俺の否認
* * *
「なるほど、そうやって解を導けばいいんですね。なら、こちらの式も同じように……?」
後輩の勉強を見てやるのも先輩の務めというやつだ。そろそろ定期試験が近いということもあり、談話室で下級生達、特にニルス君の予習と復習に付き合うのがここ数日の俺の日課だった。
ニルス君は地頭がいいのか、教えたことをすぐに吸収して発展させる。人に物を教えることは得意なわけではなかったので、ニルス君が優秀で助かった。基礎さえ教えれば、後は勝手に理解してくれるのだから。
「完璧だ。さすがだな、ニルス君。もう俺に教わるようなことなんてないんじゃないか?」
「殿下の教え方が丁寧だからですよ。わざわざ時間を割いてくださってありがとうございます」
「新入生の学力が教師陣の間で問題視されるようなことがあったら、ヴィゾーヴ寮の沽券にかかわるだろう? 補習でも受ける寮生が出たらユリウスが黙っちゃいない」
冗談めかして笑うと、ニルス君も俺を見上げて柔らかく微笑む。肩と肩が触れ合いそうなほど距離が近い。かすかに漂う甘く爽やかな果実の香りは石鹸の匂いだろうか。
……ああ、まただ。ペリドットのような澄んだ瞳が俺を映している。ただそれだけなのに、何故だか胸が苦しくなった。
「成績がよくて困ることもないからな。俺達も、いい復習の機会になった。礼を言うよ」
ごまかすようにして軽口を重ね、視線をそらす。大丈夫、誰も俺達には気づいていない。
休日の夜に自主的に開かれたこの勉強会には、俺以外にもヴェイセルやユリウスといったヴィゾーヴ寮きっての成績優秀者が教師役として来ていて、数十人ばかりの生徒が集まっていた。上級生の中にも、教師役としてではなく勉強を教わるためだけに来た連中が散見されている。参加者の総数は、寮全体の三分の二と言ったところだろう。
と言っても、俺とユリウスに教えを乞う下級生はニルス君やルークス君を始めとしたごく少数だ。大抵は、もっと親しみやすい上級生のほうに集中している。俺達の仕事は、四方をぐるりと囲まれてあれこれと質問を浴びせられている彼らよりかは楽と言えた。
ユリウスも俺も、自分が他の生徒から壁を作られやすい環境にあることはもちろん理解している。それは、いわば支配者の宿命のようなものだ。仕方ない。
「ロキ殿下、喉は乾いていませんか? そろそろお茶の時間にいたしましょう」
ニルス君は穏やかに立ち上がった。「ああ、そうだな、ありがとう」休憩の気配に気づき、何人かがニルス君と一緒に厨房に向かう。
戻ってきた彼らが押すサービングカートには、人数分のティーセットやら軽食やらが用意してある。明日も休日ということで、もうしばらく勉強会は続く予定だった。眠くなった奴から勝手に退室していくルールだ。
「ロキ殿下、これ、僕が昼に焼いたんです。お口に合いますかどうか」
「へえ、ニルス君は器用だな」
はにかみながら差し出されたのは、皿に盛られたクッキーだった。……まさか、俺のために用意したのか?
胸の奥がじんわり熱くなる。それが表に出る前に、慌てて感情ごと紅茶を流し込んだ。
一口かじるとほのかなニンジンの甘さが広がる。素朴で優しい味わいは、ミルクたっぷりの紅茶によく合った。
「うん、美味い」
「本当ですか!? よかったぁ……」
宮廷でも学食でも出てこないような味だが、だからこそ新鮮だ。もしかするとニルス君は祖国でよくこれを作っていたのかもしれない。
一枚食べ終え、すぐ二枚目に手を伸ばす。俺の反応がお世辞ではないとわかったのか、ニルス君は安心したように顔をほころばせた。
「あ、よければ皆さんも召し上がります?」
俺がよほど美味そうにクッキーを食べているのが気になるのか、何人かの視線が煩わしくなってきた。
すかさずニルス君が連中に声をかける。「こんな美味い物、俺だけで独り占めするのも悪いからな」俺からも口添えると、こちらを窺うばかりだった生徒もおずおずとクッキーに手を伸ばした。
それは、俺がもらった物なのに――――一瞬でもそんな思いが湧き上がったことが、信じられなかった。
これは、嫉妬とか、独占欲とか、そういう名前がつく感情だ。俺は今、誰に対して……何に対して、そう思った?
「ロキ殿下?」
ヴェイセルの声だった。歩み寄ってきたヴェイセルが、不思議そうに俺を見ている。
「お疲れのようですが、そろそろお休みになられますか?」
「なんでもない、気にするな。それよりどうだ、美味いだろう? さすが俺の見込んだ寮内兄弟だ」
このわけのわからない感情を、ひとまず片付けてしまおう。ヴェイセルを急かしてクッキーを食べさせることにする。
ヴェイセルは少し戸惑ったような顔をしながらも、ニルスに礼を言ってクッキーを一枚取った。食べ終えたヴェイセルは、そっと俺に耳打ちする。
「素人の手作り……それもこのように簡素なものなど、貴方様が召し上がっていいものだとは思えません」
「贅沢な宮廷料理には飽きたところでね。つまらないことを言うなよヴェイセル、美味ければそれでいいだろう?」
「確かに、味は認めますが……それでも、宮廷御用達の料理人には到底及びません」
「何を求めてるんだよ、彼は小国とはいえ一国の王子だぞ?」
そういうことじゃないだろうと苦笑する。ヴェイセルは、ユリウスとはまた違った意味で頭が固い。
「作ったのは俺の寮内兄弟で、味も見た目も申し分ない。材料や設備だって厨房にあるものを使ったんだろう。何の問題があるんだ?」
どうせ俺には、毒なんて効きやしないのに。
高級料理しか受け付けない食通を気取るわけでもない。この学園に入学する前は、宮廷にはない刺激を求めて街に繰り出しては一市民として振る舞うこともよくあった。ヴェイセルは細かいことを気にしすぎだ。
ヴェイセルは口をつぐみ、もう一度ニルス君に礼を言って席に戻った。ニルス君は不思議そうにしていたが、俺の視線に気づいてすぐににこりと笑う。だから笑い返した。
ああ、そうだ。俺は、どんな毒も効かないように教育されている。それは、心配性な俺の父上と、どこまでが天然でどこまでが計算かわかりづらい母上によるものだ。
二人は伯父上にも進言したうえで、同じような教育をユリウスにも施していた。だから俺達にとっては、どんな場所に作用する猛毒も無害なものに過ぎない。たとえそれが媚薬であっても同じことだ。
クッキーを食べた生徒達に、変わったところは見られなかった。瞳孔の開き具合、発汗量、頬の赤み、呼吸のペース、どこをとっても異常はない。だから違う。このクッキーに媚薬が盛られている事実はない。
でも、なら、どうして。どうして俺は、ニルス君が何かするたびに一喜一憂してしまうのだろう。こんなに胸が痛むのだろう。
これじゃあまるで――――俺が彼女に、恋をしているみたいじゃないか。
*
ここ最近、俺とニルス君の関係が変わったということはなかった。少なくとも、目に見えたような変化はない。
しいて言うなら、ニルス君がよく俺を見るようになったり、偶然手や足が触れる回数が増えたことぐらいか。しかしそれは、俺が彼女を意識しすぎているからそう感じてしまっているだけかもしれない。そんな中で変わったとはっきり言えるのは、俺の心のありようぐらいだ。
ふと気づけば、ニルス君のことを探してしまう。寮でも、校舎でも。退屈な講義中には窓から校庭を見下ろして、偶然一年生が体育の時間で外に出ていて俺に気づいたニルス君が小さく手でも振り返してくれるんじゃないか……そんな淡い期待を込めてしまう始末だ。
正直驚いた。まるで自分が自分ではないような感覚だ。多分それは、間違ってはいないだろう。
「どういうことだい、ロキ。最近いやに腑抜け面を晒しているようだね? もっとしゃんとしたまえ、このままでは僕以外にも気づかれてしまうよ」
「……お前の目はごまかせないな、ユリウス」
ユリウスによって苦言を呈されたのは、ある夜のことだった。部屋まで来たのは他人に聞かれたくなかったからだろう。
招き入れてチェス盤の用意をする。黒の駒を手に取り、ユリウスはじろりと俺を睨みつけた。
俺だって好き好んで醜態を晒したいわけではないし、懸想の相手がニルス君だと知られるのもまずい。
だってニルス君は事実はどうあれ“男性”で、同性同士の恋人は……例がないというわけでもないが、少なくとも大国の王太子という立場の人間が作っていい関係ではないのだから。
俺以外に、正式にヘズガルズ王家の子だと言える子供はいない。対外的にはヘズガルズ王家の血を引く最後の人間である俺が、継嗣をもうけられない相手と縁づく意味はまったくなかった。
「まったく、何を悩んでいるんだか。どうせろくでもないことだとは思うけど……明日の献立の悩み程度なら付き合うよ?」
「それについては問題ないさ、今はジェノベーゼパスタの気分だからな。旬のキノコがたくさん乗っているやつがいい」
適当に答えながら白の駒を配置する。ユリウスの準備はもう終わっていた。さっさと本題に入れと言いたげな視線が痛い。
「なあユリウス、お前は恋をしたことがあるか?」
「なんだい急に。気味が悪いな。……あると言えばあるし、ないと言えばないよ。分別もつかないような幼いころのことも含めるとするならね。そもそも、僕らには恋など必要ないだろう? 結婚した妃を慈しめばいいし、その妃だって恋愛感情で選ぶわけではないんだから。違うかい?」
白のポーンを動かしながら尋ねる。ユリウスは顔をしかめながらもそう答えた。
俺は生まれた時からユリウスのことを知っている。従兄弟とはいえ、実の兄弟のように育った相手だ。ユリウスのことならなんでもわかっている。
口ではこう言っているものの、ユリウスは俺の妹にご執心だ。ちょっと俺にそそのかされただけで、あの子を可愛がるための離宮を都合してしまうぐらいには。
妹はルークス君との婚約が内定しているし、二人は互いに好意を寄せている。ただし、ルークス君もユリウスも妹を共有することに悦びを感じていた。妹自身もその状況に満足しているというおまけつきだ。あまりにも面白い関係だった。
「それはそうだが」言葉を濁している間に、向かい合った黒のポーンが前進してくる。
「僕の基準はただ一つ、王の視点を補えるような女性であることだ。恋だとか愛だとか、そんなものは二の次でいい」
「つまらないことを言うなよ。少しぐらい私情を挟んだって、罰は当たらないと思うぜ?」
「うるさいな。僕は君主として当然のことを言っているだけだよ。そういう君はどうなんだい?」
「それが今、少し妙な状況でね」
どうせこの従弟に隠し事などはできない。少し前から、心当たりがないにもかかわらずやけにニルス君が気になってしまうことを正直に伝えた。
とはいえニルス君の男装を勝手に暴露するわけにもいかないので、肝心なところ……相手の女性が誰か、というのはぼかしたが。詳細を省いたとしても、事実さえ伝えればユリウスは納得するだろう。
「妙だね。僕達には、媚薬はおろか精神操作系の魔法も通用しないはずだ。……全部君の勘違いで、普通に恋してしまっただけじゃないのかい?」
「確かに、一緒にいて退屈しない女性っていうのが俺の理想なんだけどな。純粋に心から愛してしまったにしては、なんというか……。もちろん彼女のことは気に入ってるぞ? でも、あくまでも純粋な興味関心で、恋愛感情ではなかったはずなんだ」
たとえるなら、檻の向こうの珍獣を見ていた感覚だ。
俺は彼女を檻から出して、触れ合う環境を整えた。だが、たったそれだけで、彼女を見る目が変わってしまうものだろうか。
「僕達にかけられた、ラシック伯爵の防衛魔術は超一流だ。どんな破魔の力をもってしても、決して破れることはない。さすがは父上が最も信頼する魔導師だよ。それに、万死の貴婦人でつけた毒への耐性のおかげで媚薬だって効くことはない」
恋に落ちるはずがないと譲らない俺に痺れを切らしたのか、ユリウスは小さくため息をついた。
「だが、それでもひとつだけ防げないものがある」――――ユリウスの手番、黒のナイトが前に進んだ。
『紫色素の異能』
駒が盤上に置かれた途端、かつんと音が響く。それと同時に、俺達の声が重なった。
……気は進まないが、直接本人に確かめたほうが早そうだ。
* * *