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吸血鬼と狼女  作者: 松川スズム
第二章
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第十七話 和解の兆し

 深夜の公園は、まるで世界から切り離されたように静かだった。

 風の音も、虫の声さえも、今だけは遠慮しているかのようだ。

 月明かりの下、向かい合う二人の人物がいた。

 それはエルゼとミネット。

 どちらも言葉を発さない。

 

 だが、その沈黙の奥に、剥き出しの感情が火花を散らしているのが、肌でわかる。

 この空気から察するに、ただの喧嘩では終わらないだろう。

 私とメデューサはただ、見守ることしかできなかった。

 

「おい、ミネット。逃げるなら今のうちだぞ?」

「あなたのほうこそ大丈夫? 狼女ごときが、純血の吸血鬼に勝てると思っているの?」


 互いに視線を外さず、動かない。

 だが、いつでも飛びかかれるように構えているのがわかる。

 次第に風が強くなった。

 木々がざわめき、枝が揺れ、影が大きく形を変える。

 次の瞬間、二人同時に何かを取り出した。


 エルゼは強狼剤の入った小瓶。

 一方、ミネットは赤い液体の入った小瓶。

 私はあれはよく知っている。

 濃縮された人間の血液だ。


「覚悟はできたか!」

「それはこっちのセリフよ!」


 ドーピングが完了した二人は、一瞬で距離を詰め、こぶしをぶつけ合った。

 その衝撃で、湿った空気が弾け飛び、耳に鈍い音が残った。

 どちらも一歩も引かない。

 骨がぶつかり合う音が、生々しく夜の静寂を切り裂く。

 肉が張り裂けそうなほどの張り詰めた応酬。

 獣のような眼光で、睨み合い、殴り合う。

 どちらも躊躇や遠慮も一切ない。

 足音が土を蹴るたびに、野生動物が縄張り争いをするかのような攻防が、苛烈になっていく。

 相も変わらず私とメデューサは、ただ立ち尽くすことしかできない。


「気に入らなかった! 本来なら、お兄ちゃんの傍にいるのは、ワタシだけだったのに! 返してよ! ワタシの居場所を!」

「ガキが、ブラコンを拗らせやがって! てめぇはアデルに依存しすぎだ! もっと視野を広げやがれ!」

「あなただって同じでしょ! お兄ちゃんがいないと、何もできないくせに!」


 どうして、こんなことになってしまったのだろうか……。

 私が守りたかったのはこんな光景じゃない。

 これは私の重ねてきた罪への罰なのではないか。 

 やはり、全部私が悪いのか……。

 波のような罪悪感に苛まれる。 


 ミネットの膝がエルゼの脇腹を抉ると、エルゼは唸り声を上げながら、爪を立て反撃に転じた。

 土が跳ね、木の葉が散り、爪が腕を裂き、互いのこぶしが鳩尾に沈む。

 まるで獣の喧嘩だった。

 

 人間の技でもなく、戦いの型もない。

 殴られたら殴り返す。

 倒れそうになれば、相手の足を取ってでも引きずり込む。

 それが、今の二人のすべてだった。


「あなたのような下品な女は、お兄ちゃんにふさわしくない! 潔く諦めなさいよ!」

「そりゃ、アタシは上品じゃねーさ! けどな、アタシはあいつの痛みも過去も全部わかってる!」

「何よ、そのマウント……! やっぱり、あなたはただの畜生じゃない!」


 エルゼは私の過去を受け入れてくれた。

 それはミネットも同じなのかもしれない。

 ただ、私は彼女の友人を殺めてしまった。

 これは紛れもない事実だ。


 しかし、それでも私を好きだと言ってくれた。 

 ミネットの愛が偽物だとは思わない。

 だが、彼女は私が与えた傷を、いまだに引きずっているはずだ。

 そのことが、さらに罪悪感を加速させる。


 エルゼは地を蹴って、側にある木の幹を駆け上がった。

 枝を掴み、重力を殺して身を預ける。

 そのまま落下の勢いで、こぶしを真下のミネットへ叩きつける。

 ミネットは間一髪後ろに下がり、滑るようにかわす。

 エルゼのこぶしが空を裂き、土が抉れた。

 

 今度はミネットが木の幹を蹴って跳ね上がり、エルゼの背中を狙ってかかと落としを繰り出す。

 エルゼは身体を捻って受け流すが、もたついた一瞬、ミネットのこぶしが腹に打ち込まれた。


「ぐっ……!?」

「お兄ちゃんを笑顔にできるのは、ワタシしかいない! だから、あなたはここで終わりなさいよ!」

「それは譲れねぇな……。てめぇがどんだけアデルのことが好きでも、アタシも負けねぇぜ? あいつは恩人だからな」

「なら殴り勝ってでも、それを証明してみなさいよ!」

 

 互いのこぶしがぶつかり合った瞬間、両者の身体がわずかに揺らいだ。

 ミネットの肩が上下に波打ち、エルゼの口元から血が一筋、顎をつたって滴った。

 二人とも、もうまともに立っていられない。

 呼吸すら、痙攣しているように感じる。


 エルゼは足を引きずりながらも、わずかな死角から飛びかかる機をうかがっていた。

 地面に崩れそうになったミネットはなんとか、体勢を立て直す。

 土にまみれた靴が、砂を蹴る二つの音。

 その一瞬で、二人の間合いがまた詰まる。


「これで最後だ、ミネット!」

「それはあなたのほうよ、エルゼ!」


 叫び声とともに放たれたのは、全身の重みを乗せた最後のこぶし。

 互いの顔面を狙った、真っ直ぐな一撃。

 こぶしと頬骨がぶつかり合い、鈍い音が響き渡る。

 次の瞬間、二人は同時に崩れ落ちた。


 しかし、エルゼはかろうじて踏ん張り、なんとか耐えきったのだ。

 地面には、ミネットの身体だけが転がった。

 落ち葉と砂が舞い上がり、無言の静けさが辺りを包み込む。

 静寂が戻った深夜の公園には、淡い月明かりが降り注ぎ、彼女たちの影を地面に落としていた。


「大丈夫か、エルゼ、ミネット!」

「お嬢様!」


 私とメデューサはすぐに二人に駆け寄った。

 私はふらつくエルゼをしっかりと支え、メデューサは倒れているミネットを優しく抱き起こす。


 ミネットからは荒い呼吸が漏れている。

 目を閉じているが、意識はあるようで、瞼の下には涙が滲んでいた。


「……ワタシの負けよ」


 ミネットはゆっくりと目を開け、薄く笑う。

 それは悔しさとも、諦めともつかない表情だった。

 一方、エルゼはどこかばつの悪そうな顔をしている。


「……勝ったけどさ。全然嬉しくねぇや、こんなの。……かなり無茶させちまったな、怪我は大丈夫か?」 

「これくらい平気よ。……強いうえに優しいのね、あなた。お兄ちゃんが……好きになるわけだわ……」

「……お前も、そうだろ? アデルのこと、本気で想ってる」

「ええ。……ずっと、そうだった」


 ミネットの瞳からは、ぽろりと涙がこぼれる。

 そして、彼女は無防備に泣き始めた。

 子どものように、弱さを隠さずに……。


「ワタシね……お兄ちゃんの一番でいたかったの。血を分けた妹だから、それだけで選ばれるって……そう思ってたのに……」

「ミネット……」

「……悔しいけど……あなたを憎めないわ。……そんな顔、してるもの」

「どんな顔だよ?」

「……愛されてる顔よ。お兄ちゃんに」

「なんだそりゃ……」


 ミネットは、絞り出すような声で言った。

 その瞳は戦いの火を失いかけている。


「……認めるわ。お兄ちゃんの隣には、あなたがふさわしい」


 ミネットはエルゼに弱々しく手を差し出した。

 エルゼはそれを見つめ、ほんの少しためらったあと、ミネットに近づき握手する。


「別にアデルを独占したりはしねぇよ。これからは、一緒にこいつを支えていこうぜ」

「ふふ、何よそれ。ずいぶんと気前がいいじゃない。悪くないわね、それも...…」 


 二人は、泥だらけで、血まみれだ。

 けれどその姿は、どこか救われたようにも見える。 

 勝ち負けなど関係ない。

 想いを伝えるためには、言葉だけでは足りないときもある。

 今回は言葉の代わりに、こぶしが語っただけだ。

 結果的に、彼女たちは互いに手を取り合っている。


 私はずっと、誰かを守ろうとして、誰かを傷つけてきた。

 ミネットの瞳に浮かぶ悲しみと、エルゼの瞳に宿る痛み。

 その両方を背負って生きていくしかないんだ。


「すまない、ミネット。お前の友人を殺めてしまった償いは、なんでもする」

 

 私は膝をつき、謝罪の言葉を紡ぐ。

 長い沈黙が落ちた。

 夜風が木々を揺らす音だけが耳に刺さる。

 ミネットはまっすぐに私を見据えていた。


「ワタシの友達は、確かに死んじゃったよ。でも――」


 一瞬、言葉が詰まる。

 呼吸を整えるように、ミネットは深く息を吐いた。


「――でも、お兄ちゃんはずっと苦しんできたんだよね? ワタシを守るために……あの血塗られた夜からずっと」


 私は、目を伏せる。

 どんな言葉を返せばいいのか、見当もつかなかった。


「全部赦すよ、お兄ちゃん。だから、もう悩まないで」


 ミネットはふらつきながら立ち上がり、私の頭をそっと抱きしめた。

 一瞬離れようと思ったが、そのまま受け入れる。


「これからは……一緒に償おうよ。お兄ちゃん一人に、背負わせたりはしないからね。ワタシも、もう子どもじゃないんだからさ……」


 小さな肩に抱きしめられながら、私は声を出せずに涙を滲ませた。

 ――ようやく、終わったのだ。


 あの夜の、悪夢のような罪と痛みが、ここでようやく浄化された気がした。

 ミネットの腕の温もりが、私の凍りついた心を、ゆっくりと溶かしていく。

 あの日失ったものが、少しだけ取り戻せた気がした。


「とても良い決闘でした。ですが、時間切れみたいですね……」


 まるで夜の帳に刃を差し込むように、冷ややかな声が突然辺りに響き渡った。

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