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この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編百合シリーズ1 彼岸の町

作者: 栗谷

 肌の痺れるような冷気に目を覚ました。

 ぼろ家の隙間から容赦なく入り込んでくるそれに、私は「くそう」と呻いて布団の中から這い出てゆく。点けっぱなしにしていたテレビでは、今朝この町の誰かが走る電車に飛び込んで死んだことをキャスターが淡々と報じていて、いまが早朝ではないことに気づく。スマホを見ると、時刻はとっくに朝の十時を回っていた。

 大寝坊である。本来であれば、六時には駅前に着いていて、日雇い先の出した送迎車に乗り込んでおかなければならなかった。もはや数える気にもなれないほどの着信履歴の件数に、私はむしろ冷めたような気分になって、もうどうにでもなれと再び布団を頭に被った。


「朝弱いんだね、相変わらず」


 ――と、甲高い声が布団の上から降ってくる。


「顔、真っ白だったよ。笑える」


 ケラケラと笑うそいつの声が、寝起きの頭に響いて痛い。私はうるせえ、とぼやいて、小さくため息を漏らすと、ああクソ、と再び呻いた。


「夢じゃなかった。やっぱり……」


「夢? なにが?」


「お前のことだよっ!」


 がばりと身を起こす。目の前のそいつを睨みつけ、「なんでお前がここにいるんだよ、日高!」と大きく声を張り上げた。


「なんでって。だからあれだよ、あれ」


 そいつ――日高が窓の外を指し示す。いや、正確には空か。私は言う。


「それはわかってんだよ。そうじゃねえって。私が聞いてんのは――」


「てか寝癖。篠倉さあ、そういうの、少しくらい気ぃ遣ったら?」


「いや、だから――」


 ああ、もう。相変わらずと言うのなら、お前だってそうじゃないか。


「お前ほんと、なに考えてんのかわかんねえ……」


 思わず項垂れてしまう。私は、自分が寝ぼけているわけではないことを確かめるように、日高のことを改めて見やった。その姿ははっきりと、確かにそこに存在していて、幻ではないのだという現実を知る。

 日高英子。つい昨日、久々に再会した友人にして、「人助けクラブ」とかいう安直な名前の部――ただし非公認の――で、一緒に活動していた元部活仲間。

 やけに高くてうるさい声で話すのも、ムカつくくらいにマイペースなのも、当時となにも変わっていない。なにもかもがあの頃のままだ。

唯一変わった点を上げるなら、それは日高が、もう生きてはいないということくらいか。

 つまるところ、いまのこいつは、いわゆる幽霊というやつだった。


 日高が死んだのは、二年前――私がフリーターなどではなく、まだ高校生という立派な肩書きを持っていた頃の話だ。

 死因は自殺。それはいい。若者の自殺なんて、いまどき珍しくもなんともない。問題はその動機だった。


 ――『毎日めちゃくちゃ楽しいので死にます』


 遺書にあったのはそれだけだ。本当にそれだけ書いて、日高は屋上からの大ジャンプを決行した。享年十八歳。卒業を間近に控えての死であった。

 そんな日高の死を受けて、私の頭にまず浮かんできた言葉は、悲しいとか、どうしてとかじゃなく、「こいつアホなのか?」だった。

 だって、なんだよその遺書は。なんにも分からないじゃないか。国語の成績が悪い小学生だってもう少しマシなものを書く。私は納得できなかった。

 だがいくら調べてみても、それらしい情報はまったく出てこなかった。クラスメイトや教師はみんな、「日高は自殺とはほど遠いところにいた人間だ」と、口を揃えてそう言った。

 明るい人気者で、成績もよくて、呆れてしまうくらい能天気で――遺族ですら、そんなことしか答えることができなかった。つまり日高が遺して逝ったのは、正真正銘、たった一行にも満たない言葉のみだったわけである。


 私にとって、日高との思い出はトラウマだ。

 三月上旬。久々の登校となった、卒業式の練習日。

 遅刻をして昼前に校門をくぐった私は、偶然、校舎の屋上に立つ人影に気がついた。遙か頭上で風になびく、彼女の茶色がかった髪の毛が、はっきりとその存在を主張していたのをよく覚えている。

 なにしてるんだ危ないだろ。そう叫ぼうと口を開いた、次の瞬間、その人影は宙を舞った。

 間もなく響きわたった衝撃音が、閑静な町の空気を切り裂いた。その衝撃に怯んで尻餅をついた私の眼前には、弾けて潰れた日高の死体と、彼女がいつかふざけて買った、マリモをモデルにした間抜けな面のキャラクターストラップが転がっていた。


 ――で。そうやって死んだはずの日高と、冗談のような再会を果たしたのが昨日のこと。

 日高はとつぜん、布団に寝転んでいた私の枕元に現われた。とっくに卒業した高校の制服を身に纏い、久しぶり、なんて言いつつ。へらへらと軽い笑みを浮かべながら。

 そのときは、寝ぼけているのだと自分に言い聞かせ、無視をして眠ったものだったが――。


「なんなんだよ、お前はさ」


 布団の上にあぐらをかいた私は、頭痛に近いものを感じて額を押さえた。


「なんなんだよ、いまさら――」


「わたしだって、すぐに会おうとはしたんだよ」


 日高が弁解するよう続けた。


「でも、探すの手間取っちゃって。ウチの家族みたいに、町から出ていっちゃったかもって思ってたし」


「そういうことじゃないんだって、だから。わかんねえのかよ」


 会えて嬉しくない、わけもない。――でも、会いたくなかった。


「成仏してろよな、大人しく……」


「誰に言ってんの」


 大人しくなんてできるわけないじゃん。そう言って、日高はまた笑った。本当によく笑うやつである。生前からそうだった。笑い袋でも腹に仕込んでいるんじゃなかろうかと、出会ってばかりのころは割と本気で疑っていたものだ。


「なんなんだよって言われてもさ。会いに来ただけだから」


 窓のほうに近づいた日高が、頭上をまっすぐに見据えて、言った。

私も立ち上がり、窓を開け放って空を見上げる。

 目を細める。陽が眩しい。日高のように見据えることはできなかった。

 私の日常を象徴するかのように平凡で退屈な町。その真上の、吸い込まれそうなほどに透き通った青空のど真ん中に、大きくて真っ暗な穴が穿たれている。

 日高と再会するはめになったのは、あの穴のせいだった。


「帰れよ、お前」


 自然と、そんな言葉が口をついた。意識しないまでも、語気はわずかに荒くなっていた。


「なにが会いに来ただよ。知らねえよ」


「ずいぶん冷たいじゃない」  


「お前は」


 悩みを抱えている方はケアセンターにぜひ相談を――と。自殺の報道を終えたキャスターの話す声がテレビから聞こえてきた。私は続けた。


「お前は、自分から死んだんだ」


「消しなよテレビ。電気代もったいない」


 窓際からぱっと離れ、日高は部屋の中央に移動した。そして、テレビ画面を眺めながら、

「帰れる場所なんてないんだ」――とつぶやいた。


「日高、私は別に」


「じゃあさ、付き合ってよ。今日一日だけでもいいから。そうしたら、お望み通り……明日にでも出ていくからさ」


 別にお前を嫌ってるわけじゃない。そう言おうとしたのだが、日高は私の言葉を遮って、勝手に話を進めていった。そういうやつなのである。慣れっこだ。文句を言っても仕方がないので、「付き合うってなにに」と聞き返した。

すると日高は「決まってるじゃん」とはずむような声で言い、


「遊ぼうよ、また。昔みたいに」


 およそ死人とは思えない溌剌とした表情で、そんなことを口にした。


                        □


 高校に入学してばかりのころ、私はかなり荒れていた。

 中学のときに親との関係を拗らせて、けっきょく修復できなかった。それが辛くて、ちょっとしたことで苛立っては、行き場のない鬱憤を周囲の人間に向けていた。

 いま思えば下らない理由だが、当時はそれなりに切実だったのだと思う。しかし周囲からすれば、そんな事情はまったく関係がないわけで。非行にこそ走らなかったものの、教師からは白い目で見られ、当然のように、クラスでもあっという間に孤立した。

 そういう人間がどこで昼食を済ますかと言えば、それは人気のない空き教室だ。ある日、そこでいつものようにパンを囓っていると、「ひとりで食べておいしいの?」と声をかけてきた女がいた。日高だった。彼女は、「埃の味しかしなさそう」なんて嫌味を、無視をした私の耳からイヤホンを勝手に取り上げるという手間を掛けてまで口にした。

 当時、日高とは別々のクラスであったが、それでも私は彼女のことを知っていた。有名だったからだ。入学してから、たかだか一、二ヶ月の段階で、すでに日高は人気者――孤立してるヤツにさえ知られてるのだから相当だ――というものになっていた。


「もっと良い場所、紹介しようか」


 返せよと睨みつけた私に対し、日高は飄々とした様子で天井を指さしそう言った。怪訝に思い、私は「はあ?」と首をかしげた。ここは最上階で、上には屋上しかないからだ。


「持ってるの、これ」


 日高がポケットから屋上の鍵を取り出し、私の前にぶら下げた。「どうしたんだよ」と尋ねると、「拾ったんだよね。返してないの」とすんなり答えた。


「高いところが好きなんだ」


 馬鹿なんだなと思った。頭も人当たりも良い善人で、教師陣からの信頼も得はじめている。欠点らしい欠点をあげるとするなら、それは運動が苦手なくらい。噂ではそう聞いていた。

とんだ嘘つきである。


「いいじゃん。ほら来なよ」


 なにが「いいじゃん」なのかわからなかったので無視しようとしたのだが、日高はそんな私の腕を無理やり取って引っ張った。目的が読めない。振り払ったが、なんだか圧倒されてしまい――引き返すのも逃げたみたいでいやだったから――結局付いていくことにした。

 屋上に出る。低い柵に囲まれていて、風が強い。

 日高はその中心に立った。伸びをしながら、「天気いいね」と晴れやかに笑う。柵に背中を預けた私は、「それでなんの用なんだ」とぶっきらぼうに尋ねた。日高は言った。


「あんた暇人でしょ」


「は?」


「暇も体力も持てあましてる。退屈してるんだ。それも死ぬほど」


 ――退屈。確かにそうだ。毎日つまらなくて、からっぽだ。


「わたしも同じ」


 どうせなら楽しい高校生活にしたいんだ、と日高は続けた。


「でさ。さっそくだけど、人助けに興味ない?」


「ない。……なんかの勧誘?」


「実はね、こないだボランティア部の顧問に誘われて、活動を手伝ったんだけど、それが結構楽しくて。人にお礼言われると、めっちゃ気持ちいいんだよ。……ただ、思ったより部員の数が多くてさ。わたし、団体行動って苦手だから。テキトーな理由つけて、途中で抜けた」


「明け透けだな。人当たりが良いって聞いてたけど。いまんとこヤなやつとしか思えん」


「その点、孤立してる人の相手って楽でいいよ。素で接しても問題ないし」


「いやなやつだな」


「だからさ、もう自分でクラブ作っちゃおって思ったわけね。その名も人助けクラブ。シンプルでいいでしょ。ここ最近はね、その相棒探しに必死なの。――そういうわけでどう? あんた、わたしと一緒にやる気ない?」


「やっぱ馬鹿だろお前」


「勉強できるよ?」


「人助けにもお前にも興味ない。やるわけねえだろ馬鹿」


一口か二口ぶん残っていたパンを喉に押し込む。屋上の出口に向かいながら、言った。


「友達でも誘えよ。いるんだろ、たくさん」


「まあね。でもたくさんいすぎて誰が誰だかわかんない。――ねえ篠倉さん」


 名前を呼ばれる。名乗った覚えはなかったので、驚いた。


「約束してもいい。わたしと一緒に来れば、あんたの毎日、絶対に楽しくなる。――だから一緒にやろう。ぶっ壊そうよ、わたしたちの退屈」


 ――それは。その誘い文句は。

 少なくとも、そのときの私にとって、どうしようもなく魅力的に聞こえたのだ。


 夕方。幽霊になった日高と一緒に、上着を羽織って外廊下に出ると、想像以上の温度の低さに一瞬で肌が粟立った。吐く息は白く染まっている。暦の上ではもう春だが、まだまだ冬の名残がある。その寒さは外の匂いを心なしか濃くしていて、冷えた風が、匂いを乗せて運んでくる。――冬の残り香だ。私はこの匂いが苦手だった。血生臭い気がするからだ。

 肩ほどしか幅のない階段を一段ずつ下っていく。日高はその真横を、ふわふわと浮かびながらついてきた。幽霊は重力を無視できる。人間界の法則の、その影響下に置かれないのだ。空に穴のあいたその日から、新たな常識となった事実である。

 そんな日高の格好は変わらず制服のままであったが、暑さも寒さも感じないので特に問題はないらしい。そもそも着換えられないのだそうだ。楽そうで羨ましい限りである。


「そうでもないよ。ずっと同じ格好でしかいられないの、けっこう辛い。もっと着飾りたい」


「死に装束でも着てろ」


 格好と言えば。ふと気になって、尋ねる。


「お前、なんで怪我してないんだ。体、綺麗なままじゃないか。死体は、もっと……」


「ああ……。意識すれば、自分にとって一番馴染みの深い形でいられるんだよ。それが五体満足なら、そうなるわけ。ほら、あのままじゃ、頭潰れちゃって前見えないし」


 なるほどね、とうなずいた。どうりで酷い姿をした幽霊は見かけないわけである。

 みんないやなんだろう、やっぱり。いくら死人でも、そこらへんの感覚は変わらないか。


「それにしても――」


 階段を下りきったところで、日高がアパートを一瞥して言った。


「ここ、ホントに人の住むトコなの? ちょっと大きめの物置じゃん」


 なんてこと言うんだお前はと、私もまた、アパートのほうを振り返る。


「こちとら、その物置に二年住んでるんだ」


 高校を卒業すると同時に移り住んだ。実家に帰るという母についていく気になれず、ひとり暮らしを選んだのだ。そんな私にとって、格安で借りられるこの物件は手頃だった。

 オンボロなのは本当だが、長く住んでいれば愛着も湧いてくる。嫌みのひとつでもくれてやりたいところだったが、どうせ流されるだけなので諦めた。私はこいつに口で勝てた試しがない――それは、勝負すらさせてもらえないという意味ではあるのだが。


「篠倉さん、こんにちは」


 と、そのときである。背後から誰かに呼びかけられる。


「おお、カナコ」


 そこにいたのは、一階の部屋に住む高校生、カナコだった。ちょうど帰宅してきたところだったのだろう。考えてみれば、学校帰りの子たちが町に溢れるような時間帯である。

学校どうだった、と何気なく尋ねてみる。カナコは「大丈夫でしたよ」と薄く笑った。


「えっと、その人は……」カナコが日高を遠慮がちに伺う。「――幽霊?」


「そうだよ。高校のころの連れでさ。……分かってると思うけど、害はないから。怖がんないでやって」


 私の言葉に、カナコは「はあ」とうなずいた。そんな彼女に、日高がにこりと微笑みかけて軽く会釈をする。幽霊に反応を返されたということでカナコは多少なりとも驚いたようだったが、幼い顔立ちの日高が作る余所行きの笑顔には、相手の警戒心を解く効果があった。


「なんだか、変わってますね。幽霊ってあんまり見かけないけど、みんなもっと、暗い感じなのに……」


 かなり人見知りをするほうのカナコが、どこかぎこちないながらも日高に自分から話しかける。幽霊ライフだって楽しまなくちゃ損だよ――なんて、矛盾したことを日高は答えた。


「実際けっこう楽しいよ。学校も試験もなんにもないし。こうやって、友達にも会えるしさ」

 

「キタロー?」と私が訊くと、「幽霊ジョークね」と日高は答えた。


 ジョークになっていない。そも笑えなかった。しかし、素直なカナコはくすりと笑みをこぼす。それから彼女は、「幽霊って、少し羨ましい」と。そんなことをつぶやいた。


「カナコ、それは」


「あっ……いえ、そういうことじゃないんです。ごめんなさい」


 慌てたようにかぶりをふる。続けて、「もう大丈夫ですから――」と、私に向かって言った。

それじゃあ、と会釈を返して、カナコが自分の部屋に帰っていく。


「あんな大人しそうな子と知り合いなんだ。しかも年下」


 その背中を見送りつつ、日高が言った。


「まあ……同じトコに住んでるよしみでな。あの子、お母さんと二人で暮らしてんだけど、そのお母さんに何度か、おかずとか、わけてもらったことあって」


「あんまりみすぼらしいもんだから、同情してくれたんだろうね。きっと……」


「それでお返しとかしてたら、たまに家に招かれるようになったんだ」


 歩道に出る。「カナコはさ」と、歩きながら続けた。


「いっつも暗い顔してて。死にたいとか、漏らすこともあって……心配だったんだけど。ここ最近は少し明るくなったんだ。運良く友達ができたんです、って――やっぱ暗いか。でも、よかったよ」


 ふうん、と興味なさそうに日高が相づちを打つ。「ていうかさ」と私は話を切り替えた。


「お前、遊ぶって言ったって、外出てどうすんだよ。なにもできないくせに」


 幽霊はモノに接触することができない。壁は通り抜けるし、当然、人と触れあうことも不可能だ。だからしばらくは、部屋のなかで喋り合っていただけだったのだが。

 日高は「だから言ったじゃん」と、その丸っこい、大きな目で私を見据えた。


「出歩くだけでいいんだって。一緒に町、見て回れればいいんだよ、篠倉と」


 その視線から逃れるようにして、私は「そうかよ」と顔を逸らした。

 それから、二人で町中を徘徊していく。ふと視線を感じ、道路を挟んだ向かいにある廃ビルの窓に目をやると、物珍しそうにこちらを覗き見ている人影と目があった。


「幽霊だな、あれ」

 

 ――大した感慨もなくつぶやく。私達を覗いていた幽霊は、目が合うや否や、奥の方へと引っ込んでいってしまった。

 それにしても、幽霊なんて。たかだか半年前までは微塵も信じていなかったはずなのに、いまとなっては当たり前のように受け入れてしまっているのだから変な感じだ。

 受け入れていると言えば、この目の前に広がる異様な光景もだ。あらゆるところに彼岸花が咲いている。幽霊と同じで、触れることすらできない花に、辺り一面が覆い尽くされてしまっている。ただでさえ不気味なほどに赤く不吉なように思えるのに、こうも咲き乱れるとより一層不気味であるが――やはり幽霊と同じで、もはや見慣れたものであった。


 空に穴があいたのが、半年前の秋のこと。

 町中で彼岸花と幽霊が見つかるようになったのは、その日からのことであった。

 私の住む町、夜見岸町。その真上の、雲より少しだけ低い位置にあいた真円状の穴。「あの世」へと繋がるゲートであると目されたその穴は、この町に――ひいては世界に、一時期大混乱をもたらした。中でも問題となったのは、幽霊の存在が公的に認められたことによる自殺の増加であった。死後も意識が保てると考えた者たちが、世界中で、次から次へと死んでいったのである。


 とはいえ、それもいまや昔の話だ。「死んだところで大半の人間は幽霊になれない」ということが徐々に認知されていくと、自殺者の数は自然と抑えられていった。成仏した場合に行くと考えられた穴の奧が、いったいどんな場所なのか、結局誰にも分からなかったからだ。

 それに伴うようにして、混乱もまた収まっていった。幽霊はこの町でしか見ることができないし、先も言ったとおり、ほとんどの死者は成仏してしまうから、そもそもの人数が非常に少ないのだ。人々が幽霊を問題扱いしなくなるのも、当然と言えば当然だった。そして、半年も経った現在に至っては、「異様」もただの日常に変わり、当初の熱も過ぎ去って、夜見岸町はまた以前までのような寂れた町に戻っていた。穴そのものは、いまだに興味の対象となっていても。私はこの町を、静かでつまらないものだとしか思えなかった。

 しかし――。そうは思いながらも、私はいまだに、未練がましくこの町に留まっている。いかにも特別で、非日常の象徴みたいな空の穴。それがいつか、この下らない毎日を面白くしてくれるのではないかと期待して、そうして結局、身動きが取れないままでいるのである。


 日高がいなくなったその日から、私は灰色の日常を生きていた。

 色彩を欠いた世界はとにかく退屈で、つまらなくて仕方がない。時折、過去の自分が憎たらしくて堪らなくなる。輝いていたころの私が、今の私に影を落としているかのようで辟易する。要は不完全燃焼なのだろう。だから、何かがしたいとは思うし、出来るはずだとも思っている。――それなのに、やる気がどうにも湧いてこない。

 私は、燻り続けている今の自分というやつに、大きな不満を抱えていた。


「篠倉、アレ見て」


 と、遠くのほうに視線を向けていた日高が、ふと話しかけてきた。これまでとほとんどトーンの変わらない、のんびりとした口調であった。

「なんだよ」と言いながら、私はその視線を追った。あれは――デパートの屋上か。

 そして、日高の様子から、どうせ下らないものだろうと考えていた私は、その光景に驚いて息を呑む。

 ――刃物を持った女が、いまにも身をのりださんと、柵に体を預けていた。

 高さもあってよく見えないが、その女の背後には、何人かの男が集まっているのがわかる。彼らはなだめるような口調で女に語りかけているが、女はそんな彼らに刃物を向け、裏返った声でなにやら怒鳴り散らしていた。

「やばいね」と、日高が落ち着き払った声で言う。

 やばいね、じゃないだろう――私は屋上を注視する。女はぼろぼろと泣いていた。

 嗚咽の混じった彼女の怒鳴り声は、言葉になっていなかった。なにを喋っているのか、ほとんどは分からない。けれど、辛うじて聞き取れる部分もあるにはあった。

 ――私はもう死にたいの、ほっといて――

 ふざけんな、と独りごちた。

 私はデパートの側面に回った。そこには、点検用のものだろう、雨風で汚れた梯子があった。ちゃんと屋上にまで続いていて、昇れば女の真横に出ることができると思われた。


「よし。おい日高、お前、浮けんだから、ちょっと行って、あの女の注意引いといて」


「なに。まさか助けようって?」


 馬鹿じゃないのと日高は笑った。


「それ篠倉のやることじゃないでしょ。危ないよ」


「いいから。幽霊のおはこだろ、驚かすの」


「余計なことするなって言ってるの。もう警察だって、誰かがとっくに呼んでるだろうし。邪魔なだけだよ。逆に迷惑かも」


「だから、いいんだよそんなの。どうでもいい」


 梯子はしかし、事故防止のためか、台がなければ手の届きそうにない位置に設置されていた。だが、これくらいならなんとかなる。私は軽く助走をつけて大股で走り、一歩、二歩と壁を蹴った。腕を伸ばし、段の一番下になんとか両手でしがみつく。

 そのまま、足を掛けられるようになるまで、腕力だけで昇っていった。


「ちょっと、やめなよ――」


「日高」梯子から日高を見下ろす。そして私はこう言った。「任せた」


 これだけでいい。この一言だけでいいのだ。こいつを乗り気にさせるには。

 日高はふわりと宙に浮き、私の横にまでやってきた。呆れたような態度で、なにか嫌みでも言おうとしたのだろう、「あのさ」と口を半開きにする。だが、次には諦めたように肩を落とすと、「まあいいや」と開き直ったみたいに顔をあげた。


「ここまで付き合ってもらったわけだしね。それに――正直ちょっと、楽しそうだし」


「……不謹慎なやつだよ、お前は」


「怪我だけはしないでよね」


 言い残すと、日高は屋上に向かっていった。その姿を見送ると、私は梯子を昇り始めた。

 女の悲鳴と、ざわつく男たちの声が聞こえてきたのは、その直後のことであった。言うまでもなく日高の仕業だ。一体なにをしたんだと、屋上に頭だけをひょっこりと覗かせた。

そして――私は「そうだよな」と納得する。注目を引くにも、自殺を躊躇させるにも、たぶん、そうやるのが一番なんだ。そしてお前は、そういうことを、平気でやれるやつだった。

 日高は潰れていた。

 校舎から飛び降り、アスファルトの上に叩きつけられ、綺麗な黄色に彩られていたはずのネイルも赤黒く染まり、とかく無惨な姿となったその身体を、私達よりさらに空に近い場所で、なにをするでもなく静止させている。

 女は固まっていた。その宙に浮かぶ死体に恐れをなして、ただ青ざめている。しかし次には、正気を失ったかのごとく悲鳴を上げ、逃げるように柵を乗り越えようとした。

 私はすぐさま屋上に降り立つと、女に飛びかかって、握られていたカッターを取り上げた。生傷とかさぶただらけの腕を掴んで背中に回し、押し倒すと、頭を押さえつけて、日高の姿を見せつけるようにする。


「ああなりたいかよ!」

 あんなに醜くて、哀れな。

「本当に、あんなふうになりたいか!?」


 日高。お前は、いまの自分のその姿を、どうとも思ってないんだろう。だからそうやって、躊躇なく他人に見せつけられる。自分の死に様に、なんの後悔も抱いていないんだ。

 私はそれを、どうしようもなく悲しいと思うよ。

 でもそれも、一人相撲でしかないんだろうか。

 男たちが、女をデパート内へと連れ戻していく。二人きりになると、日高はすぐに元の状態へと体を戻した。


「よかったね、なんとかなって」


口角をつり上げる。

沈みかけの太陽と、赤く染まりつつある町並みを背に、日高は愉快そうに微笑んだ。


                       □


 無茶をしたせいだろう。今さらになって痛み出した両腕に、私は悲鳴に近い声をあげた。

随分と衰えたものである。小二から中三の夏ごろまではずっと運動部に入っていたし、高校に入ってからだって、「人助けクラブ」の活動に入れ込んでいたわけで、体力には自信のあったものだったが。


「二年前の話でしょ。衰えるよ、そりゃ」


 日高が公園の中を進みながら言った。

 あのあと、もう帰ろうと提案した私だったが、日高はもうちょっとだけ、とうなずかなかった。そうして連れてこられたのが、この、町で一番大きな公園だったわけである。散歩コースや、屋根のついたベンチなんかもあって、休憩がてらに寄るには悪くない場所だった。


「懐かしいでしょ、それに」


 辺りをぐるりと見渡して、日高が薄く目を細める。――そうだった。この公園は通学路に面していて、そばの店で買った総菜なんかを手にしては、よく二人で立ち寄ったものだった。

 反対側にある出口から左にまっすぐ進めば、そのまま学校にたどり着く。これ以上先には行きたくないと私は思う。ここ数年、学校の近くに寄るのは避けていた。

日高にはたぶん、そんな私の気持ちなどわからない。


「……あの人、死なないでいてくれるかな」


 ベンチに腰掛け、ぼやいてみる。日高は、大丈夫だと思うよと応えた。


「たぶん、寂しかっただけなんじゃないのかな。わざわざカッターなんて持ち出したりして、目立とうとしてた。誰かに止めて貰いたかったんだ」


「……さすがだ。経験者は着眼点が違う」


「篠倉、なんか怒ってる?」


「怒ってない。ないけど――」


「ないけど、引っかかってる」


 言葉を先取りされた。


「さっきのこと、篠倉がどう思ったかくらいわかるよ。そこまで無神経じゃない。死体なんて気持ち悪いよね。あれくらいやんなきゃ、目を引くことなんてできないって思ったから」


ああ、とうなずく。善意からの行動だったのだろうということは理解していた。日高は捻くれてこそいるが、邪悪なやつでは決してない。ただ、根本的なところで致命的にズレている。なまじ賢いばっかりに、表面的には他人を慮れてしまう彼女は、だからそのズレを半分自覚しながら――私がいくら指摘しても――気にとめようとはしなかった。


「……やっぱり、幽霊の影響もあるんだろうな」


 なんとなしに言う。「幽霊になりたい」と死を選ぶ人間は減ったかもしれない。けれど、その存在によって、未知でしかなかった死への恐怖が僅かながらに薄れている空気が、いまの人間界にあるのは確かだった。私は日高のほうを見ずに、「お前らは、こっちに来るべきじゃなかったんだ」と声を落とした。そして小さく、「お前はここにいるべきじゃないよ」と付け足す。そんな私に対し、「……来たってわけじゃないよ、篠倉」と日高は答えた。


「わたしもよくわかってないけどさ。この町のほうが、幽霊の――わたしたちのもと居た場所に近づいてきたんじゃないのかな。わたしはそういう認識だったけど」


「もと居た場所?」


「わたし、二年間ずっとこの町にいたわけじゃないんだよ。川岸にいた。その川の向こうに穴があって、でも私は動けなかった。この町が岸に繋がってきたのが、だから半年前なんだ」


 篠倉見つけるのに半年もかかっちゃった――とつぶやく。


「でも、諦めなかったよ。会いたかったからさ、本当に」


 日高が珍しく、真面目な声色で言った。


「じゃあ最初から死んでんなよっ」


 ――そんな日高に対し、私はつい、反射的に喉を震わせた。

 そうしてから、はっとする。あたりをきょろきょろと見回すが、人影がまばらなのもあって、すぐそばにいた日高に以外は聞こえていなかったようだった。

 強い風が吹く。直立したままの彼岸花とは対象的に、その下に埋もれている雑草はざあざあと揺らめいた。ふと、その風に、子どもの声が運ばれてきていることに気がつく。声の聞こえてきたほうに目を向けると、木の上で泣いている子どもの姿が見つかった。

 登ったはいいが、降りられなくなったのだろう。怖がって、一人でさめざめ泣いている。


「友達に置いてかれたのか」


 しょうがないな、と立ち上がる。


「行ってくるよ」


「……ほんとお人好しだよね。あんたって」


 日高がため息交じりに言った。


「やっぱり、ぜんぜん変わってない」


 そうかもな、と答える。小走りで木に向かおうとする。だがそこを、「わたしも行くから」と引き止められた。


「よせよ。幽霊なんか、出てってもびびらせるだけだろ」


「それこっちの台詞。あんたみたいな柄の悪い女に向かってこられても、子どもは怯えるだけだから。――わたしがなだめてくる。いまにも落ちちゃいそうだし」


 日高が飛んで向かっていく。「おいちょっと」と追いかけた。


「大丈夫だって。わたし、子ども好きだし、好かれるし」


「性格悪いくせにな」


「取り繕うのが上手なの。子ども、鋭いけど、見抜かれたことないよ」


「わかったよ――じゃあ、任せた」


 こくりと頷きを返される。それから、日高は驚くほど簡単に子どもを泣き止ませてみせた。

幽霊のくせに明るい、優しげな顔をして、すでに懐かれはじめてさえいる。

 一方で私はと言うと、いざ対面すると、子どもにどう接したらいいものかわからず、ぎこちない態度になってしまって、どうしようもなく怖がられてしまった。仕方がなく、半ば無理やり抱きかかえると、木から飛び降りて着地した。


「あんた、不器用すぎ」


「お前が器用すぎるんだ。……つっても貧乏だけどな。器用貧乏」


 私の軽口に、日高は顔を軽くしかめた。でも、事実そうだろう。

 大成せず、中途半端に。

 お前の人生は、終わったのだから。


                        □


 時間が時間だったので、子どもは家まで送り届けた。そうして住宅街を出ると、私達も帰路に着く。空はもう真っ暗だった。

 寂れたビルの立ち並ぶ表通り。そこを歩きながら、私はふと話し始めた。


「デパートのことはとにかく……。こういうことしてると、クラブのこと思い出すよ」 


「そうだね」


 日高も同意する。

 日高と初めて会った日のことを、私は想起した。屋上での一件以来、しつこく続いた勧誘に、私が折れるのは時間の問題だった。高一の夏休みが明けるには、二人で一緒に、いくつもの「人助け」をこなしていた。日高が頭を使って、私が行動する。日高が安楽椅子探偵じみた真似をして、依頼人の落とし物の場所を推測し、私は私で、スタントマンみたいなことをして、それを拾ったなんてこともあった。他に印象的なところでは、「タマちゃん事件」が上げられるか。金持ちの家から逃げ出したペットの猫――オシャレな名前がついていたが、覚えづらいと日高が勝手にタマちゃん呼ばわりした――を捕まえるために、二人で協力したのだ。報奨金も出るというから、日高は特に張り切っていた。


 タマちゃんは日本ではまず見かけないような猫種だったので、誰かがSNSに写真をアップするだろうと踏んだ日高がネットに張り付き、複数の写真から、行動範囲などを含めたおおよその居場所を把握。私が地道に聞き込みをし、そうしてなんとか保護に成功した。

 そんなふうに、色々なことをやってきた。奔放な日高に振りまわされつつ、こちらから引っ張ることもあったりして――振り返れば、本当に充実した日々であった。

 いつか、日高に尋ねたことがある。どうしてあの日、空き教室で私に声をかけたのか。

 日高はこう答えた――波長が合うなと思ったから。

 テキトーなヤツだなと笑ってしまった。それに実際、嘘だった。


「お前、なんで死んだの」


 昔っから意味わかんねえんだよお前はさ――。

 立ち止まる。私は小石を軽く蹴り飛ばして、さすがに笑えなかったよとつぶやいた。

三年生になって、卒業が近づいてきて、それでも私達は一緒だった。クラブだって、どうせ非公式だからと、活動の頻度を減らしこそすれ、引退なんてことはしなかった。だからだろう、これからもずっと、二人の関係は続いていくものだと当たり前のように思っていた。私達のやってきたことは、そのままぜんぶ、綺麗な思い出となってくれるのだと信じていた。

 と、昔のことを考えていたせいだろう。また別の、三年生のころの記憶がふと蘇ってくる。


「あんたの言うように、わたしって変わってるし、たぶんどっか、ズレてるんだろうけど」


 昼休みの、三階の空き教室。窓を覗き込み、校庭に散っている豆粒みたいな生徒たちを文字どおり見下しながら、日高は言った。


「でも、それって個性だから。その他大勢とは違うってことね」


 そして、自身の黄色いネイルを気に掛けるようにしながら、続けた。

 いきなり何を言い出すのだろう、と不思議に思った。食べ終えたパンの袋を手で弄びながら「なんの話?」と尋ねると、日高は当然のようにこう答えた。


「わたしが特別って話」


 私はへっと鼻を鳴らした。


「特別、馬鹿なんだろ」


だが、日高はあくまで真面目な顔を崩さず、言葉を返してきた。「あんたもだよ。あんたも特別。わたしたち、二人で特別だった」――私は少し照れくさくなって、うつむいた。


「……卒業したら、東京か」


 ぽつり、つぶやく。


「田舎もんがあんま調子乗ってたら、鼻へし折られるぞ」


「それ偏見だから」


 やり返しのつもりなのだろう、日高もまた、小馬鹿にするように鼻を鳴らす。

 それから、ふっと笑って――


「たまには遊びに来てよね。どうせ暇でしょ、無職なんだから」


 私は「ああ」とうなずいた。約束ね、と日高はやわらかく微笑んだ。日高が例の遺書を遺して自殺したのは、それから間もなくのことだった。

 なんで死んだんだよ――。

もう一度、言葉を落とす。自分でも驚いてしまうくらい、低くて暗い声だった。


「楽しかったからだって。書いたじゃない、遺書」


「わかんねえよ、あんなんじゃ。もっとちゃんと、言葉にしてくんないと」


「そっか、伝わってなかったか」


 あんたなら分かってくれると思ってた、とぼやく。「わたしはさ」とゆっくりと口を開く。そうして、日高はなにかを言いかけた――

 ――だが。その言葉は、唐突に鳴り響いた衝撃音によって遮られる。

 なにかが破裂したかのような――聞き覚えのある音であった。一度聞いてしまってから、耳について離れないあの音が。あれが再び間近で響いた。

 音源は間近も間近。すぐ目の前である。真横にあるマンションから落下してきた、同じ制服を纏った少女たち。――その三人の体が、私の一歩先で、たった今ぐちゃりとひしゃげた。

 ひとりは全身が地面にへばりついている。ひとりは手足がおかしな方向に曲がっている。ひとりは脇腹から内臓がこぼれている。全員に共通しているのは、頭部が原型を留めていないということだ。――確認するまでもない。三人とも即死だった。

 少女たちから流れ出る血が、足元を濡らしていく。

 呼吸が荒くなる。体が震える。漂う悪臭に吐き気がして、立っていられずにしゃがみ込む。


「なんで、こんな……っ」


 口元を手で覆う。なんで死ぬ――つぶやいた言葉は掠れていた。

この少女たちに、どんな事情があったのかなんてわからない。けれどひとつだけはっきりしていることは、この三人が固い絆で結ばれていたということだ。

 見ればわかる。なぜなら全員、手をつないでいるのである。死んだあとも、がっちり掴んで放していない。


「なんでだよっ! なんでっ……!」


 そうやって、繋がれる相手がちゃんといるのに。

 地面を拳で殴りつける。ばしゃり、と血がはねた。堪えきれずに胃の中のものを戻す。臓物の上に、胃液と涙がしたたり落ちた。


「わたし、なんとなくわかるよ」


 そんなとき、日高が言った。


「この子たちはきっと、いまある時間を、すごく大切に思ってたんだ」


「大切に思ってんなら死なねえだろ!」


 ぐ、と瞼に力を込めて涙を止める。喉元にまでせり上がってきていた残りの胃液を呑み込んで、無理やりにでも立ち上がる。日高のほうには目を向けず、死体に目を落としながら私は言った。


「死んだらぜんぶ終わりだ……っ」


「終わらないよ」


 日高が落ち着いた声で即答した。そして、私と同じく死体を見る。


「死んだって続いていくものはあるよ。気持ちとか。わたしと篠倉だって、互いを想い合う気持ち自体はなくなってないでしょ。むしろ長いこと生きていく中でなくすものの方が多いんだ。この子たちだって、そう思ったから、友達どうし一緒に死んだんじゃないの」


 そんなカンジで納得できない? なんて言って、こちらを覗き込んでくる。

私は首を横に振った。日高は不満げに眉をひそめた。


「なんか篠倉、考え方が狭いよ。わたしはさ、自殺って、必ずしも悪いことじゃないと思う」


 思わず、顔をあげる。


「死ぬくらいしか逃げ道が残されてないって人、いくらでもいるしさ。死ぬことで自分や、自分の大切なものが守れるっていうなら、別に死んだっていいじゃない」


 生きることが正しいなんて誰が決めたの――。


「辛かったら逃げていいんだよ。怖かったらやめていいんだよ。望んだように生きられないなら、死んだほうがマシだよ。それってなんか間違ってる? どんなに嫌でも必死こいて頑張れって、弱った人間に篠倉は鞭打つの? それって優しくない。それこそ――間違ってる」


「……もういいよ、わかった」


「少なくともこの子たちは、死んだことを後悔してないし、この世への未練もない。幽霊になってないでしょう? 満ち足りて、あの穴の向こうに行ったんだ。それってすごく幸せなことなんだよ。死んでよかったんだ。だからさ、そんなにショック受けることないって――」


「もういいっつってんだろ!」


 遮るように、言った。静まりかえっていた町の中に、私の声だけがこだまする。


「お前もう、黙ってろ」


 ウンともスンとも言わずに、日高は口をつぐんだ。


                       □


「ねえ、ごめんってば。ねえ」


 帰り道。やはりと言うべきか、日高が黙っていられたのは始めの数分間のみであった。

 ねえ、ねえと周囲をうろちょろ飛び回られる。一方で私はというと、ひたすら続く彼岸花畑から一切目を逸らさずに、終始無言でただただ歩き続けていた。

 なにも無視をしているわけではなかった。応える余裕がないのである。スニーカーや上着にこびりついた血の臭いが纏わり付いて消えてくれない。この臭いも、肌寒さも、なにもかもが過去のショックを蘇らせて、私のことを苛んだ。


 アパートに着き、部屋の前に立った。ポケットから鍵を取り出そうとしていたとき、背後からいきなり肩を引っ張られる。振り向く間もなく、「うちの娘がどこにいるか知りませんか」――掴みかかってきたカナコの母親がそう声を張り上げた。

 母親は錯乱した様子で、幽霊の日高のことも、ところどころ血で汚れた私のことも、意に介することなくこう続けた。


「仕事から帰ってきたら、置き手紙が……」


 母親の手に握られていた手紙を読む。そこには乱れた長文で、「もう死にます。今までありがとう。さようなら」と。要約すると、大体そのようなことが書かれていた。

 閉口する。ショックだった。私でさえそうなのだ、母親は耐えきれなかったのか、ふらりと体勢を崩してしまった。私はそれを支えると、そのままカナコの部屋まで向かっていった。


 母親をソファーに寝そべらせる。警察へは連絡したのかという問いかけに、彼女はこくりとうなずいた。ついでに、カナコへはすでに何度も電話をかけていて、いずれも繋がらなかったのだ、ということも聞いた。そして、ここ最近大喧嘩をして――そのままなのだとも。

 私は、今一度カナコの手紙に目を落とした。そこからは、死を選んだ明確な理由こそ読み取ることはできなかったが、その間接的な要因については理解することができた。それはなにか。一言で言えば、幽霊である。

 ここ最近、子どものあいだで、幽霊に憧れを抱く風潮が、再び現れ始めたのだということが書いてある。自分もそうなのだと。ずっと変わらずにいられる、煩わしいことすべてから離れていられる幽霊が羨ましいのだと。そして、極めつけには、

 幽霊になったあとも、友達と笑っていることはできるって、今日知ることができたらから――なんて。そんなことが、記されていた。

 くそ、と言葉をもらす。指先に力が入って、掴んでいた手紙に皺が寄った。


「大丈夫です」と、私は母親に向かって言った。「カナコは絶対に連れ戻します」


 ――が、そうやって意気込んでいた私に対し、「そんなこと言ったってどうするの」と日高が口を挟んでくる。私は「うるせえっ」と言い返した。


「なんだってんだ。なんなんだよこれは。誰のせいだ」


「……わたしのせいだって言うの」


 日高が表情を曇らせた。そして、「あのね篠倉」と、なだめるような口調で言った。


「わたしは、自殺を止めるための具体的な方法は考えてるのって聞いてるんだ。そもそも、カナコさんがいまどこに居るかもわかってない。まずは、そこからでしょ」


 それは、と口ごもる。だが、私はそこで、日高の言わんとしていることに気がついた。


「わかったよ、日高。頼めるか。――いや、」


 お前なら、もう考えついているのだろう。そう思って、言い直す。


「教えてくれ。どうやってカナコの居場所を突き止める」


「ぜんぜん確実じゃないし、めちゃくちゃ単純な方法だけどね。まず試すべきなのは――」


 そして、方法を聞いた私は、ほとんど走るようにして、カナコの使っている学習机に手を伸ばした。クリアマットの下に挟まれているプリントのうち一枚を取り出して、自身のスマホの画面を開く。スマホと、そのプリント――メモを交互に見比べ、黙々と操作する。


「なあ、日高」


 スマホからは顔を上げずに声をかける。もう喧嘩をする気はなかったから、落ち着いた声色を意識した。だからだろう、沈んだ様子のままであった日高が急に元気になって、


「許してくれた? もう怒ってない?」


「ああもう怒ってないよ。ムカついてるけど。そんなことより答えろ」


 しゅんと肩を落とした日高が、しおらしい態度で「なに?」と訊いてくる。私は言った。


「お前言ったよな。あの三人は、後悔も未練もないから穴の向こうに行けたんだって。じゃあ、お前はどうなんだ。お前には、なんの未練があるんだよ」


「……わたしの未練? よくわかんない」


「わかんないってなんだよ」


「死んだことに後悔はないよ。だけど、なんでだろうね。穴の奧、すごく魅力的で、みんな大人しく入っていくのに、私はどうしても進めなかった。そうやってたら、幽霊になってた」


「……満足いってないってだけなんじゃないのか。死んで――お前に言わせれば自分を守るためか。そうやって死んで、ひとりになって、結局お前は、不満を抱えて動けないんだ」


 私と一緒でな、と付け足す。「ずいぶんと人間臭い幽霊もいたもんだな」、とも。


「人間だもん。根っこの部分で言えば、あんたとの違いは、生きてるか死んでるかってだけ」


「……そうなんだろうな」


「まあ、満足してないっていうのは、そうだと思う。わたし、もっと、まだまだあんたと、楽しいコトしたかったんだ」


「クラブ活動を?」


 尋ねると、日高はそうかなと笑い、


「ほんとのところ、人助けとかどうでもよかったんだけどね」


 と続けた。


「とにかく暇だったから。自由にやるための口実だよ」


「今さら。分かってたさ」


 初めて声をかけられたあの日。日高は私と同じだと。自分もまた退屈しているのだと。そう言った。とてもそうは思えなかったが、事実だった。日高が友人たちに向ける笑顔を見て、私は思ったのだ。――こいつは腹に笑い袋を仕込んでいる。

 本物じゃない、無機質な、作りものの笑い声ばかりあげて、相手への興味の薄さや退屈を、気取られないよう取り繕っている。常に人に囲まれていたこいつは、その実、他人を嫌い、そのすべてをつまらないものとして捉えていた。

 そんなやつが、「人助け」を目的にクラブを作るわけがない。精々が、体のいい看板のつもりだったのだろう。でも――。


「でも、篠倉はけっこう本気だったよね。ハマってた。やけに張り切って……たまに必死だったりしてさ。そういうあんた見てるのは、すごく面白かったんだ」


「やろうぜ、じゃあ」

 

 ――私達の不満を晴らしにいこう。言って、私は日高に、スマホの画面を突きつけた。


「カナコの居場所がわかった。止めにいくぞ」


 そうして私は宣言する。


「人助けクラブ――再始動だ」


 その宣言に、日高は不謹慎な笑みを浮かべた。これこそが、彼女の本当の笑顔である。


                         □


 大抵のスマホには、GPSを利用した「位置情報検索機能」が備わっている。紛失した場合などに探しやすくするためのもので、これを利用すれば、検索されたスマホの位置が、リアルタイムでマップ上に表示される。日高は、この機能によってカナコの居場所を調べられるのではないかと考えた。

もちろん無条件でとはいかず、検索するには、その対象となるスマホのIDやパスワードが必須となる。私はそれらの情報を持ち得てはいなかったが、確かめることならできると踏んでいた。過去にこの家を訪れた際に、偶然目に入って知っていたのだ。学習机のクリアマットに、スマホの情報が記されたメモが挟まっていたことを。


 ――そしていま、私達はカナコの元へと、さっそく向かい始めていた。


「意外と近くだ。たぶん十分もかからない。――飛ばすぞ、ついてこれるか」


「なんか、いまいちキマんないなあ」


 夜空の下、中古の原チャリに跨がっている私を見て、日高が呆れたように言った。


「……で、どうなんだよ」


「たぶん余裕。幽霊って、人に憑いて離れないものじゃない?」


 私の背中に掴まる――ふりをする日高。触れられないので、実際にはただ浮いているだけである。私が「いくぞ」とつぶやくと、日高は「いいよ」とうなずいた。


「……そう言えば、この自転車みたいなのって、速度制限とかなかったっけ。テレビで見た」


「ないよ。今し方、私のなかで撤廃された」


 アクセルをぐいっと回す。闇の中、対向車線を走る光が線となって、前から後ろへと抜けていく。冷たい向かい風が全身を貫いた。頬がしびれ、指先があっという間にかじかんでいく。いま乗るもんじゃねえやと悲鳴を上げれば、喉奧までもがひりついた。

 信号で止まったときに、ちらりとマップを確認する。カナコのスマホの現在地を示すマークは、数十メートル先にある土地の上で点滅していた。

 改めて思うが、運がよかった。カナコがスマホの電源を落としていたらおしまいだったのだ。できれば、いますぐにでもこちらから電話をかけたいが、それは日高から止められていた。曰く、母親からの電話に出なかった時点で反応は期待できないし、しつこくかければ、それこそ電源を切られてしまう可能性が高いから、ということだった。


 道路を出て、マークの表示されている土地に入っていく。草木が生い茂り、彼岸花の下には砂利道が覗いている。原チャリでは進めそうになく、まだ距離はあったが、直接足で走っていくほかなかった。この場所のことについては、既に警察には伝えてある。しかし、パトカーも警官も見当たらないので、私たちが一番乗りだと思われた。


「ここで……もうずっと留まってるわけでしょ、カナコさん」


「……わかってるよ」


 いやな予感を振り切るように、砂利道を走っていく。それにしても、カナコはなぜこんな場所に足を運んだのだろうか。ただ自殺をするだけなら、わざわざ選ぶ場所でもないだろう。


「誰かと待ち合わせしてるとか。たとえば、自殺仲間――とか」


 日高の言葉に、私はうなずく。そうかもしれないとは薄々思っていた。カナコは臆病だ。自分だけで死を選べるような人間だとは、とてもじゃないが思えない。

 穴があいて間もないころ、幽霊に憧れて死を望んだ者たちのあいだで、特に流行ったのが集団自殺だった。思えば、アパートから飛び降りた少女たちもそうだ。その心理は、ある程度は理解できる。寂しいのはいやだろう。ひとりも、いやだろう。死ぬときだって。


 カナコッ、と声を上げて呼ぶ。返事はない。――だが、代わりに返ってきたものはあった。

強烈な衝撃音である。それと同時に、道を曲がった先、木と木に隠れたその向こう側から、黒い煙が黒い空へと上がっていくのが見えた。煙は次から次へと霧散していき、あっという間に清涼だった夜の空気に浸食していく。嫌な――臭いがする。唖然とし、立ち止まった私は、そんなことをふと思った。


「建物が……」


 木より高く宙に浮かび、様子を確認した日高が、驚いた様子で言葉をこぼした。

 周囲は明るかった。暴力的なまでに激しい橙色で照らし出されている。電灯はない。けれど熱があった。焼け焦げてしまいそうなほどの熱だ。これは――


「火事だ。燃えてる……」


 歯を食いしばって駆け出した。道を曲がると、すぐ建物の前に出た。うらぶれた廃墟のビルは、上階部分の窓が吹き飛んでいて、至るところに破片が散らばっている。激しい勢いで宙に躍り出る煙が、その窓枠から噴きだしていた。


「ちょっと、篠倉っ」


 居ても立ってもいられなかった。スマホで消防を呼ぶと、屋内に突っ込んでいく。一階部分に火は回っていなかったが、煙はすでに充満していた。眼球に染みるその痛みに、自然と顔が引きつった。呻きのような声が半開きの口からこぼれだす。どうして、こんな。


「この階には誰もいないみたいだよ」


 真横に来ていた日高が、言った。


「壁、無視できるし、けっこうすぐ見回れた」


 階段は――すぐそこだ。


「消防に任せなよって、言うべきとこなんだろうけど」


 日高は、いまはクラブ活動中だしね、というふうに頬を緩めた。


「やれるだけ、やってみよう。あんたと一緒にやる人助けは、どんなだって面白いんだ」


 場にそぐわぬ、無邪気に弾んだ声を発した日高の顔は。

 昔を想起させる、頼もしい――相棒のそれであった。


 三階は、いよいよ本格的に火事場の様相を呈していた。吹き飛んだのだろう机や書類、そして、それらに着いた火が、あちこちで激しくゆれている。立ち込める煙で見通しは悪く、迂闊に突っ切ろうものならすぐさま火だるまになってしまうだろう。それでも日高に誘導され、いまのところは、比較的安全なルートを選んで進むことが出来ていた。


 しかし、悠長にしている暇はないだろう。二階にも人影はなかった。とすれば、最上階であるここにカナコがいるはずである。また途中、空になったポリタンクがいくつか見つかった。ガソリンをまいて、火をつけたのだと推測できる。この用意の良さからして、やはりカナコ以外にも自殺者はいると考えられた。誰も死なせたくはない。であれば、急がなければ。

 日高を急かし、袖で口を塞ぎながら、早足で進んでいく。


 それにしても――熱い。汗が無尽蔵に拭きだしてきて、何をせずとも息が切れる。口内が乾ききっているのは、恐怖からか。しっかりしろよと太ももを叩いた。

 そして、広い部屋に出る。むろん、ここもあちこちに火の手があがっている。――そこで私は、崩れ落ちた天井の部品に、下半身を挟まれた女を見つけた。


「大丈夫か!」


 走り寄って声をかける。すると僅かだが反応が返ってきた。部品にも火は着いてしまっているが、まだ小さく、現状、直接炙られずに済んでいるらしい。これならまだ、きっと――。


「待ってろ、今助けるから……っ」 


 上着を脱いで、部品の火を払おうと試みる。けれどまったく無駄で、勢いは増すばかりであった。飛び散る火の粉にあちこちを火傷する。針で刺されたかのような痛みが走った。


「……もう、いいから」


 そのとき。女が、弱々しい目で私を見やった。


「ほっといて。私は、死にたいの……」


「うるさいっ」ボロ布と化した上着を捨て、直接手で部品を掴んだ。「死なせねえよ!」


 掴んだ箇所にはまだ火は回っていなかったが、それでも熱は凄まじく、手のひらが焼けていくのが痛覚を通して伝わってきていた。だが、諦めるわけにはいかない。持ち上げようと、必死になって力を込める。びくともしない部品に、私は「くそッ」と悪態をついた。


「離れて篠倉。これ以上は、危ないよ」


 傍らで様子を見ていた日高が、ゆっくりとかぶりを振りながら、言った。


「見捨てられないだろ!」


「カナコさんを助けたいんでしょ。だったら……冷静になって」


 その人、もう――。

 どこか痛ましげにつぶやいて、日高が女に視線に落とした。女はすでに、事切れていた。

 火が大きくなっていく。止まることを知らずに成長した火炎が、ついには女の身体を呑み込んで、丸ごと焼き焦がしていく。血と油とが蒸発して混ざり合ったかのような――強烈な刺激臭が、あたりに漂いだしていた。


 数歩、後ずさる。壁に背がぶつかり、膝から崩れ落ちそうになるのを無理やり耐える。

目の前の炎から顔をあげて、そのとき、ようやく気がついた。――一面、死体だらけだ。

 一人、二人、三人……。どろどろに焼け爛れている死体が、少なくとも三人分、見つかった。火に包まれ見えなくなっているだけで、きっともう何人か死んでしまっているのだろう。呼吸がさらに荒くなる。肩が上下する。カナコは――見当たらなかった。


「なんなんだよ、ちくしょう。どいつもこいつも……!」


 頭の奥が痺れていた。煙を吸いすぎたせいか、熱さのせいか。朦朧として、意識が判然としていない。――それだからか、長い間、ずっと胸の奥につっかえていた塊が、自然と口からこぼれ出ていく。それは、悲しみや怒りがない交ぜとなった、感情そのものであった。


「残されたほうの気持ちも考えないでよ。なんで私がいるのに死ぬんだよって。その程度の相手だとしか思われてなかったのかよって――。こっちはずっと、悩み続けるのに……」


「篠倉――」


息を吸い込む。混濁した意識を晴らすように、私は「カナコォォッ」と絶叫した。


「どこだ、どこにいるっ、返事しろぉぉ……!」


 げほっ、と咳き込む。体の内側に鋭い痛みがあった。眩暈がして、倒れそうになる。

 と、同時に。「篠倉さん……?」という、困惑と不安が同居したみたいな声が、どこかから聞こえてきた。はっとして振り返る。死体の転がっているあたりの、すぐ近くにあった机の下から、カナコが這いずり出てきていた。


「カナコ……!」


 ――生きている。無事だ、生きている。机がちょうど、炎から彼女を守ったのか。火傷はしているし、額から血を流してはいるが、見たところ大きな怪我は負っていない。

ほっとするのもつかの間、私は駆け出す。

 だが。床に倒れ伏していたカナコは、こちらに気づくと、ぎょっとした顔でこう叫んだ。


「来ないでっ!」


 カナコは――。床に散らばっていたガラスの破片を手にとって、それを自らの首筋にあてがった。その形相と、裏返ったヒステリックな声に、私は思わず立ち止まる。


「来たら死ぬから!」


 ふらつきながら、カナコが立ち上がる。そして、こちらを向いたまま後退し、ガラスが割れて枠だけになった窓に、背中を預けた。


「待て、だめだ、カナコ」


 にじり寄ろうとする。しかしカナコは本気だった。破片を握る手のひらと、それを押し当てた首から、真っ赤な血が滴り落ちる。


「落ち着け。頼むから。それ放して、こっちに来てくれ……」


「私、助けて欲しいなんて頼んでない……っ」


 いいから死なせてよぉ――!

 拒絶するように、カナコが大声を張り上げる。――その次の瞬間、ドンッ、という大きな音が、私の耳をつんざいた。

 爆発音だ。どこかに残っていたガソリンに引火でもしたのか、そばで爆発が起こった。あまりの衝撃に立っていられず転倒する。追い打ちをかけるようにして、瞬間的に周囲の炎がさらに激しく燃え広がった。一気に酸素が薄くなる。激しい頭痛に気が遠のいていく。――まずい、立ち上がれない。


「……念のため、言わせてもらうけど」


 私に目線を合わせるように膝を折り曲げた日高が、そう口を開いた。


「あの子を置いて逃げるって選択肢も、忘れないで」


「……なに言ってんだよ。日高」私は即答する。「わかってんだろ。ないよ、それは」


 お前が死んだとき――と続ける。


「思ったんだ。なにが人助けクラブだよって。隣にいた人ひとり、助けられないで」


 ショックだった。そして、腹が立った。

 頭をもたげる。火傷で血の滲んだ両手を床について、無理やり身を引き起こす。


「ああ……腹立ったよ。むかついた。アホみたいに死んだお前にむかついて、何も出来なかった自分にむかついた。でもなによりむかついたのは、最後の最後に人助け……失敗させやがってってことなんだ」


 終わりが失敗って気持ち悪いだろうがよ。


「そのせいで、いつまで経っても切り替えられない。でもそんなんじゃだめなんだ。今度こそ成功させる。成功して終わらせんだよ……だからっ」


だから。だからお前も――


「今度こそ、最後まで私の相棒でいてくれよ」


「あぁ」と日高が口の端をわずかに震わせた。そして、数秒の間を置いて、


「そうだね篠倉。――じゃあ、こうしよう」


 日高がカナコのほうを見る。カナコも私と同じように苦しげに蹲っていたが、すぐに立て直して、再び敵意の籠もった目でこちらを睨んだ。日高が耳打ちするように小声で言った。


「わたしがあの子の気を逸らすから。説得はたぶん、無理だろうけど――だからあんたは、そのうちに回り込んで」


 だいじょうぶだよ篠倉、と。日高は眉を吊り下げ、どうしてか、自嘲気味に微笑した。


「わたしってさ、人の気持ちに疎いとこ、あるよね。でも今ちゃんと、わかったから」


 そして、カナコの元へと向かって行く。カナコはまた「来ないで」と声を荒げ、尻込みしながら、ひび割れた窓をあけ、その枠に上がった――しゃがみ込んだ格好で、両足を枠の上に乗せたのである。つまり、ほとんど外に身を乗り出した状態だった。僅かでも足を踏み外せば真っ逆さまである。けれど日高はまるで動じなかった。


「だいじょうぶ。わたし、幽霊だからさ。あなたには何もしないし――できないよ」


 ――何もできないから。噛みしめるように、繰り返す。

 続けて、ちらりとこちらに目を向けた。そうだ、私も動かなければ。カナコの注意は、目の前に立つ日高に向けられている。その様子を窺いながら、慎重に迂回して進んでいく。


「最近、友達ができたって、聞いたよ」


 友達、という言葉を聞いたカナコが、一瞬たじろいで目を伏せる。

 彼女が置き手紙で「友達」について触れていたことを、私は思い出した。


「ね、どんな子なの? その友達」


「どんなって――」カナコは答えた。「優しい子、です。すごく……」


 私なんかのこと対等に扱ってくれるんです、と続ける。


「クラスの中心にいるような子なんです。なのに友達だって、あなたは私の特別なんだって言ってくれる。私なんか、なんにも持って、ないのに……っ」


 次第に、言葉に熱が籠もっていく。ぐにゃりと表情を歪ませ、瞼に涙をたたえる。


「初めてなんです。人に親友なんて思われたのも。特別だって言われたのも。もう、あの子だけでいいんです。ほかにはなんにもいらない。だから私、絶対に失いたくない。死ねば、失うことなんて……ないんだから。それに、もし幽霊になれたら、ずっとそばにいられる。だれにも邪魔されないで、一緒に、楽しく過ごしていられる。篠倉さんとあなただって――」


 カナコはそこで嘔吐いた。相変わらず枠の上に乗ったままだから、びくりとする。


「うん――」そんなカナコに対し、日高がうなずいた。「わたしも、そうだって思ってた」


 だがその返事は、どこか曖昧なものであった。


「わたしもね、自殺したんだ。そのころは穴なんてなかったけど――だから、幽霊になれて嬉しかった。奇跡だって、そう思った。だから会いにいったけど、でも、篠倉は……」


 喜んでくれなかった――。


「むしろ不機嫌だった。今日一日、もうずっと苛ついてんの、あいつ。しかも……悲しそうな顔、ばっかしてて」


 なんでだろうって思った。わたしが死んだって、二人の気持ちは続いてるはずなのに。いまもこうして、一緒にいられてるのに。だから本当に、なんでそんな顔してるのか、分からなかった。


「でも違った」


 日高がわずかに表情を強ばらせる。


「そういうことじゃなかった。もっと単純な話。わたし、自分勝手だった。お互いを思う気持ちは、わたしとあいつで、一緒じゃない。わたしが死ぬことであいつの気持ちは、ただ悲しいだけのものに変わっちゃってたんだ。ただ悲しいだけのものが……あいつの中で、失われずに続いてたんだ」


 それから、「当たり前だけどさ」と、ため息混じりに続けた。


「自分のことだけ考えてたんじゃ、うまくいきっこないんだね、人間関係って。自分勝手な理屈こねて幽霊になったって……笑い合って楽しく過ごすなんて、絶対できない」


 現にわたしがそうだったし――なんて言って、苦笑いを浮かべる日高。


 カナコもなにか思うところがあったのか、弱気な顔になってうつむく。そんなカナコに向かって――日高はこう続けた。


「カナコさんも、どうせそうだ。そのお友達だって……自分を肯定してくれるのなら、誰でもよかったんじゃないの」


 私もカナコも、驚かされる。説得はできない、とは確かに事前に言っていた。だが、そのきっぱりとした、露悪的とも取れる物言いは、この状況においては危うすぎる。

 あるいは――それが狙いなのか。日高は再び、さりげなく、私の立ち位置を確認していた。


 カナコとの距離は、もう十分に詰められている。思い切り走れば、すぐにでも捉えることができるだろう。あとは、隙を見逃さないことだけだった。

 そんなんじゃないっ、とカナコが怒鳴る。ああそうだろう。死を選んでまで大切にしたいと願う友人が、本当は誰でもよかったなんて、それだけは違うはずだ。――日高だって。


 日高はきっと、自分に向けても言っていた。それが、私以外でもよかったなんて、お前は絶対に思っていない。わかってるよ、日高。


 だからあとは、私に任せろ。


 煙を切り裂いて、カナコの元へと走っていく。カナコはまだこちらに気づいていなかった。

 だが、あと少しで、カナコに手が届くというところまで来ていたとき――再び爆発が起こった。小規模なものではあったが、その振動で、カナコがバランスを崩す。彼女は「あっ」と声をあげ――次には、外へと身体をすべらせていた。

 その姿を見て、考えるより先に体が動いた。ほぼ間をあけず、後に続くようにして私も窓から身を放りだす。「篠倉ッ」と叫ぶ日高の声を受けながら、宙で身を翻す。私は右手でカナコの腕を取ろうとするのと同時に、その声の聞こえてきたほうへと左腕を突き出した。

そこには、日高の腕が伸びている。

幽霊の、触れることもできないその腕を――けれど私は、確かに掴んだ。


 アドレナリンもあったのだろう。細くて軽いカナコを引っ張りあげるのに、そこまでの苦労は要らなかった。私は彼女をビルの中に押し込むと、自分も上がっていく。


「……助かった」


 大の字で床に倒れ込んだ私は、開口一番、日高に礼を言った。日高は「なに言ってんの」と苦笑する。


「わたしはなんにもできなかったよ」


 実際、私の左手が掴んでいたのはただの窓枠だった。日高の手を取れた気がしたのは、きっと錯覚だったのだろう。だがそれでも、私が日高に助けられたのは、間違いないのだという気がした。


「篠倉さん、私……」


 同じく倒れていたカナコが、気まずそうにこちらを見やる。私は、彼女を支えて立ち上がると、言った。


「ほかにはなにもいらないとか……そんな寂しいこと、言うなよ」


 カナコの肩を抱く。その頭を、胸に押しつけるようにする。


「私も、お前のお母さんも。カナコのこと、すごく大切で、特別に思ってるよ」 


「私、怖かったんです……」嗚咽混じりの掠れた声で、カナコが言った。「いつか、あの子の特別じゃ、なくなっちゃうのが。特別じゃない自分に、なっちゃうのが……」


 何も持っていない自分のことを、特別だと言ってくれる人がいる。だから私も、自分を特別なんだって思えてる。そうやって、毎日楽しく生きていられる。


「でもそんなの、今のうちだけだって。それも、運が良かったってだけだって。この先、あの子と離ればなれになったら、笑って生きていける気がしなくて。だから私は――」


 大人になりたく、なかったんです――。

 その答えを聞いたとき。ああそうか、と私は唐突に理解した。

 日高、お前は。

 お前、だから死んだのか。


                       □


 あれから一晩が明けた。が、私はいまだ退院させてはもらえずにいた。なんとか助かったものの、煙を吸いすぎたせいか、搬送された先の病院で要検査とされてしまったのである。

 退院は少なくとも明後日以降になると言われていて、それまでは外出にも制限がある。私はすでに退屈していた。外の空気が吸いたいと思い、解放されていた屋上に足を運ぶ。当然ながらフェンスに囲まれているし、これまでの体験から「高いところ」というものには悪い印象しかないのだが、ずっと病室に閉じこもっているよりかは余程マシであった。


「退屈ってのは、いやだよな」


 屋上のフェンス際に立って、何気なくそうつぶやいた。遠くに見える山の向こう側から、夕闇が迫ってきている。「ほんとにね」と、隣で日高が答えた。


「……わたし、自分のこと、特別だって思ってた。カナコさんも言ってたけど、だから毎日、すっごく楽しかった」


 でも卒業が近づいてきてわかったんだ――。


「わたしって、あんたと二人だけで成立する世界ってやつから抜けだしちゃったら――たぶんけっこう、普通なんだよね。どっかズレてるかもしれないけど、それだけ」


 たとえば、他人を興味がないと見下し、一歩引いたところから接するのも、ズレている価値観によって、嫌われるのが怖かったからだ。

 嫌われたくない。そんなのは誰しもが抱く、普通で当たり前の不安だ。日高はそう言った。


「あんたがわたしのこと、クラブの相棒だって。友達だって。そう思ってくれてたから、わたしは勘違いできてたんだ。でもいつか、二人の世界から出て行かなくちゃいけないときがやってくる。普通になって、平凡で退屈な日々を生きるのなんていやだった。そんなわたしを……あんたに見られるのが、いやだった。わたしは、あの楽しい毎日を、終わらせたくなかったんだ」


 ああ、と私はうなずく。大人になりたくない。そんな悩みも、やっぱり普通だったから。


「ねえ、あんたはいま、生きてて楽しい?」


 日高が、ゆっくりとこちらを見やった。私が黙っていると、彼女は、なにかを決心するように深く息を吸い込んで、


「ね、死んでよ」


 死んでよ篠倉。言って、フェンスを挟んだ向こう――私の前方へと躍り出る。


「最後まで相棒でいてくれって言われたときにね、わかったんだ。わたしの未練は、あんたを連れていけなかったこと。わたしが死んだその瞬間に、あんたのなかで、わたしは相棒じゃ――友達じゃなくなってた。そうならないためだったのに。それがあのとき、はっきりとわかったの。自分勝手に死んで……あんたを置いてくべきじゃ、なかったんだ」


「……自分勝手って、そういうことかよ」


 私はへっと笑った。やっぱお前、ズレてる。


「わたしひとりだけじゃ、意味なんてないんだよ。あんたがいなきゃ、何も楽しくない。だから選んで。死ぬか生きるか、自分で決めてほしいんだ」


 日高は真剣な目をしていた。本気――なのだ。


「わたしは最後なんて迎えたくない。ずっと、いつまでも友達のままで居続けたいって思ってる。そのためには、永遠に特別な子どものままでいなきゃ。二人で。だから、まだ間に合うから、篠倉――」


「わがまま言うなよ、日高」言って。遠くの山々へと向き直り、「私は死にたくないよ」


私は生きていたいよ日高――。はっきりとそう告げた。


「昔の自分が羨ましいとは思うよ。戻りたいとも思う。ていうか、いまだって……」


 いまだって、大人になりきれてなどいない。


「……昔からさ、それこそガキのころから思ってんだ。私は特別なんだ、人とは違う、面白い人生が送れるはずなんだって。けど本音のとこじゃ、なんの取り柄もない自分に嫌気さしてる。実際、いつまで経ってもフリーターだしさ。こんなもんじゃねえって、認めたくなくて、いい加減ふて腐れそうになる。……私って、そんな子どものまんまだよ」


「あんたも――……」


「私だけかと思ってたよ。でも昨日、ようやくわかった。お前もそうやって、悩んでたんだ。長いこと一緒にいたのに、気づけなかった」


「……まあ。あんたよりか世渡りは上手いから、そういう意味での心配はなかったケド」


「よく言うよ。似たようなもんだ、たぶん」


 でも、だったら――。日高はそう、静かな声で口にした。


「わかってくれたんなら、なおさら。わたしのこと、一人にしないでよ。まだ友達のままで、いてほしいよ……」


 静かに――叫ぶ。幽霊のくせに、顔を真っ赤にして。そんな日高に対し、私は答えた。


「お前のことを、もう友達じゃないなんて、そんなふうに思ったことは一度もなかったよ」


 むしろ逆だ。私は――


「一緒にクラブ活動を始めたときから、ほんとすげえやつだって思ってた。なに考えてるかわかんねえし、性格はひん曲がってるけど、そういうとこもひっくるめて好きだった。だからお前が死んだとき、ショックだったし、腹立ったし――見限られたんだって、辛かった」


「見限ってなんて……」


「逆だったんだ。私のほうこそ、お前が私のこと、もう友達って思ってないんだって誤解してた。ああ私、なんにも持ってなかったって、気づいたのもそのときだった。そのままここまで来た。死に別れて、もう、どうにもならなかったから」


 だけどさ。だけどさ日高――


「そうやって、いったん離ればなれになったけど、また一緒に始められたじゃないか。自分は普通だって、特別じゃないってわかった上で、お前も私も、今回また挑戦できたんだ。なあ、だったら、それでよかったんじゃないのかよ」


 胸が痛かった。堪えなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうなくらいに、痛い。


「私たち、なんにも持ってなくて、一緒にいれば特別だなんて、そんなの勘違いだったかもしれないよ。大人になったら、二人でばっかいちゃいられないかもしれないよ」


 でもそんなの知るかって、溜まってるもんがあったら、不満を晴らしに行こうって。またいつだって集まれたはずなんだ。普通で退屈だったって、そんなもんぶっ壊して、人生面白くしてやるぜって、そのときだけでも子どもに戻ったりなんかして。そうやって踏ん張れたはずなんだ。なあ、違うかよ、日高。


「私は今からでも、そうやって生きていきたいよ――」


「……そっか」諦観の混じったような、弱々しい表情を日高は浮かべた。「だから……」


bだから相棒だったんだ、わたしたちは。


「そんなこと、わかってたはずなのに――」


 もう手遅れなのかな。日高のこぼした言葉が、夜の闇のなかに溶けて消える。それを否定することはできなかった。死者と生者の隔たりがなくなることなんて、ない。その両者に、共に進める道は存在し得ないのだ。たとえ幽霊であったって――同じだ。


 だからこそ、私は日高に示す必要があるのだろう。一人で進んでいく道というやつを。


「決めたぞ日高。私、がむしゃらに働いて金貯める。そんでこの町、出てってやる」


 私にとって、日高との思い出はただのトラウマだった。だが捨てられるものでもなかったのだ。この町にしかないものだという気がしていて。なくしたものを返してくれるのではないかという、空の穴に対する期待もあった。そうして私は、ずっとここに留まってきた。

 でもそれじゃあ、やっぱりつまらないだろう。


「出てった先で、なんかやりたいこと見つけるよ。それを一生懸命頑張るんだ。特別になれなくても……せめて、いまよりか成長した自分になりたい」


 日高が再び「そっか」とうなずく。けれどその顔に、もう弱々しさはなかった。


「だからまあ、お前もさ。いつまでも幽霊なんかやってないで、さっさと成仏しろよ。穴の奥がどうなってるか、誰にもわかんないんだ。それ確かめに行かないなんて、もったいねえ」


「……篠倉らしいね。そうやってたまに暴走するの、めんどくさいったらなかった」


 呆れたように微笑む。それから日高は、「あんた、やっぱ変わったわ」――なんて。少しだけ寂しそうにつぶやいた。「わたしからすれば、もう立派な大人だよ」


 そうかな、と短く答える。たぶんねと笑って、日高はこちらに背を向けた。もうほとんど姿の見えなくなった太陽と、山の影に飲まれて黒々としたこの町を眺めて、目を細める。


「わたし、屋上から足を前に踏み出すのは、別にぜんぜん怖くなかったんだよね」


「なんの自慢だよ」


「その逆のさ。引き返すための……生きるための一歩目のほうが、怖かった。あんたはこれから、ずっとそっちに行こうって言うんだ。それってたぶん、相当辛いよ」


「まあ、そうかもな」


「だから、背中押してあげよっか。触れないし、言葉で」


そして、こちらを体半分だけ振り返って、


「精々がんばれ。わたしのこと置いてくんだから、立ち止まっちゃダメだよ」


 見守ってやる気はないから――なんて付け足す。

 いやなやつだな、と私は苦笑した。そうやって笑って、顔を伏せて、引き止めてしまいそうになるのを堪える。次に顔を上げたとき、そこには景色が広がるのみであった。


 ぬるく穏やかな夜に放り込まれた町並みと、家々の合間を縫うようにして走っている彼岸花の不気味な赤。そして、夜空のなかで一際その暗闇を際立たせている深い穴だけが、私の目には映っている。火照った頬を冷やすあっさりとした夜風は、もう血生臭くはなかった。

 そのとき、遠くにある高校の校舎が目に止まった。瞬間、生きていたころの日高のことが、次々と脳裏に浮かびあがってくる。


 彼女は、いつか私が何気なく「似合うな」と言っただけの黄色いネイルを、それ以来頻繁に塗ってくるようになった。彼女は、修学旅行で向かった先の北海道で、「あんたに似てる」とふざけて買った間抜けな面のキャラストラップを後生大事にしてはなさなかった。彼女は、「たくさんの友達」が、裏では自分の陰口ばかり言っているのだと屋上で静かに泣いた。そのあと、それでもあんたがいるから楽しいんだと笑った。

 あまりに深くて大きなこの穴は、一生塞がることはないのだろう。空を眺めて、そう思う。


 それでも行かなくてはならない。この町に背を向けて、遠くへ、遠くへと向かっていかなくてはならない。どんなに辛くとも、振り返ってはならない。


 別れはとうに済ませている。大きな歩幅で、私は歩く。


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