第二十九話 逢魔の宵祭 拾
息が詰まる……。
気づけば私は、両手で顔を覆っていた。
流れ込んだ記憶の熱が冷めず、頭の奥が痛い。
視界を戻せば、彼女が光に包まれたまま、静かにこちらを見つめている。
彼女はもう泣いてはいなかった。
「……アタシと兄貴の記憶を見たのか?」
エルゼの声は微かに震えていたが、もう悲しみだけではない。
私は何も言えず、ただ頷いた。
追憶蛍の群れは、やがて風に乗って散っていく。
夜空へと溶けていく光の尾が、まるでロウガの魂そのもののようだった。
光が消えたあと、残ったのは静けさと、池のきらめきだけ。
森が、ようやく夜を取り戻す。
追憶蛍の光が消えたあとには、湿った土と、わずかな血のにおいだけが残っていた。
静寂が広がる中、遠くで梟が鳴き、池の水面がわずかに揺れる。
私とエルゼは、互いに見つめ合ったまま、しばらく動けなかった。
さっきまでの光景が現実か幻だったのか、正直判断がつかない。
ただ、胸の奥に残るこの温もりは、確かに「エルゼとロウガのもの」だった。
「エルゼ……。今さらかもしれないが、私に協力してくれないか? 君の力が必要なんだ」
「……いいぜ、アタシは心が広いんだ。過去のことは水に流してやる。だから、もう嘘をつくのはやめてくれよ?」
「ああ、もちろんだ。一緒に復讐を果たそう、エルゼ」
「あの老害に引導を渡してやろうぜ、アデル」
そんなやり取りが、夜の森に吸い込まれていった。
彼女の長い髪が夜風に揺れ、私の血で濡れた頬が月明かりに照らされる。
その瞳には、もう怒りの色はない。
私はもう一度口を開きかけて、やめた。
言葉はもういらなかった。
彼女の表情を見ただけで、すべてが伝わったのである。
私たちはもう、立ち止まることはない。
この瞬間、ようやく心が並んだ気がした。
過去の痛みも、嘘も、怒りも、すべてがこの静けさの中に溶けていく。
私はそっと彼女に歩み寄る。
言葉の代わりに、差し出した手を月が照らした。
彼女は迷いなく、その手を握る。
冷たくも、確かな温もり。
もう互いに、ひとりではない。
復讐の道の先にあるものがどんな闇でも、彼女となら進める気がした。
「みんなのところに帰ろう、エルゼ」
「ああ、あいつらには迷惑をかけたな。許してもらえるか不安だぜ」
「心配しなくていい。温かく迎え入れてくれるに決まっている。だが、まずは謝罪をしたほうがいいだろう」
「わかってるって。ほら、さっさとここから出るぞ」
エルゼは強引に私の手を引っ張り、もと来た道を戻っていく。
次の瞬間、私たちの間に一陣の冷たい風が吹き抜ける。
それは夜が明けていく合図そのものだった。
私とエルゼは仲間たちと感動の再会を果たす。
予想どおり、皆エルゼを温かく笑顔で迎え入れてくれた。
エルゼは皆に謝罪と感謝の言葉を送る。
皆はそれを受け入れ、エルゼは無事許された。
同時に、仲間たちはエルゼに嘘をついていたことを謝罪する。
エルゼもそのことは笑顔で許してくれた。
これで一件落着……ではなく、これから大仕事が残っている。
……いよいよ今日、フウガと決着をつけるのだ。
宿に戻ったあと、仲間たちにキセラの話を打ち明ける。
それは、復讐を正当化させるには十分だった。
皆一様に、賛同してくれたのである。
さらに、私たちだけに背負わすわけにはいかない、と言って、最後まで手を貸してくれることになった。
私とエルゼは感動し、思わず涙を流す。
こんなに頼れる仲間たちに囲まれて、本当に私たちは幸せ者なんだと改めて自覚できた。
その後、私たちは英気を養うことに専念する。
ひたすら寝る者もいれば、何回も温泉やサウナに入る者、屋台で食べ歩く者、ただじっと風景を眺める者、話に花を咲かせる者など、皆さまざまであった。
そして、いよいよ約束の時間が訪れる。
日没後の空は、まるで熱を失った鉄のように暗い。
つい先ほどまで橙に染まっていた地平線も、今はもう黒の帳に呑まれている。
光が消えた世界は、音まで冷えて、呼吸の仕方すら忘れそうになる。
私たちは決戦の地へ続く道を、静かに突き進んでいた。
皆の表情は引き締まっていて、誰も口を開かない。
規則正しい足音だけが乾いた土を叩く。
仲間たちの影はもう輪郭を失い、闇に溶けている。
だが、不思議と心細さはなかった。
風が吹き抜けるたび、焦げたようなにおいが漂ってくる。
あれは、この先に広がる決戦の気配だ。
宵の口特有の冷えた空気が、肌にざらりとまとわりつき、足取りをさらに重くする。
それでも、仲間たちの靴音が背中を押した。
私たちはもう後戻りのできない場所に立っている。
「……みんな、最後に聞かせてくれ。本当に協力してくれるのか? 断ってくれてもいいんだぞ?」
「アデルの言うとおりだ。ここで降りても、アタシらは責めないぞ?」
仲間たちに最終警告を促す。
しかし、皆の表情は変わらない。
それはどこか、確固たる意志を持っているかのようだった。
「何を今さら……。安心せい、うちの心は変わらんぞ。それはおぬしが一番わかっておろう」
「僕たちは家族なんです。最後まで一緒ですよ。今度は僕が、アデルさんとエルゼお姉ちゃんを守ります」
「おいおい、ここまできて仲間外れはやめてくれよ? 戦力としては役に立たないけど、自分にできることを頑張らせてもらうからね」
「キミの悩みは俺の悩みでもある。気にせず突き進むぞ、友よ。無事に終わったら、またみんなで酒盛りをしよう。きっと、いつもより美味いはずだ」
「あなた方には恩があります。もちろん、理由はそれだけではありません。私は自分に嘘をつきたくない……ただそれだけです」
「お兄ちゃんの無茶に付き合うのも、れっきとした妹の役目なんだからね。未来永劫どこまでもついていくから覚悟してね、お兄ちゃん」
「わたくしから言えることは一つだけです。絶対に成功させましょう、若旦那様」
「ありがとう、みんな……」
私は深く息を吸い込んだ。
冷えた空気が肺を満たし、胸の奥に灯した決意が冷静さを取り戻す。
「――では、行くぞ!」
「おう!」
この復讐をなんとしてもやり遂げる。
その想いだけが私たちを先へと押し出した。
河原は世界の底に落ちたように暗かった。
空はすでに黒く沈み、川面に残るわずかな光だけが、煌めいている。
その輝きが、フウガ一族の輪郭を浮かび上がらせていた。
川風は冷たく、足元の石は昼間の熱を失い、冷えた鉄のように硬い。
踏みしめるたび、乾いた音が夜を裂く。
奴は何も言わない。
サイガとキセラと共に、川の流れを背にし、ただこちらを見ている。
その姿は思ったよりも小さく見えた。
この老人がミアを誑かし、ロウガを謀殺したのだ。
さらにはエルゼも排除しようとした。
つまり、三人の人生を壊した張本人。
ようやく見つけた……。
その姿を見ていると、頭の奥が焼けるように熱くなった。
全身を駆け巡るのは怒りでも喜びでもなく、もっと得体の知れない何か。
震える手を押さえようとしても止まらない。
ここに立つ理由は一つだけだ。
――この老害を殺したい……。
その言葉が喉の奥で沸き立っていく。
次の刹那、川面を渡る風が一度だけ強く吹き、周囲の闇が大きく揺れる。
その揺れが落ち着いたとき、私は自然と一歩前へ踏み出していた。
「ようやく会えたな」
声にした瞬間、辺りの空気が張りつめ、鋭い刃のように変わる。
とうとう決着の時が来たのだ。
「儂らをつけておったのは、やはりおぬしらであったか……」
重い沈黙の中、フウガはゆっくりと口を開く。
その表情と声色には、なんの感情も含まれてはいない。
すると、フウガの傍にいたキセラがこちらに駆け寄ってくる。
「……なんのつもりだ、キセラよ?」
「お爺様、あなたの悪行は到底許されるものではありません。ワタクシはアデル殿の味方をします。あなたはここで果てなさい、フウガ」
「ふっ、そうか……。サイガ、おぬしはどうするつもりだ?」
「サイガ様はワタクシたちの味方です。さあ、早くこちらに……」
「……いや、わたしはそちらにつくことはできない」
「い、今なんと……?」
「族長の罪は承知の上だ。しかし、ここで私刑を執行するべきではない。まずは一族内で検討し、その後に我らの掟で裁くのが道理だろう」
「そ、それは……!」
「どけ、サイガ……。てめぇにアタシらの気持ちが理解できるかよ。邪魔すんなら……殺すぞ」
「ここで族長を死なせるわけにはいかない。かかってくるなら全力で相手になろう」
「みんな、ここは私に任せてくれないか?」
私はさらに一歩前に出て、サイガと対峙する。
エルゼは驚いたような声を出す。
「おい、アデ――」
「私一人でやらせてくれ。この男には借りがある」
「ふっ、粋なことを言ってくれる。ならば、わたしも全身全霊でお相手しよう」
「……しょうがねぇ、好きにしろ。ただし、負けたら承知しねぇからな。絶対に勝てよ、アデル!」
「ああ、もちろんだ!」
「ああ……サイガ様。どうかご無事で……」
「心配するな、我が妻よ」
私は濃縮血液、一方サイガは強狼剤を摂取し、互いに構えをとる。
こうして、最後の戦いの序章が幕を開けた。




