第三十四話 グウェド
月明かりを背に、駅舎の上で両手を広げながら、余裕の笑みを浮かべる男。
その男を見て、私は思わず息を呑んだ。
黒を基調にした仕立てのいいスーツに、外は墨のように黒く、裏地だけ艶やかな紅をのぞかせる古風なマントに、尖った黒靴。
白いシャツの襟元は無駄に整っている。
銀髪をきっちりとオールバックに撫でつけ、耳は同族の中でも目立つほど鋭い。
口元には薄く整えたコールマン髭――まるで本に載る『吸血鬼』をそのまま歩かせたような男だ。
しかも、中年特有の落ち着いた色気まで纏っているのだから、始末に負えない。
あの男の名は「グウェド」。
私とミネットの実の父親である。
だが、なぜ父上がツクヨミシティに……?
「どうした息子よ。久方ぶりだというのに、挨拶もなしか?」
その瞬間、空気が変わった。
冷えた風でも吹き込んだのかと思ったが、違う。
あれは父上の気配だ。
一族の中では最弱だったが、混血の私にとってはどこか恐れを抱く存在。
昔から変わらない——背筋を強制的に正させるような圧。
ゆっくりと視線を上げると、目が合った。
深紅の瞳。
微動だにしない佇まい。
まるで時間さえ従えているような威厳。
私は息を整えて、膝をついた。
「……お久しぶりでございます、父上」
言葉を発した瞬間、自分でも驚くほど喉が乾いていたことに気づいた。
同時に、身体が小刻みに震える。
「随分と顔つきが変わったな。少しは成長しているようだ」
「は、はい。微力ながら……日々努力を重ねております」
「ふふっ、意味のない質問だったな。何しろ、私はずっと、お前のことをこの目で見てきたのだ。知らないほうがおかしい」
父上はじっと私を見下ろす。
その視線だけで、かつて幼かった頃の記憶が一気によみがえる。
叱責された日々も、期待を寄せられた夜も。
そして、よくカフェに連れて行ってくれたことを……。
「なんだ、ミネットもいるではないか。よかったじゃないか、アデルと会えて。それで、お前も挨拶はなしか?」
「お、お久しぶりでございます、お父様……」
ミネットの様子がどこかおかしい……。
自らの腕を抱きながら、震えているのだ。
表情も明らかに引きつっており、顔色も悪い。
声にも覇気がなく、瞳には涙が滲んでいる。
いったい何があったというのだ。
「震えているな。……まだ私が怖いか?」
「……い、いえ……その……ワタシは……」
「どうしたんだよ、ミネット? もしかして、あいつに何かされたのか?」
「エルゼ君。家族の会話に入ってこないでくれるかな。正直、目障りなんだよ」
「な、なんだと……!」
「むっ、よく見ればモニカ君もいるじゃないか。アンジェラ、君の妹さんがいるぞ。挨拶でもしたらどうだ?」
父上が後ろに目をやると、女性が姿を現す。
黒髪のショートヘアに、桜色の瞳。
薄桃色の眼鏡がよく似合う顔立ちで、片方の耳には金色のピアスがいくつも揺れている。
背丈は高すぎず低すぎず、この国の平均よりも少し上。
バランスのいい身体つきが目を引いた。
身に着けているのは、セピア色を基調としたスーツに黒のタイトスカート。
脚には薄手のタイツを纏い、足元は少し高さのあるヒール。
大きめのダークブラウンのコートを、袖に通さず肩から羽織っているせいで、洒落た雰囲気とわずかな威圧感が同時に漂う。
ひと目で「仕事ができそうなキャリアウーマン」といった印象を与える人物だった。
「モニカ。半吸血鬼の研究は上手くいってる?」
「え? ああ、順調そのものだよ。そういうアンジェラはどうなのさ? まさか狼人間になる薬を、横流しとかしてないよね?」
「……それは秘密よ」
「ズルくない? まさか図星だったりして……」
「相変わらず、生意気なことを言うわね。昔みたいに大人しかったら、可愛げも少しはあるのに……」
「だったら昔みたいに優しくしてくれよな~」
「落ちこぼれにかける情などないわ」
「うえ……マジで酷いよ……」
「両者そこまでにしておけ。姉妹で喧嘩するほど、虚しいことはないぞ?」
「訊きたいことがあります、父上! あの狼人間たちは、父上たちが関わっているのですか!?」
途端に、父上の顔が陰る。
逃げる気などはさらさらない。
しかし、本能が勝手に脈を早めた。
「……そうだ。だが、それがどうした?」
「……え?」
「改めて紹介しよう。彼女はアンジェラ。私の眷属兼秘書だ。先ほどの狼人間たちは、彼女の作った兵狼剤を飲んだ者たちである」
「兵狼剤……?」
よく見ると、アンジェラの首には赤い首輪がついている。
その首輪は父上のマントの下から伸びる、無数の赤い鎖の一部と繋がっていた。
まさかあれは、血装術なのか……?
しかし、あんな術は見たことがないぞ。
「なんだ息子よ、この鎖が気になるのか? しかし、おいそれと教えることはできぬな。だが少しだけ、この鎖の能力をお前に見せてやろう。眷属たちよ、姿を現せ」
突然、マントの下から伸びる無数の鎖が動き始める。
すると、父上の後方から大勢の人間たちが現れた。
その数は百人を軽く超え、一人ひとりの首には、アンジェラと同じく赤い首輪と鎖が繋がれている。
さらにその後ろには、巨大な体躯を持つ化け物の影が蠢いていた。
月明かりがその化け物を照らすと、その姿が明らかになる。
なんと、その化け物はメデューサだったのだ。
上半身は人間の姿だが、下半身は蛇そのもの。
体格は以前とは比べ物にならないほど巨大化しており、大型トラックとほぼ同じ体長を有している。
まさに神話の怪物ゴルゴーン三姉妹の末妹、メデューサそのものであった。
「メデューサ!?」
「どうだ、アデル、ミネット。圧巻だろう? ここにいる者たちは全員、兵狼剤の完全な適合者なのだ」
「父上、いったいあなたは何を……?」
「私の目的か? 単純なことよ、私を見下した憎き吸血鬼総会の連中に、一泡吹かせてやるのだ! まず手始めに、この街を我が手中に収める!」
「ますます意味がわかりません! 私は何も知りませんよ!」
「それは当然だ。吸血鬼としての責務を放り出し、放浪の旅に出ていた者には、私の苦労など到底わかるまい。これはミネットにも当てはまることだぞ?」
「そ、それは……」
「す、すみません、お父様……」
「しかし、私もそこまで鬼ではない。お前たちが私に勝てたのなら、罪を水に流そう」
「本当ですか……!」
「だが、負けたらこの街は私のものだ。住人は皆、私の眷属となってもらう」
「そ、それはあまりにも横暴というものです、父上!」
「さあ、見せてもらおう。お前たちが積み重ねたものを……」
次の瞬間、父上の姿は消え、気づけば私たちの輪の中心まで移動していた。
父上の気配が霧のように広がり、空気そのものが冷えてゆく。
血が凍るとはこのことだろう。
同時に、胸の奥がざわめき警鐘のように鳴った。
「どうした? 全員でかかってこい」
父上はただ立っているだけなのに、私たち全員が一歩引いてしまう。
その静けさこそが、本物である証だ。
「ちょっと痛い目にあってもらうぜ、義父上!」
エルゼが、風のように駆けた。
鋭い脚とこぶし、そして獣の勘。
それらを駆使して迫っていく。
だが父上は、軽く手を上げただけでそのすべてを受け流した。
手の甲に薄く血が滲み、父上はそれを刀身へと形を変える。
血刃が閃き、そのまま彼女を弾き飛ばした。
彼女の身体が地面を転がり、鈍い音が響く。
「くっ……!」
「エルゼ君、私は君の父親になった覚えは――ない!」
エルゼの身体に、父上の足が勢いよく落ちた。
容赦のない踏みつけ。
私が剣で斬りつけたときには、彼女はすでに気絶し、動けなくなっていた。
父上は私の剣を指先ひとつで砕く。
破片になった血の破片が霧のように散り、胸の奥まで冷たさが突き刺さる。
「アデル、よけるのじゃ!」
「これならどうです!」
間髪入れず、青梅が吹雪を放ち、赤椰がその隙間を縫うように業火を絡ませる。
二人の術が重なったときの破壊力は凄まじい。
普通の異形なら、跡形もなく消え去ってしまうだろう。
だが、父上は違う。
氷と炎の間を、舞うように縫っていく。
まるで千歩先を見通すかのような動き。
炎の爆ぜる音と吹雪が吹きすさぶ音が響くが、攻撃は一度も届かない。
そして次の瞬間には、二人の首根っこを同時に掴んでいた。
「――弱い」
その一言で、私の血が震えた。
父上は二人を軽々と持ち上げ、地面へ叩きつける。
吹雪がぴたりと止み、炎が悲鳴のような火花を散らす。
二人は抵抗する間もなく沈黙した。
「よくも二人を!」
太陽の加護を持つライアンが叫び、ガントレットを光らせて突っ込む。
あれは異形殺しの力……吸血鬼も例外ではない。
だが父上は、光が届く瞬間に身体を捻り、ライアンの腕を容易く掴んだ。
「――太陽がどうした」
嫌な音が辺りに響き、ライアンの腕が逆方向に折れた。
短く唸り声が上がり、そのままこぶしは無力な塊となる。
父上は容赦なく腹へ膝を叩き込み、ライアンは地面へ沈んだ。
「お兄様!」
シャノンが駆け、ライアンを庇うように父上へ斬りかかった。
銀色の軌跡が父上の首を狙う。
見事な踏み込みだった。
普通なら避けられない。
しかし父上は、彼女の刃が届く寸前に血を盾に変えた。
銀の剣は確かに盾を抉ったが、突破する前に、父上の掌底が彼女の胸にめり込んだ。
息が漏れる音とともに、彼女の身体が宙へ浮き、そのまま倒れ伏す。
「所詮は人間。やはり、この程度……か」
戦える仲間が全員、なす術なく倒れた。
気づけば、辺りは呻き声一つない静寂。
私は一人立ち尽くしていた。
父上はまっすぐこちらを見据え、血で形づくった槍を握っている。
――勝てるはずがない。
胸の奥で、つい呟く。
でも、やるしかない。
私は父上と同じように、血を槍へと変えた。
腕が震え、足も震えている。
父上の前では、私もただの半端者の吸血鬼でしかない。
――それでも!
「……まだ、終わってはいない! 私がこの街を守ってみせる!」
思ったよりもかすれた声が出た。
私自身の声とは思えないほど弱々しい。
だが、父上は笑わない。
ただ、槍の切っ先をこちらへ向けて一歩踏み込んでくる。
その圧が、空間ごと押し寄せた。
心臓が止まりそうになり、全身の血が悲鳴を上げる。
全身がひび割れそうなほどの緊張に包まれた。
私が諦めればこの街は終わりだ。
父上の好き勝手にはさせない。
私がこの街を守る。
そう決意し、血がうっ血するほど強く槍を握った。
父上がさらに踏み込み、地面が抉れる。
その一歩の重さだけで、呼吸が止まりそうだ。
父上の影が揺れた瞬間、世界が裏返ったように視界が回る。
「――え?」
思わず声にならない声が出た。
すでに冷たい衝撃が腹を貫いている。
私の槍は父上の手で一瞬にしてへし折られ、逆に父上の血槍が私の身体を、音もなく穿っていた。
痛みよりも先に、理解が追いつかなかった。
「お前の決意など……こんなものだ」
耳元で囁かれた。
すると、父上の足が、私の膝を砕いた。
支えを失った身体が崩れ落ちる。
「がは……っ!」
地面に膝をついた瞬間、さらに視界が回転する。
頬へ叩き込まれた衝撃で、地面が砕けた。
意識が揺らぐ。
けれど、振り向いた時にはすでに遅い。
父上の掌が私の胸へそっと触れた。
次の刹那、膝が砕けた痛みさえ霞むほどの衝撃。
「アデル、お前は弱い。だが、生まれのせいではないぞ」
父上の声は穏やかで、まるで教訓を授けるようだった。
久方ぶりのその声色が、ゆっくりと耳から脳へ浸透していく。
「――理解が、遅いのだ」
視界の端で、地面へ叩きつけられた自分の身体が見える。
何が起きたのか、本当にわからないほど一瞬だった。
呼吸ができず、指一本すら動かない。
父上は、血槍を解いて歩み寄る。
一歩ごとに空気が軋むようだった。
足元の瓦礫が微かに鳴り、父上の影が私の上をすべて覆い隠す。
立ち上がろうとするも、身体が言うことをきかない。
「この街を守る? 半端者の身でか?」
父上の指先が私の額に触れた。
触れた瞬間、視界が白く弾ける。
まるで意識ごと切り落とされたように、世界が急速に暗転する。
倒れゆく私に、父上の声が最後に届いた。
「今は眠れ。目覚めたときには、すべて終わっている」
「アデル!」
「お兄ちゃん!」
モニカとミネットの叫び声が、静まり返った広場に響き渡る。
その声が反響し、朦朧とする意識の中で灯火のように揺らめいた。
しかしそれも虚しく、徐々に光は遠ざかる。
この街を守ると誓ったはずなのに……。
暗闇は、容赦なく私を呑み込んだ。




