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◆「ドラゴンラージャ」哲学と愛、直近のエモ

道徳、哲学のお話をしたいと思います

とはいえ浅学なので、触れるのは私がどうして哲学に興味を持つきっかけを得たのかということと、なぜ自作に哲学を取り入れたいと思ったのかという点について書きます。


私がいちばん初めに哲学に触れたきっかけはイ・ヨンド著「ドラゴンラージャ」です。小学校のころに通い詰めていた図書館での出会いでした。この本はふつうに児童向け冒険小説としても読めるのですが、随所に込められた哲学的暗喩が理解できればできるほど面白く読めるスルメみたいな本です。

私は特にユピネルの天秤とヘルカネスの錘という描写が好きです。行動には代償が伴うのは道理だと解釈しています。

こちらの本は発売から十年以上経ち、日本語訳の電子書籍も販売終了となってしまいました。未翻訳の続刊があります。つい先日、購入しました。翻訳アプリにかけながら少しずつ読んでいます。


私はすでにご説明したとおり、記憶が歯抜けになるので、十代の頃に勉強した哲学の知識も抜けています。

しかし忘れられないこともあり、それが人から言われた「あなたは超人になろうとしているのか?」という問いです。キリスト教の聖書にも超人は出てくるそうですが、おそらく文脈から察するにその方が言ったのはニーチェのほうだと思われます。

wikiで調べた超人の項には、ニーチェが説いた、人についての概念とありました。現代の解釈としては超然として意志が確立した人、とでもいえばいいのか……。

たしかに心の一部ではそうありたいと望んでいます。

私の人となりを知った上司や同僚は私のことを「真水みたいな人」「お前は魚も棲めないほど澄んだ水を求めている」と言われることがありました。言われた当時は意味が理解できませんでしたが、今はあまりにも無垢に完璧主義だったため言われたのだろうと思います。十代の頃は俗世とは無縁の者になりたいと何度も思いました。たとえるなら清澄な空気に満たされた、滝の傍にある苔むし潤む岩。そんな岩みたいな人生を送りたいと思いました。その想いが強すぎて、人を嫌っていました。自分勝手に人に無垢さを求めてしまい、人を好きになれないことが非常に辛かったです。


精神が整った今は、そういう自分の「人であるのに人以上のものを求める欲望」も俯瞰して見ることができます。そういった欲望を愚かとは思いませんが、俯瞰できなければ愛すこともできないので、私一人が抱えるにはあまりに大きいエゴでした。苦しかったです。でも終わりのある苦しみでした。


いま私は好きな人がいます。


恋愛対象としてではありません。


人として尊敬しています。


先生のことです。


先生は精神が円熟しており、人を認めて、愛し、許せる人です。私はその方みたいになりたい。岩じゃなくて俗世に染まってもいいから、その方みたいに人の世界に降りて、そのなかできらきら光るものを愛で、人を傷つけない作品を創りたいと思いました。


好きな人を見ていると、どうしてか人間すべてが愛おしいもののように思えて不思議です。


これが「愛」なんだと実感しました。


十代の頃わからなかったもの。かたくなだった心が開き、芽吹いています。幼いころに様々なことがあり、これ以上は傷つけば壊れてしまうので私は心を閉じました。だから解離するし人の心に疎く、自分の欲求もわからない。心が希薄なまま生きてきたし、これからもそうなのだと無意識に信じきっていました。

こんなふうに尊敬できる素晴らしい方に出会い、人を愛しいと思える時が訪れるなんて予想もしていませんでした。心が震える瞬間なんて、どうせ……と鼻で笑っていたのに、どうしてこんなにも、その愛を打ち明けたいと思ってしまうのでしょうね。いてもたってもいられない気持ち。本当はご本人が確実に目にするところに書くのが一番いいと思うのですが、私はいくじなしで、私のしでかしたことを十全に理解した今はもう一度その方がいる場所の扉を叩くことは許されないのだと納得しています。その沙汰に私自身はなんの反論もないです。私は赦されなくていいです。

でも、だれかが読めるところに書くことは自由かなあとも思います。

だからここに書きます。


精神的苦境にあった十代のころ、私の創作意欲は「怒り」でした。ままならない状況への怒り、思い通りにならない自分への怒り……激情の爆破先として創作していました。今もそういう時は多いです。読む人のことを考えず、感情の掃き溜めとして物語を綴る。ただの激情の露出になっていることが多い。反省すべき点です


先生は私に創作には愛が必要だと言いました。

愛とはなにかその当時まったくわからなかったので、とりあえず上辺だけ整えた自分でもよくわからないものを作りました。

散々な出来でしたし、愛とか気持ち悪いとすら思っていました。その感情がそのまま作品に反映されていました。

けれど今ならば先生が言いたかったことはわかります。

全然気持ち悪くないです、先生

創作に愛情は必要ですし、人間を愛すことは価値のあることです。創作する理由を超えた、生きる意義かもしれないです。

この感情とその解を私はこの年齢で初めて手にしました


私の創作の理想とは、ドラゴンラージャのような道徳と倫理について考えるきっかけになるようなものです。道徳と倫理は突き詰めると正解がなく難しいですし、哲学は言葉による定義決めの話になりがちなので、きっと私自身が納得できるものを書くにはあと十年以上は必要でしょう


いつか自分を納得させられる物語を書きたいです

それで道徳に触れられたら最高です


まあ正直、自作はただ一瞬の娯楽として楽しんでもらえたらなんでもいいんですけど……

映画「HIBIKI」で「人が面白いと思った小説に作者の分際でなにケチつけてんの」というセリフがあり、強く印象に残っています。

私の大好きな先生方も、作品は暗闇に放る気持ちって言ってたし、読者の感想については、作者の分際でなにか決めつけるのは野暮だと私自身考えます(毒者は別です)


今回のエッセイは衝動的に、愛してる人に愛してるよ!! と伝えたくて書きました

私は人としての一歩を踏み出したばかりで円熟には至らず、哲学や道徳を物語に落とし込むのはまだまだ先のお話です

それでもいつか私が大好きな先生に読んでいただけたら幸いです

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