わたしの差異
……ああ、そうか。ノルンヘイムの皇帝陛下、その唯一のお妃様は平民の出だ。皇妃殿下が平民ということは、当然ユリウス殿下も平民の血を引くことになる。
「しょ、庶子であることを問題視しただけで、血筋については……」
「なおさら問題だ。それでは、畏れ多くも我が国の皇帝陛下を侮辱していると捉えてしまうよ? 皇帝陛下はもともと庶子だ、知らなかったでは済まされない」
可哀想に、先輩は弁明すればするほど墓穴を掘ってしまう性質らしい。
確か、まだノルンヘイムが王国だったころ、王妃の息子だった王子が変死したから寵姫の息子―今の皇帝陛下だ―が正式に王族として迎え入れられた、とかなんとか。それで大陸の三分の二を手中に収めるほどの大帝国を築き上げたのだから恐れ入る。
「生まれだとか血筋だとか、人の身でくだらない言い争いはやめたまえ。人は人だ。どうあってもそれは変わらないし、そこに貴賤などはない。理解したなら、君が侮辱したアンディーズと、騒ぎを起こして迷惑をかけた他の生徒達に謝罪をしたまえよ。先生への報告は僕からしておこう。それが君に与える最後のチャンスだ」
ユリウス殿下は毅然として伝えた。先輩は青を通り越して土気色になった顔で謝罪の言葉を口にする。しばらく教室はざわめいていたものの、ひとまずこれで手打ちになった。
「さすがです、殿下」
「僕は王として当然の振る舞いをしただけさ。……ほら、手が止まっているよ。早く続きをやりたまえ」
あっさりと答え、ユリウス殿下はすぐに頭を調合へと切り替えた。ボリス君が頭を下げていたけど、殿下は鷹揚に頷くだけで特に恩を着せるようなことは言わなかった。
「でも、少し意外です。殿下が身分制を重んじていらっしゃらないなんて。厳格な方だとばかり」
と言いつつ、『記憶』のおかげで多少は知っている。ユリウス殿下は平民の母親と庶子の父親を持つせいか、階級社会への意識は薄く平等と博愛を――――
「人間の身分なんてどうでもいいに決まっているだろう。王たる僕から見れば、等しく“民”だからね。僕が評価するのは性質と才覚、そして成果だけだ。出自では何も決まらない」
……あれ?
「覚えておきたまえ。王、民、そして道化。それがこの世界に生きる者だ。王は民を導き、民は王に従い、道化は王と対等であることを許される。細かい身分など、民の間だけにあるものにすぎない。そんなもの、生まれながらの支配者がこだわるとでも?」
平然とした様子のユリウス殿下は、至極当たり前のことのように言い放った。
とはいえ、論理自体はわたしも理解できる。国民は、君主に従っていればきっとずっと幸せだ。だから国民が幸せに暮らせるように、強い君主が正しく君臨していなければいけない。
「おっしゃる通りです。浅慮をお許しくださいませ」
『記憶』のユリウス殿下の話とは少し違ったけど、行動自体は変わらない。現実のユリウス殿下は、行き過ぎた選民思想のあまり平等主義者に見えるだけだ。自分以外のほぼすべてが石ころ同然なのだから、石ころ同士がいちいちその大きさや形で張り合っているのを見れば馬鹿らしくも思うだろう。
殿下が言う道化とやらは、身内を指すのだろうか。石ころ達の言い争いに興味を持てない殿下に代わり、あれこれと意見を言ってくれる人。石ころが見えない殿下がつまづいて転んでしまわないように、路傍の石ころを取り除くのも仕事のうちだろう。石ころ品評会の審査員長席に仏頂面で座るユリウス殿下に耳打ちするピエロを想像して、少し口角が上がってしまった。
「道理を知る者が王族として君臨するのであれば、フリグヴェリルも安泰だろうね」
「おこがましいことではございますが、帝国とは末永くよい関係を築いていけたら、と愚考する次第です。……殿下お抱えの宮廷道化師の席は、すべて埋まってしまっていますか?」
「さぁ、どうだろう。必要とあれば増えることもあると思うよ。けれど、今のところはロキ一人で十分かな。妹達も支えようとはしてくれているが」
なるほど、なるほど。少なくとも、ユリウス殿下からロキ殿下への印象は今のところかなりいいようだ。
従兄弟としてか、それとも主従としてか……あるいは、その両方か。ロキ殿下からユリウス殿下への印象はどうだろう。
「確かロキ殿下は、妹君と婚約なさっておられるんでしたっけ。公私ともにユリウス殿下をお支えできるロキ殿下がいらっしゃるなら、僕が立候補する隙はなさそうですね」
調合の手は止めずに話を続ける。やることさえきちんとやっていれば多少の雑談は許容範囲らしく、ユリウス殿下は注意深くわたしの手元を見つつもお喋りを咎めようとはしなかった。
「婚約? なんの話だい?」
「……あれ? 申し訳ございません、そう小耳に挟んだもので。僕の勘違いでしたか」
「子供の頃、上の妹とロキの縁談の話が出たことは確かにある。だが、あくまでも家臣達からそういう上奏があったというだけで、陛下も王妹殿下もそれ以上話を進めはしなかったよ。ロキも乗り気じゃなかったようだし……妹は覚えてもいないんじゃないか?」
王妹殿下……皇帝陛下の妹であり、ロキ殿下の母親である人のことだろう。
ヘズガルズは女性の王位継承を認めているし、王妃であっても国王に匹敵する権力を持つと聞く。けれど今のヘズガルズ王は彼女の兄である皇帝陛下で、ヘズガルズの王位は皇位とはまた別に独立した国家の君主のものとされている。そのためそう呼称するしかないらしい。ややこしいことこのうえない。
それはそれとして、だ。ということは、今のロキ殿下は婚約者なしということだろうか。
『記憶』では、その婚約者の皇女様はディー・ミレア学園に通っていた。あまり『わたし』とかかわることはなかったけれど、その関係性は何度も示唆されていたはず……まあいいか。わたしにとっては朗報だ。
正直、かなり心が揺らぐ。何故ならロキ殿下は、わたしがまだ『誰か』だった頃からずっと慕っていた人だからだ。その想いは今も残っている。もしわたしが国を背負う王女でなかったら、何も考えずにロキ殿下との恋に生きていたかった程度には。
でも、そういうわけにはいかない。だから理由を考えよう。政略結婚として意味のあるものだと、すべてを納得させるための理由を。
ロキ殿下はわたしの男装を見抜きながら、寮内兄弟として支援してくれるし、大国の王子なので後ろ盾としては十分すぎるほどの権力もある。顔がよくて権力もある物わかりのいい便利な男、最高じゃないか。
ロキ殿下はヘズガルズの王族だ。ヘズガルズとノルンヘイムはあくまでも同盟国同士で、表向きは対等の関係性と言うことになっている。もちろん、実際の国力は比べるまでもなくノルンヘイムのほうが上だ。だからこそ、ユリウス殿下よりかはロキ殿下のほうが安全だろう。
だって、いくら小国とはいえ別の国家をヘズガルズが併呑すれば、ノルンヘイム“帝国”への対抗心を持っているのではないかと思われかねないからだ。他国の王女と結婚した結果それぞれ独立した二つの国家の王位を継ぐことになった、のほうが印象がいい。それなら対外的には、あくまでも王妃と同等の共同統治者ということになるのだから。フリグヴェリル側からすれば正式な統治者はわたしの夫一人だけだけど、フリグヴェリルの名前は残せる。
貴族と王族では当然王族のほうに軍配が挙がる。ヴェイセル先輩やルークス君より、断然ロキ殿下が狙い目だ。保険として二人を確保しつつ、本命にロキ殿下を据えることにしよう。
ノルンヘイムの皇女から男を略奪するなんて、不利益のほうが大きすぎるからやる気にはなれなかったけど……婚約者がいないのなら、カーレンとしてロキ殿下の篭絡を狙いにいかない理由がない。仮に殿下が現実でも悪人だったとして、フリグヴェリルやわたしに害が及ぶことがなければ関係ないし。
「ニルス? どうかしたのかい?」
「いえ、なんでもございません、ユリウス殿下」
いいことを聞けてよかった。あの最良の人を落とせるというなら、俄然やる気が出るというものだ。