛の奥で、少しずつ記憶が繋がっていく。
父上との再会。
一方的な戦い。
仲間の悲鳴。
そして、私が倒れる瞬間。
薄く開いた視界の先に、ぼやけた影が見えた。
冷たい笑みを浮かべた、あの影……。
『目覚めたときには、すべて終わっている』
その言葉が、残酷なほど鮮明によみがえった。
父上のあの冷徹な声が、いまだに耳の奥にこびりついている。
「……父上」
消え入りそうな声が、私の唇から零れた。
幼い日の甘い記憶が、胸をチクリと刺す。
あの頃の父上は、もういない。
けれど私の中には、今でもあのカフェのにおいが残っている。
その味は、今の私には何よりも苦い。
そんなことを反芻していると、ミネットがモニカを連れてきた。
その表情には、安堵の気持ちが浮かんでいる。
「よかった。目を覚ましたんだね、アデル」
「モニカ、私はどのくらい眠っていたんだ?」
「……約三日間だね」
「そうか……。ここはいったいどこなんだ?」
「ここは郊外にあるあたしの別荘さ。住宅街にある家は、バレていて危険だからね」
「ふっ、君は賢いな……。そういえば、ほかのみんなはどうした? 君たち以外の気配がしないが……」
「今みんなは外に出ているよ」
「……何かあったのか? もしや、父上が――」
「いや、今は昼だからグウェドはいないよ。問題なのは、アンジェラとメデューサ、兵狼剤を飲んだ眷属たちが、街で暴れていることだね。今みんなは、それを必死に防いでいる」
「何……!? モニカ、濃縮血液をくれ! 今すぐ加勢しなければ……!」
「い、いやでも、きみは起きたば――」
「よこすんだ! 早く!」
「……わかった」
モニカから濃縮血液を数本奪い取り、中身をすべて胃に流し込む。
傷は治ったが、体力までは回復していない。
それでも、私は行かなければならないのだ。
「お兄ちゃん、ワタシも――」
「君たちは地下にでも隠れていてくれ。では、行ってくる」
「ミネット。アデルの言うとおりにしよう。あたしたちじゃ、足手まといになる」
「で、でも……」
「大丈夫さ、すぐに戻ってくる」
私はミネットの頭を優しく撫でる。
そして、勢いよく家から飛び出した。
異形の気配を辿っていくと、住宅街まで到着する。
しかし、周りは瓦礫の山ばかりで、人の気配はない。
いや、確かに人は大勢いた。
だが、それはもうただの無機物でしかなく、原形を留めていないものが多い。
やりきれない気持ちを抱えながら、みんなを探し回っていると、嗅いだことのあるにおいを感じ取った。
さらにそれを辿ると、エルゼたちを発見する。
しかし、そこには無残な光景が広がっていた。
ライアンとシャノンが、二人揃って石化していたのである。
片腕にギプスをつけたライアンが、後ろからシャノンを抱きしめる形だ。
おそらく、彼は彼女を庇ったのだろう。
だが、なぜシャノンまで石化している?
月の加護はどうした?
それだけでなく、エルゼも青梅も赤椰もぼろぼろだった。
「……ようやくお目覚めか、アデルさんよ」
「おお、アデルよ、無事だったか……」
「アデルさん……」
「な、何があったんだ? なぜシャノンまで石化している?」
「話は別荘に帰ってからだ。アデル、悪いが二人を運んでくれねぇか? アタシらはご覧の有り様だからよ」
「わ、わかった……」
私は石像になった二人を抱え、仲間たちとモニカの別荘へと帰還した。




