◆終わっている人生にいつか本当に終わりが訪れること
美しい思い出といわれて連想するのは、特定の人に向けて、透き通った痛切な想いだけで小説を何本か書いたことだ。
私が小説を書き綴るのは、見る人によっては狂気的な理由がついているが、まあ、上の件も正気か狂気か問われたら、狂気の類だろう。
小説でその人を救いたかった。そんなこと無理だってわかっていながら、それでも、書くしかなかった。私には一生実現できないことかもしれないと思いながら、執着と妄想だけで書いた。
たぶんその特定の人は気持ち悪がっていると思う。そういう想像も十分できたが、自分の感情を制御できなかった。人のためと言いながら自分を慰めるために書いた。浅ましい。
私は人生の落伍者で、社会不適合で、交流のある人曰く「奇抜なことをする」タイプで、多くの人が理解しないわけのわからないものに感情移入するくせに、普通の人の感情がわからなかったりする。
感性なんか狂っていて、その狂った感性をうまく活かすこともできず、作品も書けない。もちろん人生なんかとうに終わっている。また終わっていることで開き直り、自分勝手な行動を自分に許す。最低な人だ。
いつだったか私の絵筆はからからに乾いて、ぼそぼその線しか引けないというようなことを説明したと思うのだが、本当にそう。うまく綺麗な線がひける絵筆を持っている人が羨ましい。
とはいえ。
とはいえ、なんとかして私は私の小説を書かなければならないなとも思う。
私と結婚しようとしていた人が「そんな面白くない小説をたくさん書いてなんになるの」と言ったけれど、このインクの染みや文字のデータ群が、なんの役に立たなくても、誰を喜ばせることもなくても、私は書くよ。書き続けるよ。
書くことだけが先生に報いる手段だから。
私がこの手段で健康になったり人生が幸福になったりすることはないと最近は感じはじめているけれど、それでも、私は、書くでしょう。書くことだけが私を救うでしょう。
先生に「書け」と仰っていただけたのは、本当に光栄だった。
ありがとうございます、先生。
今回がこのエッセイの100話目
100回目の更新ということは、このエッセイもあと残り100といくつかだね