[P-002-御使い]
目が覚めると、景虎の鳴き声が聞こえた。
無事なのか!?と勢いよく起き上がると横で女性の、きゃっ、という小さな悲鳴が聞こえたが気にせず声の方へ顔を向けた。
そこで見たのは泣き喚く景虎の身体を押さえつけ、何かの入れ物に入れようとしている男の姿だった。
瞬間、カッとなって悠里は寝かされていた場所から飛び起きた。
「私の景虎に何すんじゃあああぁぁぁ!!!!」
飛び起きた勢いそのままに、悠里は男をひっぱたいた。
**********
「あの、すいませんでした。誤解してしまいまして…」
「いえ、大丈夫です」
頬を少し赤くした男性が、内心怒っているのでは?という疑惑を抱かせる無表情で答えた。
「…」
悠里がかっとなってひっぱたいた男性は、ここは教会で、しかも総本山の大聖堂だと教えてくれた。
その中の聖水が湧き出る神域という所に悠里と景虎は現れた。当初意識がなかったので、客室に運び入れたのだが猫の景虎が先に目覚め、おそらく見た事のない場所で数人に囲まれていた事によるパニックで部屋中を走り回り、カーテンや書棚、マントルピースなどを駆け登り、危ないと思った男がなんとか捕まえ、悠里の側に置いた赤子用のベッドに入れようとしていた所を見られ、誤解したという顛末だった。
暫く無言のまま時が過ぎるが、その気まずい沈黙を破る様に、声が掛かる。
「教皇様が御着きになりました」
その言葉の後ドアが開き、小柄で70歳くらいの男性が何人かに囲まれて入ってきた。
“教皇”という言葉に驚いて、悠里は景虎を抱きしめながら顔をあげる。
何もわからない悠里は一度は失われた景虎のぬくもりだけが頼りだった。当の景虎は悠里にしっかりと爪を立ててしがみ付いていたが。
「はじめまして、私はヴァトリス教、教皇のディマジオ・ドゥ・フランと申します」
「あ、ええと、松橋ゆう、いえ、悠里・松橋と申します」
「ユーリ・マツハシ様」
「はい」
ゆったりした話し方と温厚そうな眼差しは、少しだけ心を落ち着かせた。
「では貴方様が、御使い様と霊獣様なのですね」
「ええ…?」
様という敬称が渋滞するなぁと思いながら教皇をじっと見つめてしまった。
しかし御使いと霊獣、という言葉を聞いた瞬間思い浮かんだのだ。
ああ、救済の事か、と。
神様より事細かく説明された訳ではなかったが、悠里には何となく判った。
「昨日、神託が下りました。御使い様と共に、御隠れになった霊獣様を再び遣わすので乱れた霊脈を正し、世界を安寧に導く様にと。我々は御力になるべくお待ちしておりました」
戸惑いからでた「ええ…」という声を承認だと思ったのか、教皇は続いて言った。
「え、ええ、はい。何を為すべきかというのは判っていますが、私はこの世界の事を殆ど知りません。ですので、色々教えて欲しいのですが」
なんとかそれらしく答えた悠里に対し、教皇と、周りにいる何となく位の高そうな人たちは頷き合うと言った。
「解りました。では、リカルド、ユーリ様に今のこの世界の事を教えて差し上げなさい」
「はい」
教皇に言われ、頷いたのは先程悠里がひっぱたいた男だった。
(気まずい)
内心そう思ったものの、ここでチェンジ!など言う方が失礼だし、不用意に彼の立場を悪くしてしまいそうだと、何とか堪えた。
たくさんの人に囲まれていては落ち着かないだろうという事で、教皇とその他のお偉いさんの様な人々が退出していき、部屋には侍女の様な人とリカルドと呼ばれた男が残る。
おそらく教皇達はこれからの事を話しあうのだろう。
「ユーリ様、お座りください。今お茶をお淹れします」
「あ、はい」
そこでようやく悠里は息を張り詰めていたのだと気が付いた。背中を壁にして、景虎以外は心を許せないとばかりに体に力を入れ立ち竦んでいたのだ。
「ではこちらへ」
リカルドがソファーの所へ案内しようと手を差し伸べた瞬間、悠里は体がビクンと震え、更に壁に背を付けた。
自分を刺した男とは違うと解っているのに、男に前を立ち塞がれただけで恐怖が蘇った。
それを感じ取ったのか、景虎の体もぶるぶると小刻みに震えて、リカルドに警戒の眼差しを向けている。
怯えさせてしまった、と悠里は深呼吸し、景虎をそっと撫ぜ、リカルドと共にソファーへ向かった。
彼も悠里が怯えた事に気付いたのか、さりげなく距離をとってくれたようだった。
悠里がソファーへ座ると、すぐにお茶を出された。
「美味しい…」
お茶はとても良い香りがして、甘みがほんのりとあり悠里の心を落ち着かせた。
リカルドは悠里が落ち着くのを待ってから口を開く。
「ユーリ様は、神託の通り御隠れになった霊獣様と共に霊脈の浄化をなさって下さるという事でお間違いないですか?」
「え、ええ。そうですね。神様から使命を与えられました」
悠里がそう言うと、リカルドはほっとしたかのように小さく息を吐いた。
「再確認をするような事をして申し訳ございません」
「いえ、いいんです。先程は私も少し混乱していたので」
そう言うと、リカルドは微笑んだ。
金髪で、アイスブルーの瞳の整った顔立ちの男は、笑うと柔和な雰囲気になった。着ている服は教皇たちが着ていたような祭服ではなく、騎士の様な形で黒に少し銀糸を混ぜた様な色合いで、帯剣しており、リカルドの美形さと相まって普通の女性なら見惚れる程だろう。ただ悠里は今の所現状把握に忙しすぎて頭に入ってはいなかったのと、年齢を重ねた前世の悠里にとって映画で見る様な若いイケメンで外国人となれば、なんだか皆一緒の顔に見えていたからである。
「あの、霊獣が隠れた、というのは?」
そもそも霊獣とは何だ?と思ったが、さすがにそれを遣わす役割と言ってしまった手前訊くに訊けず、きっと何かありがたい霊的な獣だろうと思う事にした。
「はい、私共の世界は、30年程前まで戦で世の中が乱れていました。その戦いの中でこの世界を見守られる神様からの御使いの霊獣様が少しずつ姿を消してしまわれました。教会はこれを長く続いた戦に対する神罰と捉え、各国へ訴えましたが戦の爪痕は大きく、気付いた時にはすでに霊獣様は御隠れになり、以降は魔素の様子が変わり淀んで行き、その所為か魔物の動きが活発になり、被害も多くなっていきました。教会は世界の安寧を祈り、穢れた魔素を元に戻し、霊獣様が再びこの世界に顕現しても良いと思って頂ける様に活動している所なのです」
戦争か、どこの世界も争いはあるものだな、と悠里は溜息をついた。地球の様な大規模破壊兵器や核爆弾がある訳ではないだろうが、その代わり魔法がある。規模は違えど人の生き死にも戦いによる憎しみの連鎖も変わらないだろう。地球の温暖化や異常気象、化学物質による環境破壊が、この世界における魔素の穢れといった所なのだろうか。
そして悠里の役割というのが、魔素の穢れを祓う事で地球で傷付けられた動物を渡らせる事が出来るのだろう。悠里はもしかしたら猫だけではなく他の動物も範囲に入っているかもしれないと思っていた。強く願った時に浮かんだのは虐待された動物だったし、神には猫だけなどとは一言も言ってはいなかったからだ。まぁ一番先に猫がいたのは間違いないのだが。
取り敢えずどこまで出来るか解らないが、やるだけやってみようと決意を新たにした。仕事があるのは生きていくうえで良い事だし、悠里が頑張れば頑張るだけ、この世界も、傷ついた動物たちも救われるのだから。
この世界の今の状況と、御使い、という役割の事を簡単に聞いたところで悠里たちも来たばかりで疲れているだろうと、一旦休むことになり、リカルドと侍女が部屋から出て行くと、ようやく悠里はひと息つくことが出来た。
そして膝の上で香箱座りをしている景虎を見つめる。
そっと触れて頭を撫でるとごろごろと喉を鳴らす音が聞こえてくる。
「…っ」
ふわふわの毛の上にぽたぽたと涙が落ちる。
耳にあたったのか、ふるりと体を震わせて景虎が悠里を見上げた。
「にゃぁ」
普段はあまり鳴かない猫だが、心配そうに悠里をみつめてまた鳴いた。
「景虎…とらちゃん…」
ひとしきり撫でまくってからようやく泣き止むと、あらためて景虎の体を確かめ、傷ひとつない事に安堵の息を吐く。
15歳だった猫は老境にさしかかり、毛並みも筋肉も衰えてきていたのだが、今やつやつやで引き締まった体の3歳位の猫だ。
それに安心すると、次は自分の事が気になった。
今までは緊張で自分を顧みる余裕が全く無かったのだが、神様に作り変えられた体がどのように変貌しているのかを確認する為、鏡を探して部屋を見まわした。
悠里が今いるのは教会の客用寝室でも位の高い者が泊まる為のもので、それなりに広い造りで豪華な調度品でまとめられている。天蓋付きのベッドの横にチェスト、洗面台の様なものがあり、全身が映るほどの鏡があった。
悠里はどきどきしながら前に立つ。
「おお…」
西洋人形がそこにいた。
まず目に付いたのは腰まであるさらさらストレートの銀髪。金色の目。
「洗ったら乾かすのめんどくさそう。後で切ろうかな。あ、でも年とっても白髪が目立たないかもしれない」
感想が残念だという自覚はあるが、こちとら数時間前までアラフィフなのだ。それまで生きてきた記憶があるかぎり思考がオバサンなのは仕方がないだろうと諦めた。いきなり年齢に合わせて考えが若者になる筈もない。
「まつげばっちばちのお人形さんだよ。レースふりふりのロリータファッションすら許される。けど夜中に目が覚めて鏡に写った自分を見たら馴染みがないから悲鳴あげそう」
勝手に動くビスクドールを思い浮かべて少し顔が引き攣る。
「まぁ市松人形でも驚くけど」
西洋VS東洋の恐怖の動く人形対決を勝手に想像して笑えるやら震えるやらだが、この世界の人種の基準に合わせて整った容姿にしてくれたのだから感謝しかない。
「でもなんでセーラー服?」
濃紺のプリーツスカートと、セーラー襟にリボンタイ。これは高校時代に悠里が来ていた制服だった。
「なつかし~」
体が若返って、一番馴染みのある、というより記憶にある16歳の時に着ていたものがこの制服なのだろう。
一昔どころか三昔前なので今の時代となっては古くさいかもしれないが、長い間着る事を想定しているだけあり丈夫な造りをしている衣服ではある。ただ化繊織物はこの世界ではオーバーテクノロジーかもしれない。
あと夏服とジャージがあればいいなぁと思った。
「これで、歳、容姿、言語の願いは叶ってるな」
そこで疑問に思う。
「財産…とは?」
色々と見回しても身一つで、鞄一つ持っていない。インベントリ、空間収納なのだろうか?と考えたが解らなかった。
「それよりも魔法だよね。まず魔力がよく解らない」
試しに手に力をこめてみるが特に何も起こらなかった。
「何かイメージしないとダメなのか。まずは魔力とやらを感じられる様にならないと」
魔力、魔力、と目を瞑って体に何か感じないかと集中する。
「不思議系の力と言えば丹田。へそ下三寸…チャクラ…」
楽な姿勢をとり、体の内部に意識を集めると、お腹の中が熱くなってくる。
(きたか?きたのか?これ)
その熱さが全身を駆け巡り包まれる。
「あ、何か出そう!」
駆け巡る何らかの力が出口を求めて彷徨っている気がする。
(でも何もイメージしてない。どうしよう、目的もなく魔力だけ吹き出したら爆発とかしない?何か、こう、害のないもの。何ならむしろ良いもの。風?風はダメだ。部屋がめちゃくちゃになっちゃいそう。光?光ならいい?あ、ダメ、レーザー浮かべちゃダメ。薙ぎ払っちゃダメ。聖!?そうだ聖なる光。よく判んないけど何かよさそう!!)
「祝福!!」
そう叫んだ途端、自分の中から眩い光が溢れだした。その強い光が目に飛び込んできた。
ム○カ状態!!
「目が、目がぁあぁ~」
と、やろうとしたが不思議と目を焼く様な事もなく、きらきらひかる光はずっと見つめる事が出来た。
「そりゃそうか。攻撃じゃないもんね」
そう言ってほっとしていたら、体にもふっとしたものが寄り添った。
「?」
その柔らかいものに目をやると、デカい景虎がいた。
景虎としっかり目が合った。
「うわあぁぁぁ~!!」
「どうなされました御使い様うわあぁぁ~!!」
どうやら扉の前で警護をしていたらしい二人が部屋に入ってきて、声を掛けるがその声は悲鳴となって続いた。
「んにゃぁあ~」
叫び声の輪唱の中、のんびりとした鳴き声を上げた景虎は、そのまましゅんっと小さく元の大きさに戻った。
「…」
「…」
「…」
無言で景虎を三人で見つめていたが、
「わ、私の霊獣の能力です。お騒がせしてごめんなさい」
何事もなかった様にしれっと悠里が言う。
「そ、そうですか。あの、先程の光は?」
「…祝福の光です。特にこの世界に影響はありません。無事にこちらに着いた事を神に感謝したのです」
「そうでしたか、判りました。ではごゆっくりお休み下さい」
そう言うと護衛の二人は部屋を出て行った。
扉が閉まるとそっと外の様子を伺う。足音からどうやら一人が離れて行くようだ。
「きっと報告に行ったんだね」
そう言って景虎をじっと見る。
「もしかして景虎ちゃんも神様に能力貰った?」
「そうにゃよ!」
「喋った!!!」
ぺたんと床に座り込み、景虎を見つめる。得意そうな顔で尻尾をぶんぶん振っている。
「すごい…景虎と、お話出来るんだ…」
あまりの事に呆然としていると、景虎は悠里の周りを頭を足にごんごんぶつけながらぐるぐる回る。
「悠里を護れるように力を下さいってお願いしたにゃ」
「そう、なんだ…」
その気持ちが嬉しくて顔をくしゃくしゃにして泣き笑いの顔になる。
「あのねぇ、まず、悠里を護れるように強い体を下さい、でしょー。悠里を護れるようにおっきくなれるようにして下さいでしょー。悠里を護れるようにかしこくして下さいでしょー。あと悠里とお話できるようにでしょー。あとー浮かばなかったから、神様が悠里を護れるようになんか魔力をくれたにゃ。それからー、最期は僕の楽しい事に使いなさいって言ったからー、美味しくごはんが食べられますようにーって!」
どやっ!といった顔でつんっと上を向いて言い終わる。
悠里はそれを聞くとぽろぽろと涙を零した。
「ほとんど私の為じゃない…」
ぎゅっと景虎の体を抱きしめる。
願いが6個叶うという事は、つまり景虎はその体に6度の刃を受けた事になる。
「…」
悠里の中にまたもどす黒い気持ちが浮かんでくる。
しかしもうあの世界とはかけ離れた所に来ている。
この手で果たす事の出来ない報復への渇望は澱の様に悠里の中に沈殿していく。
やるせない思いを今は元気な景虎を抱きしめる事で噛み砕いた。
「今度は私が景虎を護るからね」
「んにゃー、僕が悠里を護るんにゃよー」
護るだけではなく、幸せで楽しくて、ずっと笑って美味しい物を食べられる様に誓う。
そうしてまたぎゅっと景虎を抱きしめた。
「そうだ、私達を殺した男をありったけ呪っておこう。神様に頼んだ復讐の他に、七夜にわたり夜中の2時に下痢を伴う腹痛になりますように!一日に一回足の小指を何かの角にぶつけますように!急いでる時に限って信号が目の前で赤になりますように!ちょっといいなと思ってる女の前でおならが止まらなくなりますように!! はぁようやく少し落ち着いた」
くだらない呪いをかけ、景虎をぐりぐり撫でながらこれからの事を考える。
「穢れとやらを祓って猫たちを呼ぶのに教会の力は借りられるみたいだけど、王制や貴族なんかが居るってことは何か横暴な横槍とかあったら嫌だよねー。メンドクサイ権力闘争なんかには係わりたくないし。すでに御使い様なんて呼ばれて特別な感じになってるしさ。
この世界が政教分離してるんなら取り敢えず教会だけ気にしてればいいんだろうけど、教会だって階級とかはあるだろうし完全に権力とは無縁なんてないと思ってた方がいいな。下手に聖女みたいな扱いになって使い潰されるのは嫌だし、この世界の力関係は少しは知りたいなぁ」
重ねた年齢分世の常を知ってる悠里は、消えない不安にため息を吐いた。