[P-001-御身渡]
その日、悠里の思考は憎しみで黒一色に染められた。
「景虎ちゃん、もうちょっとで家だからね」
定期健診の病院の帰り、車の助手席に置かれたケースの中で大人しくしている猫に声をかける。
すっかり暗くなった街灯のあまりない曲がり角に差し掛かった時、するどい猫の威嚇の声が、わずかに開けられた窓から悠里の耳に届いた。ケンカの時ではない異常な声に、車を停め耳をすますとアパートの脇の薄闇の中にうごめく影が見える。
「どうしました?」
恐る恐る車を降りて声をかけると、蹲っていた男が振り向いた。その手にはナイフが握られ、その奥には追いつめられた様子の毛足の長い猫が一匹いる。
「うるせぇな…」
呟く様に言われた声には感情の起伏がなく、恐怖がつのった。
「俺の楽しみを奪うんじゃねぇよ」
そう言うと、右手に握られたナイフが悠里に振り下ろされた。
「!!」
胸元が熱いと感じた。
立っていられなくて倒れ込んだ悠里の目に、何かの光に反射したナイフが徐々に赤黒く染まっていくのが見えた。
恐怖と痛みで小さな声で呻く事しか出来なかった。
男はしばらくすると悠里の車の中から景虎の鳴き声を聞きつけ、口元をにやりと歪ませる。
「何だよここにも丁度いい獲物がいるなぁ」
そう言って景虎の入ったケースに近付いて行くのが見えた。
(やめて!!やめてやめてやめて!!あの子がなに何したっていうのやめてやめろやめろ――――――――――――――――――…)
悠里の血で染まったナイフが、悠里の見た最期の景色で、景虎の鳴き声が、最期に聴いた音だった。
許さない許さないあいつは絶対許さない。このまま死んだら私と景虎で化けて出てやる。末代まで呪ってやるむしろ末代にしてやる。死んだ方がマシだって思うような恐怖と痛みを味あわせてやる。
「鎖で吊って硫酸のプールに10分ごとに1センチずつ浸けてじわじわとなぶり殺してやる」
「なかなかえげつない想像だね」
「…は?」
「やぁ、お目覚めかい?」
悠里はかすむ目をこらして周りを見た。霞んでいるというのは間違いで、どうやらここは薄ぼんやりと光っている、真っ白な何もない空間だった。
「何コレ、病院?今どきの集中治療室ってこんななの?無菌室?あれ?」
それにしては身体がちっとも痛くない。何度も刺された気がしたけどと、手でぺたぺたと身体を触ってみると傷がひとつもなかった。
「夢だった?いや今が夢?」
「残念だけど夢ではないよ。松橋悠里、君は谷川雄太という男に身体を17ヵ所刺されて死んだんだ」
「……」
薄ぼんやりした光の中に、少しだけ強さの違う、ふわふわとしたものが浮かんでいる。そこから声がした。
「……景虎ちゃんは?」
うめく様な声で訊く。
「君と同じ」
その言葉で、どうなったのかを想像してしまった。
「あ…うあっ…あああぁぁあぁ」
悠里は喉も裂けよとばかりに泣き喚いた。怒りで気が狂いそうだ。私が何をした。景虎が何をした。あんなナイフで刺されて死ななければいけない罪を犯したとでも言うのか。それが体中をぐるぐると回る。黒い塊が喉の奥でつっかえて、今にも食い破って出てきそうだった。
そうしている内、悠里の周りがじわじわと黒く染まっていく。零した涙の色が透明なものから血の色へ、そして黒へ。消えていた傷が現れ、黒い血が噴き出してくる。刺し傷から溢れる血が憎しみと混ざり合い、姿はまるで異形の者となっていく。
そんな悠里を白い光が包み込んだ。
「すまない、人の子よ」
優しげな声と、包まれた光はとても暖かく、悠里は掻き毟っていた頭から手を離した。
「…なぜ、貴方が謝る?」
問うと、白い光は悠里から少し離れた。
「まず私の事を話そう」
悠里は手をぽたりと降ろすと白い光を少し虚ろなめで見つめた。
「私は君たち人の子らが言う、神という存在だ」
普段なら、何だ、カルト教団の自称神か、などと思ったに違いないが、今は何故かすんなりと受け入れていた。そもそもふんわりとした光る球体と会話をしているだけで既にもう非現実的だ。
「そして私はこの地球ではなく別世界の神でね。今日は調整の日、いわゆる交流会の様なものだったんだ」
急にオフ会みたいなノリになった。
「私は地球がとても珍しくて、色々見て回っていたんだよ」
「…はあ」
としか言いようがない。
相槌を打ちながら白い光を見つめる。
「発展している都市の街並みも面白いし、大自然も色々見てきた」
長い話になるのだろうか。人類の歴史とか語り出したらどうしよう。いや、他世界の神目線でこの地球の事を聞くのはかなり貴重ではあるな、と悠里はぼんやりした頭で考えていた。
「そのうち、ちょっとした雑踏や路地裏とかが気になりだしてね」
神は細部に宿るという言葉もある。悠里も建物の間の苔むした小さい通路や、細い道などが結構好きだったりする。
「そうして見ていた時に、君を殺した男に見られてしまってね」
「え?」
「そう、君が殺される前に見た、白い小さな獣が世を忍ぶ仮の姿をした私だったんだ」
白い猫だと思ったあの子が、閣下、もとい今目の前で白くふわふわ浮いている神様?と、刺される前の事を思い出していた。
助けようとして、私は、とそこまで考えて思考が停止する。
「そっか…」
それは諦めだった。
諦めが悠里を包んでいた。
「そういう訳で君達にお詫びをしようと思う」
その言葉を聞いて顔を上げる。流れていた黒い血は止まったものの、浮かび上がっていた傷はそのままでとても痛々しい姿だった。
神と名のる光の球はふわりと一歩分悠里に近付く。
「残念だけれど、君達を生き返らせる事は出来ない。一度失われた命は戻らないんだ」
もう一歩悠里に近付くと、体が光に包まれ傷が消えていった。
「地球の神も、自分の世界の者が他の神に刃を向け、その上二つの命が奪われてしまった事で、特別に協力して君達を救う事にしたよ」
そう言うと、少し青白く光る球体がもうひとつ現れた。
「貴方達の魂は、ヴァトリスの世界へ行くことになります。そちらで幸せになれるよう、私達の加護を授けましょう」
悠里はおそらくこの上ない存在である2神と対面し、混乱していた。まだどこか夢ではないかという思いもある。
「加護…ですか?」
「ええ、この様な事態はめったにあるものではありません。出来るだけ貴方の望みを叶えましょう」
「出来るだけ望みをとは言うものの、無限にという訳にはさすがにいかないんだ。そこで本来受ける筈のなかった、君に付けられた傷の数だけ君の要望に応えよう。つまりは17個だね」
「しかし世の理に背く望みは叶える事は不可能です」
「不老不死や全世界の支配や滅亡などだね」
「あ、はい。両方とも興味ないです」
死ねない事ほど恐ろしいものはないし、全世界の支配など面倒でたまらない。更に滅亡したら転生する意味がない。悠里は例えに出されたものを一蹴する。
「それにしても17個、ですか…」
多いな。と正直思った。
物語でよくあるのは三つの願い。それを考えると破格とも言える。刺された分だけ強くなる、と他愛もない事すら頭に浮かんだ。
いわゆる異世界転生だ、とネット等の小説で読んだ事のある色々な物語が頭に浮かんだ。
「あのっ、景虎ちゃんも一緒ですか?あの、あの子は私が不用意に近付いて巻き添えになって、あの子は何も悪くなくて…」
異世界と地球の神々はその必死な様子に、まるでお互いの顔を見合わせ笑った様に見えた。
「ええ、もちろん」
「一緒に連れて行くとも」
それを聞いて、ようやく笑った。
「よかった…」
「ははっ、君は自分の事よりもその子の事の方が嬉しいみたいだね」
それに頷いて応える。
そしてふと気付いて地球の神に尋ねた。
「あの、異世界に渡るとしたら、この地球での私はどうなるのでしょう?」
「そうですね…、そのまま通り魔に襲われての死亡、となります」
そう言われて悠里の心にまた苦々しいものが湧く。
日本では一人殺した位では殆ど死刑になどならない。動物にいたっては大した罪にもならない。あいつは私達を殺しても、そのままのうのうと生きていく。もしかしたらこの先もまた小さな動物を殺していくのかもしれない。そして過去にニュースなどで見て、しばらく忘れる事の出来なかった動物虐待の事件を思い出し、俯いてしまう。
「…復讐をしたいのですか?」
淡々といった話し方ではあるが、少し困った、というのをその声に感じた。
その問いかけに、悠里は暗い目で顔を上げる。
それは確かな本音だ。私と景虎は生き返る。ならいいか、とはどうしても割り切れなかった。
復讐からは何も生まれない?
はっ!私の気が済むではないか!というどこかで聞いたセリフが浮かぶ。
「…残念ですが、貴方の意思で人を殺めてしまっては、貴方の魂が穢れ、ヴァトリスの世界へ渡る事が出来なくなってしまうのです。復讐を果たす事は出来ますが、それを終えれば貴方は消滅してしまいます」
それを聞いて悠里はまた俯いた。
私一人ならばあんな奴が生きて、今もこの先も笑って生きている世界に何の未練もないので、せいぜい苦しんで死んでもらう。でも、と悠里は止まる。
景虎の最期があんなでは死んでも死にきれない。
「ふふ、貴方は面白い人ね。自分の事よりも猫の事ですか?」
「だって他に大事なものなんてないもの」
悠里は自分の事を振り返る。小学校で軽い苛めにあい、人間不信気味で、人と深く関わるのが億劫で独身でここまできてしまった。親ももう死んでおり、繋ぎ止めるものはもういない。しかし少ないながらも大事な友人はいたし、社会人になってからは絶望する程の辛い事もなくここまで来た。それでも生にしがみつく程の執着もなかった。
「まぁ、今読んでいる漫画や小説の続きが読めないのが辛いぐらいですね」
そうきっぱり言った悠里に、地球の神はすこし悲しそうな気配を見せた。
「殺してはダメなら、悪夢と幻覚をプレゼントしてもいい?」
半ば吐き捨てる様に言う。
「というと?」
「命を奪えないなら、自分の快楽と欲望で動物虐待する人間共に悪夢と幻覚を見せてあげてよ。自分がやってきた事を、自分がされる夢を見せ続けて。ずっとよ!ずっと!!死ぬまでずっと!!」
夢と幻を見るだけで実際の肉体は痛くも痒くもないのだからいいでしょう!と言わんばかりに叫んだ。
「それにあんな風に死なければならないなら、大事にしてもらえる所に渡してあげてよ。いやだよ。あんなの」
記憶に蓋をしていた数々の事件が蘇って悠里は苦しんだ。今は剥き出しの魂なので、辛いものがダイレクトに身体を攻撃し、憎しみは心を黒くする。
「…いいでしょう。その願いかなえましょう」
「え?」
また不安定に揺れはじめた悠里の身体が元に戻る。
「ふふ、久しぶりに私も世界にちょっとだけ触れる事にしますね。でもこのお願いは大分力を使います。5個で復讐を、5個で虐げられている子たちの救いを。願いを10個も使うけれどいいですか?」
そう言われた悠里は1秒も待たず返した。
「もちろん!」
「その子たちの行き先をどうするかは君の向こうでの働き次第だけど、その手筈は5個のうちに含むとしよう。全部を君が面倒みられる訳じゃないだろうからね」
悠里もいったい地球上でそれらが何匹になるか見当もつかなかったので、その提案はありがたかった。
「あの、そちらの世界について教えて頂いてもいいですか?」
残りの望みを言う上でどういう世界なのか知る事は重要だ。地球と同じような世界と、ファンタジーな剣と魔法の世界、星間戦争な未来世界、もしくは核の炎に包まれた後のモヒカンが跋扈し汚物は消毒だと暴れまわる様な世界では要求する物が違う。
「文化は地球の中世~近世位。科学のかわりに魔法が発達している世界だよ」
これはまたテンプレな異世界ものだと感心してしまった。中二病に罹患するには30年程時が過ぎてしまってはいるが、その世界にはほのかな憧れというものがあった。空想世界で見たような景色や、妖精やドラゴンをこの目で見られるかもしれない、そう思って尋ねる。
「魔物はいるんですか?」
「ゴブリン、トロール、ドライアド、地球で言う幻想生物が沢山いるね。人と敵対するもの、信仰するもの様々さ。政治的な状況は王侯貴族と平民が居る。それに冒険者と呼ばれ世界を回るも者がいるね」
大体の世界情報を教えてくれたが、概ね封建制度の様だ。それでは力は必要だと考える。強い魔法が使えねば安穏な生活は望めないかもしれない。それとこのまま、今の状態の肉体なのか、それも気になった。悠里は今年で46歳なのだ。この歳で異世界探訪はいささかキツイ。
「魔法があるなら、それが使えるようになりたいです」
まずは能力。魔法があれば今度こそ景虎を守れる。大切なものを守れる力。まずはそれが大事だと思った。
「うん、じゃぁまず魔力だね」
「あと、今の年齢じゃ、体力とかの心配があります。弱いと生きてくのは辛いです」
「それじゃ残り寿命分、若返らせてあげよう。まぁ本来の君の生き方で誤差は出るものだから、ざっと30年。若く強い体だね」
という事は異世界に渡ったら16歳だ。体も軽いし体力もある事だろう。
「景虎ちゃんも?」
「ああ、もちろん。これは景虎の権利でもあるから君の望みとは別だね」
「言葉や文字が解らないと困ります」
「言語能力ね」
ここで3つ。魔力。体。言語。
「あとは貴方が生きる上で楽しそうだと思うものを選びなさいな」
その言葉を聞いて、悠里は暫し考える。こことはまったく違う世界。文明は中世程。それを思うと現在の文化資産にもう二度と触れられないのは辛いと思った。
「そうですね…。私が今まで手に入れた財産は惜しいなぁ」
この願いは無理かな、と正直思っていた。それ程大した持ち物を持っている訳ではないが、それでもオーバーテクノロジーは混乱の元になるし、無駄に世界を狂わせるのも本意ではない。しかし娯楽もおそらく少ない中、今まで集めた蔵書は惜しかった。
「いいでしょう。貴方の築き上げた財産はコピーして向こうの世界に送りましょう。貴方の持ち物に危険物はないようですし、使用権限を貴方と貴方が心を許した者とすれば余計な波乱はおきないでしょうから」
その言葉を聞き、ダメ元でも言ってみるものだ。そう思った。
「あとは、そうだ、特殊能力なんてあったら良いかも」
思いついたのは小さい頃から集めていた本の内のひとつ。あれを媒体としたら面白いかもしれない。
「やぁ面白そうだね」
異世界の神様が悠里の願いを聞いて楽しそうに言った。
「あとは、ちょっとは綺麗になりたいかな。私ずっと地味だったから。せっかく生き直して異世界だもの、別人になってみたい」
向こうの人はどうやら目鼻立ちのくっきりした西洋風の人種が主らしいので、今の自分が行ったら逆に目立つか、おそろしく不細工という扱いになるのでは、と思ったのだ。
「平たい顔族と思われながら生きていくのは中々にしんどいわ」
「うーん、顔の美醜よりも心だとは思うけどね」
よく解らない、といった神の様子だった。まぁ、美しい者には美しくない者の気持ちは解らないだろう。それは心も顔面も両方に言えると悠里は思っていた。
「私、心も大して美しくないと思うけど」
苦笑いで悠里は言う。何せ復讐という選択肢を意地でも捨てなかったのだから。それを抜かしても自分がそれ程出来た人間だとは思っていない。
「ふふ…その復讐も自分の為ではないのですもの」
「うん、面白いよね。不安定に揺れて、でも醜くはないよ」
美しいとは言われなかったが、神様から見てもそれ程醜くないというのは上々の評価ではないだろうか。悠里は一点の曇りもなく美しい心を持つという事自体嘘っぽく思える。そのような完璧さはもう自我がないのではとすら思えるのだ。
「でもまぁ姿形を変えるのは気持ちも一転していいかもね、よし、その願いも叶えよう」
どんな見目になるかは向こうに着いてからのお楽しみの様だ。
「では残りはあとひとつですね。何にしますか?」
17個の内、10個で復讐と救済を。
1・魔力
2・肉体
3・言語
4・財産(過去地球で自分で手に入れたもの)
5・特殊能力
6・容姿
あとひとつ。
「あとひとつ…あと、ええと…」
ここで唸るほど悩みだす。
はっきり言って思いつかなかったのだ。悠里にしてみれば10個は別として7個も望みが叶うなんて破格の待遇だ。チートである。贅沢と言ってもいい。まあ言語に付いては渡る際のオプションでもいいのでは?とうっすら思うが今更だ。17回も刺された甲斐があったなどと訳の解らない思考にまで辿り着いている。
「ふふ…ではあと一つは向こうの世界で本当に困った時に一度だけ手を貸してあげましょう。これでどうですか?」
「え?え…いいんですか?こんなに貰っているのに」
むしろこれだけ貰って、向こうで困るってどんな目に合うの、とかこれだけの能力で解決出来ないとはどれだけポンコツ?と思うのだ。
「いいですよ」
「うん、それで。一度きりの神の奇跡だね。では、よい旅を」
「向こうで楽しく幸せにね」
「でも幸せになるのは君の心次第だよ」
そう言うと神々の体が徐々に輝きを増し、沢山の色が溢れて模様を織りなし、白いばかりだったこの場を染めていく。まるで友禅の反物や、色とりどりのステンドグラス、モザイクタイルが視界いっぱいに覆っていくようだった。
悠里はこんな美しいものを生まれて初めて見たと思った。
光で織りなす模様が粒子に変わっていき、舞う。
もっとずっと見ていたいと思うのに、眩しくてもう目を開けていられない。
ああ、なんて綺麗、と最後に呟いた。
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読んで下さりありがとうございます!
更新ペースは少々ゆっくり目ですが、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
昔あるとても酷い動物虐待のニュースを聞いて、思い出す度辛かった事がありまして。
付きまとって背後でずっとお経をとなえ、万一警察に捕まったら
「あいつにつきまとっているんじゃない。憑りついている霊を鎮める為に
ここに居るんだ」とか言い張って心神喪失で無罪を勝ち取ってやるか、
「死んだら悪霊になって犯人に憑りついて死んだ方がマシ」と思えるくらいの
辛さを与えてやりたいと頭のイカレタ事をずっと考えてた事を思い出して
生まれた小説です…。
そんなヤバめなネタで生まれたモノですが、励みになりますので★など押して頂けると嬉しいです!