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吸血鬼と狼女  作者: 松川スズム
第三章
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第二十八話 逢魔の宵祭 玖

 エルゼの居場所が判明した。

 彼女は街の反対側に位置する「宵闇の森」にいる。

 青梅の氷目と仲間たちの聞き込みにより、日が昇る前に突き止めることができた。


 現在私たちは、宵闇の森にある祠の前に集結している。

 そこより先は立ち入り禁止区域であり、進入禁止のロープが張り巡らされている。

 しかし、異形にとってそんな障壁は無いに等しい。

 ロープは切断されておらず、足跡だけが森の奥へと続いている。


「エルゼめ、余計な心配をさせおって……。アデルよ、奴を頼んだぞ」

「アデルさん。なんとしても、エルゼお姉ちゃんを連れ帰ってくださいね。騙していたことをちゃんと謝りたいので……」

「いや~、きみたちの痴話喧嘩に巻き込まれるのはこれで何度目かな? こちらとしては、今日で最後にしてほしいね。まあ、頑張りたまえよ」

「誠実に彼女と向き合えば、きっと関係を修復できるはずだ。気をつけて行ってこいよ」

「彼女の意見にしっかりと耳を傾けてあげてくださいね。あなたならできると信じています」

「お兄ちゃん。もし暴力を振るわれたら、私を呼んで。すぐにエルゼをやっつけてやるから。……冗談よ。無事に仲直りできるよう、ここで祈ってるわ」

「わたくしから言えることは特にありません。ただ、どんな結果でも、受け入れる覚悟を持っていたほうがよいと思います。……応援してますよ」

「みんなありがとう。あとは私に任せてくれ」


 みんなから激励を受けたあと、私は森の奥へと向かう。

 足を踏み入れた瞬間、世界が呼吸を止めたように感じた。

 月明かりは枝葉に遮られ、足元さえおぼつかない。

 風の音も、虫の声もない。

 ただ、木々の間をすり抜ける湿った空気だけが、肌にまとわりつく。

 まるで見えない誰かが、じっとこちらを見ているようだった。


 足を進めるたび、枯葉を踏む音が異様に大きく響く。

 聞こえているのは自分の足音だけのはずなのに、時折、遅れてもう一つの足音がついてくる気がした。

 振り返っても、そこにはただ闇があるばかりだ。


 奥に進むほど、空気は密度が濃く、どこか甘くなっていった。

 湿気とは違う、花の腐ったようなにおいと、古い鉄のようなにおいが鼻をかすめる。

 すると、奥にかすかな淡い輝きが見えた。

 光を目指して進むと、ぽっかりと開けた空間に出る。

 そこには、澄みきった湖のように巨大な池が広がっていた。

 

 水面には無数の蛍が漂い、その光が揺らめきながら夜気に溶けていく。

 まるで星々が地上に降りてきたようだった。

 だが、その美しさの中に、どこか不気味さを内包している。

 光の一つひとつが、生き物というよりは、失われた魂の名残のように思えた。

 

 池のほとりには、エルゼが座っている。

 彼女はまるで、周りの風景に溶け込むようにして、静かにそこに存在していた。


「よお、来たのか……」

「見つけたぞ、エルゼ。やはりここにいたのか……」


 エルゼはゆっくりと立ち上がる。

 そして、私の瞳をまっすぐに見つめ、構えた。


「アデル、アタシと決闘しろ。お前が勝ったら、なんでも命令を聞いてやるよ。アタシが勝ったら、今日限りでお前とはさよならさせてもらう」

「……ほかの選択肢はないようだな。わかった、全力で挑ませてもらう」

「へぇ……今日はずいぶん聞き分けがいいじゃねぇか。もしかして、アタシを舐めてんのか? あとで吠え面かいても知らねぇぞ?」


 エルゼは胸元から強狼剤の入った小瓶を取り出し、一気に中身を飲み干した。

 私も濃縮血液をすぐさま摂取する。


 互いの息が白く散った。

 夜の森の冷気が肌を裂くように刺さる。

 池のほとりに立つ彼女の瞳は、月を映して青白く光っていた。

 怒りとも、悲しみともつかぬ光がそこに燃えている。

 次の瞬間、地を蹴る音。

 風が裂けたと思ったときには、こぶしが腹にめり込んでいた。


「ぐっ……!?」

「その程度かよ! 吸血鬼さんよぉ!」


 肺の中の空気が一気に吐き出される。

 膝をつきそうになるが、倒れてはいけない。

 私はただ、受け止めるしかないのだ。

 どんな条件を提示されようが、私は彼女を傷つけるつもりはない。

 顔を上げれば、牙をむいた彼女がもう次の一撃を放っていた。


「まだまだこんなもんじゃねぇぞ!」


 こぶし、蹴り、爪。

 どれもが容赦なく襲いかかり、肉と骨に響く。

 避けることも、反撃することも、いくらでもできる。

 だが、決してそれはしない。

 彼女のこぶしの一つひとつに、私がついた嘘の重さが宿っているようで、受け止めるたびに胸が締めつけられる。

 

「どうしたぁ! もう諦めたのか、アデルさんよぉ!」

「私は君を傷つけたくは……ない!」

「もう傷ついてんだよ! アタシの心がなぁ!」


 全身を裂かれ、血飛沫が飛ぶ。

 再生も追いつかないほどの連打。

 それでも、私はただただ耐えるだけだ。


「本当に抵抗しねぇつもりか!? このまま死にてぇのかよ、アデル!?」

「死ぬつもりなど……毛頭……ない。私はもう一度……君とともに朝日を見たい……だけ……だ」

「じゃあなんで……アタシを信じてくれなかった! アタシはお前を信じてたのによぉ……!」


 彼女の叫び声が夜を切り裂く。

 怒りと、悲しみと、裏切られた痛みが混ざった声。

 私はそれを、ただ黙って聞くしかない。


「もっと頼れよ、アタシを! 今回の件は、相棒でもあるアタシに、真っ先に相談するもんだろ!」

「君には……綺麗なままでいて……ほしかったん……だ。同族殺しの罪をかぶるのは……私だけで……いいん……だよ」

「なんだそりゃ!? 自分勝手に決めやがって! アタシがいつ頼んだよ!?」


 こぶしが胸を打ち抜いた。

 勢いよく身体が吹き飛び、背中が木に叩きつけられる。

 だが、肉体的な痛みよりも、彼女の声のほうが痛かった。


 私が守りたかったのは彼女だ。

 その想いが、皮肉にも今、私を縛っている。

 衝撃の余波で池の水面が揺れ、映った月が砕けるように波紋を広げた。

 その光の中で、私は膝をつきながら、なお立ち上がる。

 

 殴られるたびに視界が霞み、耳鳴りが響く。

 それでも倒れることはできない。

 倒れたら、彼女の想いを受け止められないからだ。

 

 突如、こぶしが止まった。

 肩で息をする音だけが、森に響いている。

 彼女のこぶしは、私の胸の前で震えていた。

 爪の先から滴った血が、地面に落ちて、そこだけを赤く染める。


「……なんで」

 

 その声は、もう怒鳴り声ではなかった。

 かすれた囁きのように、小さく、弱々しい。


「なんで、そんな顔して耐えるんだよ……! こんなにぼろぼろなのに……!」


 私は答えない。

 ただ、息を吸って吐くだけだ。

 正直何を言っても、言い訳にしかならない。

 もう一度、傷つけたくなかった、なんて言葉を吐けば、きっと彼女はもっと傷つく。

 だから、これ以上は何も言わない。


 彼女は腕を下げた。

 次いで、膝が折れる。

 大きな身体が、私の胸に寄りかかるように崩れ落ちた。

 彼女の全身が震え、嗚咽が洩れる。


「……兄貴を狂わせた諸悪の根源を……お前が追ってるって、なんとなく知ってた……」

 

 かすれた声……。

 だが、耳にはしっかり届いている。

 

「でも、お前は言わなかった……。アタシに黙って、一人で背負って……。そんなの、ずりぃぜ……」


 彼女の涙が服を濡らした。

 喉が詰まり、何かを言おうとしても、声にならない。

 私はただ、彼女の頭をそっと支える。

 冷たい指先が、彼女の髪に触れた。

 その瞬間、彼女が顔を上げる。

 血と涙でぐしゃぐしゃの顔で私を睨んだ。


「アタシだって……守りたい! 兄貴の仇をとりたい!! お前と一緒に背負いたい!!!」

 

 叫びながら、彼女はこぶしで私の胸を何度も叩く。

 しかし、もう力は込められていない。

 痛みなんて感じなかった。

 ただ、彼女の体温だけが確かに感じ取れる。


 やがて、彼女のこぶしが滑り落ちる。

 倒れ込んだ彼女の身体を抱きしめると、微かにに狼の匂いがした。

 月明かりの下、池の水面に映る二つの影が、ゆらゆらと揺れる。

 私は、彼女の髪に顔を埋めながら、ようやく小さく息を漏らした。


「すまない、エルゼ……」

「アデル……。お前は本当に大馬鹿野郎だぜ……」

  

 互いに無言で抱きしめ合ったまま、永遠と思えるような特別な時間に浸っていた。

 夜風が森を撫で、枝葉が小さく揺れる。

 すると、水面の無数の光の粒が大きくなり始め、ゆらゆらと大量に立ち上った。

 

 いったい何が起こっているんだ……?

 どの光も脈打つように強くなり、まるで生きている魂そのもののようだった。

 

「これはもしや、『追憶蛍(ついおくぼたる)』なのか……?」


 私は自然とその名を口にしていた。 

 汚れが一切ない清浄な森に棲む、黄金に輝く幻想種の蛍。

 血を媒介にして「記憶の破片」を吸い取り、それを誰かに譲渡し、追憶させる。

 これは島民から聞いた伝承だ。

 ただの噂話だと思っていた存在が、目の前にいる。


「これが噂の……?」


 不意にエルゼが顔を上げた。

 涙に濡れた頬を、金色の光が照らす。

 光の群れが、エルゼの周りを円を描くように舞い始めた。

 その眩しさに思わず目を奪われる。

 すると、光の群れが一斉に褐色の肌に止まった。

 

「……っ!?」

 

 彼女が一瞬だけ顔をしかめる。

 刺されたのか、わずかに肩を掻いた。

 彼女の身体を包む光が、やがて溢れ、森全体を照らす。


 次の瞬間、その光のいくつかが、私の胸へと流れ込んできた。

 焼けるような感覚。

 血管を駆け上がる熱。

 

 そして――何かが見えた。


 雨の中、傷だらけの青年が、これまた傷だらけの幼い少女を背負って走っている。

 どうやらその人物たちは、昔のロウガとエルゼのようだ。

 どこか面影がある。

 

「エルゼ、僕が絶対に救ってやるからな。ほら、村まであと少しだ。それまで頑張れ」

「う、うん……。お兄ちゃんは大丈夫?」

「これくらいどうってことないさ。帰って寝れば、明日には元気いっぱいだよ」

 

 声とともに、胸の奥が締めつけられた。

 すぐに場面が変わる。

 

 満月の夜。

 獣人姿のエルゼが泣いている。

 同じく獣人姿のロウガが毛布をかけてやり、頭を優しく撫でた。

 

「狼女になっても、エルゼはエルゼだ」

 

 温かい掌の感触まで、伝わってきた。

 エルゼの涙は徐々に減っていき、だんだんと笑顔をのぞかせる。

 

 また光が揺れ、焚き火の夜へ。

 狩りで手に入れた肉を炙りながら、笑う二人。 


「美味しいかい?」

「うん、美味しいよ」 

「一人で狩りができるようになるまで、僕が傍にいるから安心しろよ」

「ありがとう、お兄ちゃん」


 無邪気に火を見つめるエルゼの顔を、ロウガが

温かい目で見守っていた。

 その穏やかな光景が少しずつ遠ざかる。


 また光が弾けた。

 今度は血のにおいが充満している。

 私がロウガを殺めたあの夜だ……。

 あのとき、最後まで彼の口調は変わらなかった。

 しかし、とどめを刺そうとした、ほんの一瞬、元のロウガに戻っていたのだ。

 

『エルゼ……。お前だけは……幸せになって……くれ』

 

 声こそ発していないが、唇の動きでわかる。

 その声にならない言葉が、胸に焼きついたまま、闇に沈んだ。

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