第二十七話 逢魔の宵祭 捌
その日の夕方。
宿の中を散策していると、卓球台が置かれた広間に辿り着いた。
ベンチには、浴衣姿のミネットが静かに腰を下ろしている。
もちろん、浴衣姿のメデューサも一緒だ。
「あ、お兄ちゃん……」
「どうしたんだ、ミネット? 女性陣はみんなで温泉に入るんじゃなかったのか?」
「……今日はね、お風呂に入れない日なの」
「――っ!?」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中に電流が走る。
下手にこの話題に踏み込んではいけない。
それを自分に言い聞かせた。
私は平静を保ちながら、言葉を慎重に選んで会話を続ける。
「……体調は大丈夫なのか?」
「少し前までは悪かったけど、お兄ちゃんの顔を見たら良くなったよ」
「それならよかった。何か欲しい物はないか? そうだ、温かい飲み物でも買ってこよう」
「待ってお兄ちゃん。ワタシ今、お兄ちゃんと一緒にいたい気分なの。だからここにいて?」
「お嬢様、わたくしは席を外しましょうか?」
「メデューサもここにいて。あなたには審判をしてほしいの」
「ミネット、お前まさか……」
「お兄ちゃん、昔みたいに卓球で勝負しようよ」
「私はいいが、本当に体調は大丈夫なのか?」
「大丈夫、だからしよう?」
「メデューサ、君からも何か言ってくれないか?」
「お嬢様の命令は絶対なので……」
メデューサは顔色ひとつ変えず、冷静に審判の位置に移動する。
一方、ミネットは笑顔いっぱいで私に卓球ラケットを渡してきた。
「ちなみにだけど、ワタシが勝ったらお兄ちゃんにチューするね。もしお兄ちゃんが勝ったら、お兄ちゃんがワタシにチューだから」
「それはレディーとして、少し品がないんじゃないか……? メデューサ、君からも注意してやってくれ」
「お嬢様の命令は絶対です。でも、よかったじゃないですか。お嬢様とキスできるなんて羨ましいかぎりです」
「妬かないでメデューサ。終わったら、あなたにもチューしてあげるから」
「若旦那様! 早く始めましょう! そして、迅速に終わらせてください!」
「どうやら、君たちには話が通じないようだな……。だが、乗りかかった船だ、全力で挑ませてもらう」
「さすがお兄ちゃん。サーブ権はワタシがもらうね」
「両者準備はよろしいでしょうか? では、試合開始です!」
「いくよ、お兄ちゃん!」
「かかってこい、我が妹よ!」
軽い音を立てて、白い球が行き交う。
最初は穏やかなラリーだった。
旅館の卓球台は少し歪んでいて、球が時折変な跳ね方をする。
それが有利に働き、ファーストポイントは私のものとなった。
「一点目は若旦那様です!」
メデューサの声が響く。
ミネットは頬を膨らませてラケットを構え直した。
「もぉ、お兄ちゃん……。最初の一点はワタシにくれてもよかったんじゃない?」
「ふっ、勝負事にそんな情は不要だよ」
「そういうこと言うんだ? 絶対にチューしてやるからね……!」
ミネットの目つきがガラリと変わる。
その顔を見て、私も自然と姿勢を正す。
遊びのはずが、いつの間にか本気になってしまっていたのである。
点を重ねるたびにラリーは長くなった。
お互い無言のまま、打球音だけが響く。
乾いた音が空気に混ざる。
ミネットの目つきが鋭くなり、私の汗が額を伝う。
ドライブをかけた球を打ち返すたび、木の床を踏む足音が鳴った。
「十対十、デュースです!」
メデューサの声が合図のように響く。
ミネットは軽く息を整え、視線を上げた。
その目には闘志と、どこか楽しげな光が同居している。
……これは兄としての威厳を保つために、負けるわけにはいかないな。
ラリーは続く。
球が速すぎて、もはや白い光の軌跡にしか見えない。
一瞬の油断が命取りになる。
ミネットのスピンが強烈にかかり、私のラケットをかすめるように抜けていった。
「マッチポイント、お嬢様!」
激しく心臓が鼓動する。
私は深呼吸し、ゆっくりと構えた。
ミネットのサーブ。
低く速い。
ギリギリで返す。
互いに打ち合い、どちらも譲らない。
時間の感覚が消える。
打つ、返す、踏み込む――ただそれだけだ。
「マッチポイント、若旦那様!」
最後の一球。
ミネットのスマッシュを、身体を捻りながらなんとか返す。
ラケットの縁をかすめた球が、ネットの上をわずかに越え、相手コートにぽとりと落ちて沈黙した。
「ゲームセット――若旦那様の勝利です!」
最後は呆気ない幕切れを迎えた。
だが、この勝負、私の勝ちだ……!
「あーあ、負けちゃった……。でも、少しはお兄ちゃんの役に立てたかな?」
ミネットはラケットを下ろし、微かに笑った。
もしや彼女は、溜まった私のストレスを発散させようとしてくれていたのか?
私もラケットを置き、じっとりと汗で濡れた手のひらを見つめる。
思った以上にのめり込み、熱くなっていた。
達成感と勝利の余韻が心地よい。
「久しぶりに血が滾ったよ。ありがとう、ミネット。お前のおかげで、少し気が晴れたよ」
「えへへ、ならよかった~。お兄ちゃん今にも死にそうな顔してたんだよ? そんなんじゃ、エルゼにもバレちゃうわ」
「お二方とも、素晴らしい試合でしたよ」
「審判をしてくれてありがとう、メデューサ。じゃあ、お兄ちゃんには私にチューをする権利を与えます。場所はどこでもOKよ。おすすめは唇の辺りね。してくれなかったら、お兄ちゃんのこと嫌いになるから」
「……ほ、本気なのか?」
私は思考を巡らし、必死に正解を探る。
その結果、疲れた脳みそはとある答えを導き出した。
「……ミネット、恥ずかしいからこのアイマスクをつけてくれないか?」
「え、それって……!? もうお兄ちゃん、ワタシのこと好きすぎ。……つけたわ、これでいいの?」
「ああ、ありがとう。では、いくぞ?」
「う、うん……」
ミネットは顎を上げ、とても他人には見せられないキス待ち顔をさらしている。
私はメデューサを手招きして、彼女に小声で囁いた。
「……君がやるんだ」
「――っ!?」
メデューサは顔を赤くしながら、頭を激しく上下に振った。
私はミネットの顎にそっと手をやり、形だけ偽装する。
「ではいくぞ、ミネット」
「は、はい……」
声を発した瞬間、メデューサがミネットの頬に口づけを落とす。
しかも、その場所は唇にかなり近い。
その光景は厳かで、どこか神秘的だった。
最後に頭を優しく撫でたあと、アイマスクを丁寧に外す。
「……これで満足か?」
「ひ、ひゃい……! あ、ありがとうございましゅ……! お、お兄ちゃんの唇って意外と柔らかいんだね……?」
「嫌だったか?」
「ううん、そんなことない! むしろ、好き……。ワ、ワタシ、喉渇いちゃった! ちょっと飲み物買ってくるね!」
「ああ、気をつけてな」
ミネットは顔を赤らめながら、全速力で走り去っていく。
その必死な姿を見て、思わず可愛らしいと思ってしまった。
「あ、あの、わたくしがキスをしてもよかったのでしょうか? お嬢様にバレたら大変なことになりそうですが……」
メデューサはか細く、申し訳なさそうな声色で口を開いた。
しかし、その顔は明らかに恍惚としており、あろうことかよだれまで垂らしている。
一瞬だけ、彼女がミネットの従者で本当にいいのかと悩んだが、とりあえず呑み込んだ。
「君がバラさなければ大丈夫だろう。これは私たちだけの秘密だぞ?」
「じゅるっ……。わ、わかりました。安心してください、わたくしは口が堅いほうなので……。あの……若旦那様、少しいいですか?」
メデューサの顔と口調が元に戻り、真剣な雰囲気に変わる。
その温度差に風邪を引きそうになるが、彼女の声に耳を傾けた。
「本当に日中の付き添いをしなくてもよいのでしょうか? わたくしも若旦那様の力になりたいのですが……」
「すまない、決して君が劣っているとかではないんだよ。むしろ逆だ。君は異形としての格が高すぎる。事実、あの香水では君のにおいを消しきれなかっただろう?」
「そ、それはそうですが……」
「あれは人間に近い異形ほど効果を発揮する。狼人間はともかく、純血の吸血鬼や君のような真の異形には効果がないんだよ」
「し、しかし……」
「理由はもう一つあるんだ。君にはミネットの傍を片時も離れてほしくないんだよ。彼女の精神はまだ幼いから心配なんだ」
「……若旦那様、差し出がましいですが、無礼を承知で申し上げます。お嬢様はすでに立派なレディーですよ。ご心配される気持ちは理解できますが、お嬢様への過度な干渉は必要ないと思います」
メデューサの表情は至極真剣だ。
明らかに嘘は言っていない。
どうやら私は勘違いをしていたようだな。
「ふっ、そうか……。君が言うのであれば、きっとそうなのだろう。では、また用があれば君とレディーを頼ることにしよう。期待しているよ、メデューサ」
「任せてください、若旦那様」
「おまたせ、お兄ちゃん、メデューサ。じゃあ、みんなが戻るまで、また卓球をしましょう。もちろん、今度は勝っても負けてもワタシがお兄ちゃんにチューできる権利を得ます」
「前言撤回だ。頼むから、勘弁してくれ……」
「ふふっ、仲睦まじくて何よりです」
気持ちのいい疲労感に包まれながら、自室へと戻る。
そこに赤椰とライアンの姿はない。
部屋を見回すと、机の上に書き置きがあることに気づいた。
『港で待っています』
その一文のみが書いてあった。
途端に心臓が跳ねる。
すぐに浴衣から外着へと着替え、急いで旅館から飛び出した。
外はもう真っ暗で、街灯が灯っている。
賑やかな商店街の入り口を通過し、まっすぐに港へと向かう。
無事港に到着するが、辺りに人気はない。
ただ穏やかに波が打ちつけ、わずかな飛沫を上げる音しか聞こえなかった。
「ご足労いただき感謝いたします。しかし、ここでは目立つので、もっと奥のほうへ行きましょう」
「――なっ!?」
女性の声が聞こえた瞬間、急に手を掴まれた。
そのまま私は港の奥へと連れ去られてしまう。
「……ここならいいでしょう」
「き、君はいったい……?」
女性は手を放し、こちらを振り返る。
銀髪で褐色の可憐な女性は、自分の胸に手を当てながら口を開いた。
「ワタクシはキセラといいます。やっと会えましたね、アデル殿」
「……君がキセラか。会えて光栄だよ」
「それはこちらも同じ気持ちですよ。申し訳ありませんが、ワタクシには時間がありません。あまり遅くなると、サイガ様に見つかる恐れがあるので……」
「あの御仁はこちら側ではないのですか?」
「実はまだ詳しくは話していません。ですが、サイガ様は正義の心を持つ聖人です。きっと今回の件も理解していただけるでしょう」
「そうですか……」
「早速ですが、要件を伝えますね。明日の宵の口、ワタクシが我が祖父フウガを河原へと誘い出します。――そこで奴を葬っていただけませんか?」
「元からそのつもりです。もしよろしければ、あなたの胸の内を、もう少しお話しいただけないでしょうか?」
キセラは一瞬だけ視線を下げる。
しかしながら、すぐに覚悟を決めた目でこちらを見上げた。
「我が姉ミアは、生まれながらにして病弱でした。姉はかねてより一族の役に立ちたいと意気込んでいましたが、それは叶わず長年病床に伏していたのです。姉は悔しさのあまり、毎晩泣いていました。それを知ったうえで、フウガはとある計画のために姉の弱みに付け込み、懐柔したのです。最終的に、姉は身も心も実の祖父に捧げてしまいました」
「なっ……!?」
「その要因は、ロウガが頭角を現してきたことにあります。元々フウガとロウガは、水と油のような関係でした。加えて、フウガは婿入りした、お気に入りのサイガ様を族長にしたいと考えていたのです。そして、フウガは計画を実行に移しました」
「まさか……!」
「お察しのとおりです。ロウガを排除するためにフウガと姉は共謀し、あの事件を引き起こしたのですよ。ついでに忌み子であるエルゼも、同時に排除しようと企てたのです」
「フウガめ……! あの老害だけは絶対に許さんぞ……!」
「お、おい、今の話は本当なのかよ……?」
「――ッ!?」
振り返ると、そこにはエルゼがいた。
なんという最悪なタイミングだ。
これではせっかくの計画も台無しじゃないか……。
「アデル、今までお前はアタシを騙してたのか? まったく、冗談きついぜ。アタシは全然信用されてなかったんだな……」
「ち、違うんだ、エルゼ……」
「何が違うんだよ! この裏切り者! もうアタシに関わらないでくれ! この嘘つき野郎が!」
エルゼは一方的にそう言い放ち、走り去ってしまう。
あの表情、明らかに怒りを露にしていた。
すぐに彼女を追おうとするが、突然身体に衝撃が走り、吹き飛ばされる。
「ぐっ……!?」
「我が妻よ、今の話は本当か? だとしたら、なぜわたしよりもこの男を優先したのだ」
目の前には、同じく怒りの表情を隠しきれていないサイガが仁王立ちしている。
なんてタイミングが悪い……。
「アデル殿、サイガ様はワタクシが引き受けます! あなたはエルゼを追ってください!」
「離すんだ、キセラ!」
「サイガ様、話を聴いてください! そうすれば、納得していただけるはずです!」
「すまない、キセラ……!」
私は駆け出し、エルゼのあとを追う。
しかし、街の中をくまなく探し回ったが、彼女の姿を見つけることはできなかった。




