第十話 秘密の仕事
薄暗い階段を下っていくと、徐々に薬品のような刺激臭が鼻を突くようになる。
階段を下りるごとに気圧が変わり、耳が痛む。
一番下まで下りると、外界の音は一切消え、まるで地上とは隔絶された別の世界に足を踏み入れたような気持ちになる。
暗い通路を少し進むと、そこには怪しげな雰囲気を漂わせる、少し錆びついた扉に行き着いた。
モニカが扉を開けると、喫茶店よりも広い地下室が姿を現す。
同時に、さっきよりも強い薬品のような刺激臭が鼻を突く。
その地下室はきちんと整理整頓されていた。
だがその清潔さの裏に、微かに鉄臭い、血の匂いが滲んでいる。
床には白いタイルが敷かれ、ところどころヒビと染みが走っていた。
手術台のような金属製の台には拘束具が取り付けられ、その脇の白く塗られた棚には、謎の記号が刻まれたガラス瓶がずらりと並ぶ。
その中には得体の知れない液体や、小さな骨や肉塊のようなものが浸されている。
ガス灯のような照明、手書きのカルテ、ガラス製の注射器、それらは過去の医療の遺物のようでありながら、奇妙に現代的なモニターと並んでいた。
ベッドの脇には記録用のスケッチブックが置かれ、ページには人の顔を模した異形の何かが、患者として描き込まれている。
そして、医療機器の静かな呼吸音のような機械音が、まるで生き物の鼓動のように、部屋全体を満たしていた。
「ようこそ、『モニカズラボ』へ! アデルはいつもどおりベッドへ、エルゼはそこにある椅子に掛けておくれ」
モニカの指示どおり、エルゼは大人しく椅子に座る。
私はいつものように服を脱ぎ、下着姿になったあと、ベッドに横になった。
「さすがアデルだ。話が早い。じゃあ、ちょっと触らせてね~」
「お、おい、てめぇら! いったい何をおっぱじめるつもりだよ!?」
「いつもどおりの検査だけど?」
「け、検査……? そ、そういうプレイなのか? アデル、てめぇはジゴロだったのかよ……?」
「そんなわけがないだろ。馬鹿なのか君は?」
「ああ、なるほど。思春期の男の子みたいな想像をしたわけだ」
「ああ!? てめぇらはいったい何をしてるんだよ!?」
「見ていればわかるさ、お嬢さん」
「なっ……!?」
「おー、相変わらず見た目は細いのに、筋肉が詰まってるねー」
「お、おい、そこを触る必要はないだろう?」
「あ、ごめーん。つい手が滑っちゃったー」
「こ、この変態女が……!」
モニカは私の身体を触診したあと、輸血をしてくれた。
そのおかげなのか、身体に力が漲っていくのを感じ取れる。
「なんで……輸血を……?」
「どうやら、アデルはかなり消耗していたみたいだね。血のストックもないみたいだし、当たり前か……」
「ここ数か月で大量に血を使ったんだ。予備もすべてな……」
「そりゃあ、大変だったね。またあとで詳しく教えてほしいな」
「ああ、もちろんだ」
輸血が終わって数分後、モニカは採血の準備を始めた。
私はそのままベッドに横になりながら、彼女に身を任せる。
エルゼはなぜか少し顔を赤くしながら、こちらをじっと見つめていた。
「今度は血を採るのか? 大丈夫なのかよ?」
「さっきのは自己血輸血だから大丈夫。吸血鬼は回復も早いしね。それに、今日の採血はちょっとだけだよ」
採血後、改めて私とモニカの関係をエルゼに説明することにした。
現在私たちはリビングにあるテーブルを囲んでいる。
もちろん、私が淹れたコーヒーも一緒に。
エルゼだけは例外で、生クリームたっぷりのカフェオレだ。
「相変わらず、アデルの淹れたコーヒーは美味しいねぇ」
「味の感想はいいから、さっさと話せよ」
「ごめんごめん。……さてと、何から話せばいいかな?」
「まずは君自身のことを話したほうがいいんじゃないか?」
「それもそうだね、あたしについての話からしよう。エルゼはあたしが狼女だと、知ってはいるのかい?」
「当たり前だ。においでわかる」
「さすがだね。あたしは最初、きみのことがわからなかったけど……」
「どういう意味だ?」
「きみ、半狼だろ?」
「……よくわかったな」
「最初は吸血鬼のにおいに隠れてわからなかった。でも、これだけ近づけばわかるよ。一応、同種族だしね。そういえば、きみたちの馴れ初めは――」
「モニカ、その話はまた今度にしよう。今は私たちの関係のみに絞って、エルゼに教えてやってくれ」
「あ、ごめんごめん……」
モニカは頭を掻きながら笑顔を作る。
それから、コーヒーを一口啜った。
「簡潔に言うとね、あたしとアデルはビジネスパートナーなんだ」
「いったいどんなビジネスなんだよ?」
「アデルは半吸血鬼だろ? 半吸血鬼はとても珍しくてね、全世界に数えるほどしかいないんだよ。もちろん、半狼も珍しいけどね」
「また話が脱線してるぞ」
「いちいちうるさいなぁ、アデルは」
「……おい、早く話を続けろよ」
「ごめーん。……あたしはねアデルの身体を研究しているんだよ。簡潔に言うとね、あたしはアデルを研究する、アデルは私にその身を捧げる代わりに莫大なお金を得る、という風にね」
「なっ……!? おい、アデル! お前はそれでいいのかよ!?」
エルゼはテーブルを激しく揺らしながら立ち上がる。
彼女が怒るのももっともだ。
端からみれば、この関係は歪なものだろう。
「聴いてくれ、エルゼ。喫茶店を運営するのが、幼い頃からの私の夢だったのだ。だが、私一人では不可能だった。そんなときにモニカに出会ったのだ。青天の霹靂とはまさにこのこと、彼女の融資のおかげで今のヴァンピールがあるのだよ」
「それに加えて、あたしはアデルの生命線でもある人間や動物の血液も提供してるんだ。もちろん、タダでね」
「お前はいったい何者だよ……?」
「あたしはただの研究者さ」
「それだけじゃない。彼女は一応医者でもあるんだ。彼女の一族は大規模な製薬会社を経営していてな、私の血を研究して社会のために役に立つ薬を開発しているらしい」
「ちなみに濃縮した人間の血液も彼に提供しているよ。これはまだ安全が確立してないから、彼に別途料金を払って研究させてもらっているんだ。あとは彼の血の解毒薬も作っているね」
「あのドーピング血液や解毒薬までお前が作ってるのか? もはやなんでもありだな……」
エルゼはため息をつきながら、力なく椅子に腰かけた。
その表情には、驚きと呆れの色が浮かんでいる。
「理解してもらえたかな?」
「ちょっとだけな……」
「ところで話は変わるんだけど、エルゼ、きみの身体も研究させてもらえないか? もちろん、謝礼は弾むよ」
「き、君は何を言ってるんだ!? そんなことは私が許さないぞ!」
「アデル、よく聴いてくれ。きみと同じで、半狼も世界には数えるほどしかいないんだ。彼女が協力してくれれば、きっと社会の役に立つ。それに、稼ぎ頭は多いほうがいいだろ? 眷属も増えたことだし……」
モニカはテーブルに両肘をつきながら指を組み、その上に顎を乗せた。
眼鏡が光っていて目の表情はわからない。
しかし、顔は陰り、口角をいやらしく吊り上げており、非常に不気味な雰囲気を漂わせている。
「相変わらず、よく頭が回るな君は……」
「アデル。この件は彼女に直接頼んでいるんだ。いくらきみの眷属でも、彼女自身の選択を止める権限などないよ」
「エルゼの答えを聴くまでもない。彼女は決して、私のような実験台にはならないよ」
「いいぜ、お前の提案に乗ってやるよ、モニカ」
「ほら言ったとお……え? エルゼ? 君は今なんと言った……?」
「研究させてやる、と言ったんだよ」
「……話が早くて助かるよ。でも一応、理由を聴かせてくれないかな?」
モニカは体勢を崩さずに、エルゼへ問いかける。
エルゼはモニカを真っ直ぐ力強く見つめながら、口を開いた。
「……知ってのとおり、最近アタシらには家族が増えたんだ。だけど、店は閑古鳥が鳴いてるし、もっと稼がなくちゃいけない」
「納得できる答えだ。でも、それだけじゃないだろ?」
「そ、それはどういう意味だね?」
「女の勘だよ、アデル。きみは口を挟まないでくれ」
「う、うむ……」
「……アタシはアデルに恩返しがしたいんだ。現状、アタシには金を稼ぐ手段がない。だからこそ自分のできる範囲で、少しでもアデルの力になりたいんだよ」
「エルゼ……」
「……ふむ、どうやらいい眷属をもらったようだね、アデル。ではこうしよう、最初は採血だけの軽いお仕事にしよう。それだけで、こちらには大きなメリットがあるからね。これならいいだろう、アデル?」
モニカはやっと体勢を崩す。
それから、ニヤニヤ薄ら笑いを浮かべながら、私の顔を覗き込んできた。
思わず小突きたくなったが、ぐっと堪える。
耐えろ私、耐えるんだ……!
「……採血だけなら問題ない……か」
「OK、決まりだ。もっとお金を稼ぎたいときは言ってくれ。段階を踏んで、研究させてもらうよ。大丈夫、いきなりアデルのように全身被験体になれ、なんて言わないからさ」
「さすがにそこまではさせないぞ、モニカ?」
「か、顔が怖いよ、アデル。ちょっとした冗談じゃないか……。とにかく、これからよろしく頼むよ、エルゼ」
「ああ、こちらこそよろしくな、モニカ」
二人はがっちりと握手を交わす。
エルゼのことは予想外だったが、今回は彼女の意思を尊重するとしよう。
「そういえば、君に言いたかったことがある」
「なんだい、今さら?」
「私の店を、むやみやたらに喧伝するのはやめてくれないか?」
「え? してないよ、そんなこと」
「むっ? そ、そうなのか……?」
てっきり彼女が言いふらしたものとばかり思っていた。
では、いったい誰が……?
「じゃあ、早速採血してもいいかい、エルゼ」
「ああ、いいぜ」
「ふふっ、これからが楽しみだよ」
モニカの家を出ると、もうすでに午後三時を回っていた。
今夜の仕込みをしなければいけないので、一刻も早く帰らなければならない。
私とエルゼは、数か月分の人間と動物の血が入った大きなスーツケースを、一個ずつ引きずりながら早足で駆ける。
「なあ、アデル。ちょっといいか?」
気づくとエルゼは歩みを止めていた。
なぜか不安げな表情であり、自分の腕をもう片方の腕で掴みながら、目を伏せている。
「どうしたんだ、エルゼ?」
「あ、あのさ、モニカとはそういう関係になったことはあるのか……?」
「むっ……?」
一瞬で、彼女が何を言いたいのか察した。
私は嘘偽りなく、正直に話す。
「モニカはビジネスパートナーで、うちの常連でもある。しかし、男女の関係になったことは一度もない。余計な心配をさせてすまなかったな」
「そ、それならいいけどよ……。べ、別に嫉妬してるとか、そんなんじゃねぇからな! 勘違いすんなよ!」
「う、うむ……?」
「それとさ、このことは二人だけの秘密だからな? 青梅と赤椰にはあまり心配をかけたくねぇ……」
「それは同意する。このことは他言無用。二人には内緒にしておこう」
「おう……!」
エルゼは突然私の手を取り、重いスーツケースをものともせずに走り出した。
いきなりのことだったので、若干体勢を崩しそうになる。
「ほら、早く帰ろうぜ!」
「ふっ、ならばどちらが早く着けるか、競争でもするか?」
「おう、受けて立つぜ!」
秘密を共有したことで、さらに親密になった私たちは、夏の青空の下、浜辺でじゃれあう恋人たちのように帰路についた。




