第十五話 違和感
ミネットの説得は意外にもうまくいった。
彼女は二つ返事で了承してくれたのだ。
このままもっと仲を深めれば、ライアンの石化を解いてくれるかもしれない。
これで犠牲者を出さずに済みそうだ。
ミネットの最初の仕事は、皿洗いから始めてもらった。
着用しているのは、この喫茶店の制服、メイド服だ。
偶然にも、彼女に合うサイズのものを所持していた。
これで晴れて、彼女も立派な家族の一員だ。
なお、メデューサは店外から、そっと彼女を見守っている。
彼女の勤務初日は波乱万丈だった。
いつもは閑古鳥が鳴いている当店に、めったに来ない団体客が押し寄せたのである。
そのせいで、私たちはミネットのフォローに回ることができなかった。
彼女は予想以上の皿の量に耐えきれず、慣れない環境で必死に動き続けた末、ついに倒れてしまったのだ。
幸いにも、メデューサが即座に駆けつけてくれたおかげで、大事には至らなかった。
苦しそうなミネットの顔を見て、私は罪悪感を抱いてしまう。
ひとまず、彼女を私の部屋で休ませる。
仕事が終わったあと、私たちは急いでミネットの様子を見に行った。
ミネットには、本当に申し訳ないことをしたと思っている。
初日からこんなにハードでは、明日も来ようとはならないだろう。
少なくとも私はそう思っていた。
「お兄ちゃん、心配かけてごめんなさい。また明日から頑張るね」
ミネットは声を震わせ、目も合わせずに、私の部屋から出ていったのである。
私の口からは、「ああ、頼む」という言葉しか出てこなかった。
「ミネットさん、大丈夫でしょうか?」
「そういえば、目に涙を浮かべておったな」
「ミネットの奴、泣くのを我慢してたってことか……」
……やはり、何かおかしい。
ミネットは少なくとも百年以上生きてきたはずだ。
なのに、言動があの頃とあまり変わっていない。
一見すると、彼女の振る舞いは大人っぽくも見える。
しかし、我慢をして相談をしないという行為は、自立した大人のそれではない。
本当の意味での自立とは、「必要なときに助けを求められる柔軟さ」や「感情を共有する勇気を持つこと」である。
果たして、メデューサという優秀な教育係がいて、あんな風になるものだろうか。
……何か違和感があるな。
そして、その違和感を抱えながら、あっという間に五日目を迎えてしまったのである。
時刻は午前九時。
私は一人でモニカの家へと足を運んだ。
ここに来た理由は、定期検査と、ライアンの見舞いのためである。
彼のために、ツクヨミシティ産のフルーツの詰め合わせを持参した。
「おお、アデルじゃないか。どうしたんだ?」
「……どうも」
頬のやつれたライアンが、笑顔で迎えてくれる。
一方、シャノンの表情は険しいままだ。
私は果物かごを二人に見せてから、テーブルの上に置いた。
「よかったら、食べてくれ。ここのフルーツはひと味違うぞ」
「それは楽しみだ。ありがとう、アデル」
「……感謝します」
シャノンの刺すような視線を浴び続けながら、モニカを探す。
だが、見つからない。
「モニカなら買い物に行ったよ」
「そうか、教えてくれてありがとう」
「……アデルさん、少しよろしいですか?」
「あ、ああ……」
私とシャノンは二人で家の外に出る。
すると、彼女は銀色の短刀をこちらに向けてきた。
その剣の切っ先は、彼女があと一歩踏み出せば、私の心臓を貫いてしまいそうだ。
「早くお兄様を解放しなさい」
シャノンの表情はまるで、東洋に存在する般若の面のようだった。
明らかに強い殺意を向けている。
「お兄様の顔を見たでしょう? かなりやつれて、食事も満足にとれていません。このままでは命に関わります」
「本当にすまないと思っている。だが、約束は守る、絶対にだ」
「もし約束を違えた場合、あなたもあなたの妹も眷属たちも、皆ただでは済みませんよ?」
「ああ、わかっている」
シャノンはなぜか短刀の切っ先を自分に向けた。
そして、一瞬だけ表情が柔らかくなる。
「お兄様のいない世界に、私が留まる理由などありません。お兄様は私の人生すべてですから……」
「君はそこまでライアンのことを……」
「あれ~? 二人とも何してるの?」
タイミングよくモニカが現れる。
シャノンは静かに短刀を下ろし、そのまま何も言わずに家の中へと戻っていった。
「ごめん、お取り込み中だった?」
「……いや、君のおかげで助かったよ」
「ふーん……。それじゃあ、検査しよっか?」
「君は相変わらずだな」
「ふふーん、褒め言葉として受け取っておくよ」
「あの……少しお時間よろしいですか?」
帰り道、不意に声をかけられた。
帽子を目深にかぶり、真夏だというのに厚手のトレンチコートを着た人物だ。
黒い日傘を差し、サングラスにマスクまでしているのだから、どう見ても怪しい。
だが、においですぐに正体はわかった。
間違いない、この人物はメデューサだ。
「すぐ近くに行きつけのカフェがある。話はそこで聴こう」
「お話が早くて助かります」
日光の照り返しで、石畳がほのかに白く霞んで見える。
歩くたびに靴の裏から熱が伝わってきて、嫌でも夏を感じられた。
細い通りの向こうに見えた、木製の看板が目に入った瞬間、私たちは無言で足を早める。
「体調はいかがかな?」
「もうちょっとで溶けるところでしたよ」
「それは大変だ。早く中へ入ろう」
ドアノブに手をかけると、扉の向こうから柔らかなベルの音と、涼しい空気が一気に吹き抜けてきた。
頬を撫でる冷気に思わず目を細める。
店内には、外の喧騒とはまるで別世界の静けさが広がっていた。
涼やかなクラシックが流れていて、清潔さを肌で感じられる。
私たちは窓際の席に腰を下ろし、対面で向かい合った。
彼女は帽子やサングラス、マスクを外す。
蛇の形をしていた髪はそこにはない。
今は雪のように白い髪が、音も立てずに揺れているだけである。
「……ここはよいところですね。静かで、落ち着いてて……」
「私もそう思うよ。夏はこの店に救われている、といっても過言ではないからな」
テーブルの上にあるメニュー表を手に取り、ページをめくる。
ガラスのグラスに注がれたミント入りのレモネードや、アイスカフェオレの写真が涼しげに並んでいた。
「君は何にする? 甘いものはいける口か?」
「……ティーグラッセでお願いします」
「いい選択だ。私はオレグラッセにしよう」
注文後、私たちの間に特に会話はなかった。
メデューサは頬杖をつきながら、窓の外に行き交う人々を眺めている。
窓から差し込む柔らかな光が彼女の横顔を照らし、その輪郭はまるで彫刻のようだ。
それだけではなく、何気なく揺れる髪も淡く光っていた。
私はそんな彼女の姿を横目に見ながら、店内に置いてある新聞に目を通す。
汗がゆっくりと引いていく感覚とともに、どこか穏やかな沈黙が辺りを包み込んだ。




