第二十八話 逢魔の宵祭 玖
エルゼの居場所が判明した。
彼女は街の反対側に位置する「宵闇の森」にいる。
青梅の氷目と仲間たちの聞き込みにより、日が昇る前に突き止めることができた。
現在私たちは、宵闇の森にある祠の前に集結している。
そこより先は立ち入り禁止区域であり、進入禁止のロープが張り巡らされている。
しかし、異形にとってそんな障壁は無いに等しい。
ロープは切断されておらず、足跡だけが森の奥へと続いている。
「エルゼめ、余計な心配をさせおって……。アデルよ、奴を頼んだぞ」
「アデルさん。なんとしても、エルゼお姉ちゃんを連れ帰ってくださいね。騙していたことをちゃんと謝りたいので……」
「いや~、きみたちの痴話喧嘩に巻き込まれるのはこれで何度目かな? こちらとしては、今日で最後にしてほしいね。まあ、頑張りたまえよ」
「誠実に彼女と向き合えば、きっと関係を修復できるはずだ。気をつけて行ってこいよ」
「彼女の意見にしっかりと耳を傾けてあげてくださいね。あなたならできると信じています」
「お兄ちゃん。もし暴力を振るわれたら、私を呼んで。すぐにエルゼをやっつけてやるから。……冗談よ。無事に仲直りできるよう、ここで祈ってるわ」
「わたくしから言えることは特にありません。ただ、どんな結果でも、受け入れる覚悟を持っていたほうがよいと思います。……応援してますよ」
「みんなありがとう。あとは私に任せてくれ」
みんなから激励を受けたあと、私は森の奥へと向かう。
足を踏み入れた瞬間、世界が呼吸を止めたように感じた。
月明かりは枝葉に遮られ、足元さえおぼつかない。
風の音も、虫の声もない。
ただ、木々の間をすり抜ける湿った空気だけが、肌にまとわりつく。
まるで見えない誰かが、じっとこちらを見ているようだった。
足を進めるたび、枯葉を踏む音が異様に大きく響く。
聞こえているのは自分の足音だけのはずなのに、時折、遅れてもう一つの足音がついてくる気がした。
振り返っても、そこにはただ闇があるばかりだ。
奥に進むほど、空気は密度が濃く、どこか甘くなっていった。
湿気とは違う、花の腐ったようなにおいと、古い鉄のようなにおいが鼻をかすめる。
すると、奥にかすかな淡い輝きが見えた。
光を目指して進むと、ぽっかりと開けた空間に出る。
そこには、澄みきった湖のように巨大な池が広がっていた。
水面には無数の蛍が漂い、その光が揺らめきながら夜気に溶けていく。
まるで星々が地上に降りてきたようだった。
だが、その美しさの中に、どこか不気味さを内包している。
光の一つひとつが、生き物というよりは、失われた魂の名残のように思えた。
池のほとりには、エルゼが座っている。
彼女はまるで、周りの風景に溶け込むようにして、静かにそこに存在していた。
「よお、来たのか……」
「見つけたぞ、エルゼ。やはりここにいたのか……」
エルゼはゆっくりと立ち上がる。
そして、私の瞳をまっすぐに見つめ、構えた。
「アデル、アタシと決闘しろ。お前が勝ったら、なんでも命令を聞いてやるよ。アタシが勝ったら、今日限りでお前とはさよならさせてもらう」
「……ほかの選択肢はないようだな。わかった、全力で挑ませてもらう」
「へぇ……今日はずいぶん聞き分けがいいじゃねぇか。もしかして、アタシを舐めてんのか? あとで吠え面かいても知らねぇぞ?」
エルゼは胸元から強狼剤の入った小瓶を取り出し、一気に中身を飲み干した。
私も濃縮血液をすぐさま摂取する。
互いの息が白く散った。
夜の森の冷気が肌を裂くように刺さる。
池のほとりに立つ彼女の瞳は、月を映して青白く光っていた。
怒りとも、悲しみともつかぬ光がそこに燃えている。
次の瞬間、地を蹴る音。
風が裂けたと思ったときには、こぶしが腹にめり込んでいた。
「ぐっ……!?」
「その程度かよ! 吸血鬼さんよぉ!」
肺の中の空気が一気に吐き出される。
膝をつきそうになるが、倒れてはいけない。
私はただ、受け止めるしかないのだ。
どんな条件を提示されようが、私は彼女を傷つけるつもりはない。
顔を上げれば、牙をむいた彼女がもう次の一撃を放っていた。
「まだまだこんなもんじゃねぇぞ!」
こぶし、蹴り、爪。
どれもが容赦なく襲いかかり、肉と骨に響く。
避けることも、反撃することも、いくらでもできる。
だが、決してそれはしない。
彼女のこぶしの一つひとつに、私がついた嘘の重さが宿っているようで、受け止めるたびに胸が締めつけられる。
「どうしたぁ! もう諦めたのか、アデルさんよぉ!」
「私は君を傷つけたくは……ない!」
「もう傷ついてんだよ! アタシの心がなぁ!」
全身を裂かれ、血飛沫が飛ぶ。
再生も追いつかないほどの連打。
それでも、私はただただ耐えるだけだ。
「本当に抵抗しねぇつもりか!? このまま死にてぇのかよ、アデル!?」
「死ぬつもりなど……毛頭……ない。私はもう一度……君とともに朝日を見たい……だけ……だ」
「じゃあなんで……アタシを信じてくれなかった! アタシはお前を信じてたのによぉ……!」
彼女の叫び声が夜を切り裂く。
怒りと、悲しみと、裏切られた痛みが混ざった声。
私はそれを、ただ黙って聞くしかない。
「もっと頼れよ、アタシを! 今回の件は、相棒でもあるアタシに、真っ先に相談するもんだろ!」
「君には……綺麗なままでいて……ほしかったん……だ。同族殺しの罪をかぶるのは……私だけで……いいん……だよ」
「なんだそりゃ!? 自分勝手に決めやがって! アタシがいつ頼んだよ!?」
こぶしが胸を打ち抜いた。
勢いよく身体が吹き飛び、背中が木に叩きつけられる。
だが、肉体的な痛みよりも、彼女の声のほうが痛かった。
私が守りたかったのは彼女だ。
その想いが、皮肉にも今、私を縛っている。
衝撃の余波で池の水面が揺れ、映った月が砕けるように波紋を広げた。
その光の中で、私は膝をつきながら、なお立ち上がる。
殴られるたびに視界が霞み、耳鳴りが響く。
それでも倒れることはできない。
倒れたら、彼女の想いを受け止められないからだ。
突如、こぶしが止まった。
肩で息をする音だけが、森に響いている。
彼女のこぶしは、私の胸の前で震えていた。
爪の先から滴った血が、地面に落ちて、そこだけを赤く染める。
「……なんで」
その声は、もう怒鳴り声ではなかった。
かすれた囁きのように、小さく、弱々しい。
「なんで、そんな顔して耐えるんだよ……! こんなにぼろぼろなのに……!」
私は答えない。
ただ、息を吸って吐くだけだ。
正直何を言っても、言い訳にしかならない。
もう一度、傷つけたくなかった、なんて言葉を吐けば、きっと彼女はもっと傷つく。
だから、これ以上は何も言わない。
彼女は腕を下げた。
次いで、膝が折れる。
大きな身体が、私の胸に寄りかかるように崩れ落ちた。
彼女の全身が震え、嗚咽が洩れる。
「……兄貴を狂わせた諸悪の根源を……お前が追ってるって、なんとなく知ってた……」
かすれた声……。
だが、耳にはしっかり届いている。
「でも、お前は言わなかった……。アタシに黙って、一人で背負って……。そんなの、ずりぃぜ……」
彼女の涙が服を濡らした。
喉が詰まり、何かを言おうとしても、声にならない。
私はただ、彼女の頭をそっと支える。
冷たい指先が、彼女の髪に触れた。
その瞬間、彼女が顔を上げる。
血と涙でぐしゃぐしゃの顔で私を睨んだ。
「アタシだって……守りたい! 兄貴の仇をとりたい!! お前と一緒に背負いたい!!!」
叫びながら、彼女はこぶしで私の胸を何度も叩く。
しかし、もう力は込められていない。
痛みなんて感じなかった。
ただ、彼女の体温だけが確かに感じ取れる。
やがて、彼女のこぶしが滑り落ちる。
倒れ込んだ彼女の身体を抱きしめると、微かにに狼の匂いがした。
月明かりの下、池の水面に映る二つの影が、ゆらゆらと揺れる。
私は、彼女の髪に顔を埋めながら、ようやく小さく息を漏らした。
「すまない、エルゼ……」
「アデル……。お前は本当に大馬鹿野郎だぜ……」
互いに無言で抱きしめ合ったまま、永遠と思えるような特別な時間に浸っていた。
夜風が森を撫で、枝葉が小さく揺れる。
すると、水面の無数の光の粒が大きくなり始め、ゆらゆらと大量に立ち上った。
いったい何が起こっているんだ……?
どの光も脈打つように強くなり、まるで生きている魂そのもののようだった。
「これはもしや、『追憶蛍』なのか……?」
私は自然とその名を口にしていた。
汚れが一切ない清浄な森に棲む、黄金に輝く幻想種の蛍。
血を媒介にして「記憶の破片」を吸い取り、それを誰かに譲渡し、追憶させる。
これは島民から聞いた伝承だ。
ただの噂話だと思っていた存在が、目の前にいる。
「これが噂の……?」
不意にエルゼが顔を上げた。
涙に濡れた頬を、金色の光が照らす。
光の群れが、エルゼの周りを円を描くように舞い始めた。
その眩しさに思わず目を奪われる。
すると、光の群れが一斉に褐色の肌に止まった。
「……っ!?」
彼女が一瞬だけ顔をしかめる。
刺されたのか、わずかに肩を掻いた。
彼女の身体を包む光が、やがて溢れ、森全体を照らす。
次の瞬間、その光のいくつかが、私の胸へと流れ込んできた。
焼けるような感覚。
血管を駆け上がる熱。
そして――何かが見えた。
雨の中、傷だらけの青年が、これまた傷だらけの幼い少女を背負って走っている。
どうやらその人物たちは、昔のロウガとエルゼのようだ。
どこか面影がある。
「エルゼ、僕が絶対に救ってやるからな。ほら、村まであと少しだ。それまで頑張れ」
「う、うん……。お兄ちゃんは大丈夫?」
「これくらいどうってことないさ。帰って寝れば、明日には元気いっぱいだよ」
声とともに、胸の奥が締めつけられた。
すぐに場面が変わる。
満月の夜。
獣人姿のエルゼが泣いている。
同じく獣人姿のロウガが毛布をかけてやり、頭を優しく撫でた。
「狼女になっても、エルゼはエルゼだ」
温かい掌の感触まで、伝わってきた。
エルゼの涙は徐々に減っていき、だんだんと笑顔をのぞかせる。
また光が揺れ、焚き火の夜へ。
狩りで手に入れた肉を炙りながら、笑う二人。
「美味しいかい?」
「うん、美味しいよ」
「一人で狩りができるようになるまで、僕が傍にいるから安心しろよ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
無邪気に火を見つめるエルゼの顔を、ロウガが
温かい目で見守っていた。
その穏やかな光景が少しずつ遠ざかる。
また光が弾けた。
今度は血のにおいが充満している。
私がロウガを殺めたあの夜だ……。
あのとき、最後まで彼の口調は変わらなかった。
しかし、とどめを刺そうとした、ほんの一瞬、元のロウガに戻っていたのだ。
『エルゼ……。お前だけは……幸せになって……くれ』
声こそ発していないが、唇の動きでわかる。
その声にならない言葉が、胸に焼きついたまま、闇に沈んだ。




