わたしの観戦
「わかるだろう? ──これを観測ている、お前に言ってるんだ」
殿下の視線を追って空を見上げる。抜けるような青空が広がっているだけだった。
「そのうち忘れてしまうから、夢の中なら大丈夫……なんて、自分達で決めたルールの穴を突いたつもりか? とんだ下策だよ、途中で人間に介入するなんてあまりに公平さを欠いている。それじゃ客観的な検証はできないぞ」
「……殿下? どうかなさったんですか?」
「ニルス君に接触を図った時点で神秘は剥がれた。認めたほうがいい。お前は完璧な存在じゃないし、この実験は失敗したってな。だからもう──終わらせたほうがいい」
途端に背筋が寒くなる。暑いはずなのに、心の芯が冷えていく。
周囲を見渡しても、異変を覚えているような学生はいなかった。……違う。みんながおかしいんだ。
わたし達だけ、世界から切り離されてしまったような。わたし達だけ、みんなと違う場所にいるような。わたし達だけ、みんなと違うものが視えているような。殿下だけがただ冷ややかな笑みを浮かべている。
「カーレン」
身体が自然と殿下の手招きに応じる。殿下は手を伸ばしてわたしの毛先に触れた。
ここには人の目がある。その名前で呼んではいけないのに。それに、言い訳ができないほどに距離が近い。
それなのに、周囲の学生達は誰も何も言わない。きっと気づいていないから。わたし達のことが、視えていないから。さっきと寸分たがわない位置と姿でここにいると、信じて疑っていないから。
「紫色素の正体って、なんだと思う?」
紫色の毛先をもてあそび、殿下は優しく問いかける。唐突なその問いに、わたしは内心で首をかしげながらも答えた。
「……申し訳ありません。邪神が人間にもたらした異能の力、としか」
「大丈夫、それも間違いじゃない。太古の昔に生きたある人物が、世界中にばらまいた力だからな」
そいつこそがこの世界の創造者。この世界のルールを決めて、そのまま姿を消した者。そう語る殿下は、愉悦と苛立ちを混ぜたような目をしていた。
「異能の力は、いわば進化の種子だ。生物に新しい能力を与えて、可能性を育てるための。どんな能力があるかはわからない。それでも無事に何かの能力を獲得して変化した生物は、紫色素として生まれる。……人類みな兄弟、素晴らしい言葉だ。わかりやすい血族にだけ見られるものじゃないから、遺伝するものだとは思われていないが……この変化が世代を越えて蓄積すれば、いつかは"進化"に至るだろう。人間だけじゃない。動植物も対象だ」
殿下の目をじっと見つめる。いつもと違う目をしていた。星空のような輝きが失われて、光の届かない宇宙そのものになっているからだ。
これではまるで、暗い暗い深淵を映す瞳みたいだった。その闇の奥からじわじわと混沌が這い寄ってくるような、そういう眼。
「人間が進化したら、一体何になれるんだろうな。カーレンは、何になったら楽しい?」
「翼が生えて空を飛べる、とか」
当たり障りのない回答を選ぶ。もしも何か間違えたら、引きずり込まれる。そんな気がした。
「なるほどな。そういうのも面白そうだ」
「……ロキは、どうなったら楽しいですか?」
「俺は……そうだな。概念的な話で悪いんだが……たとえば、運命だとか神だとか、そういうものに縛られないように、生物としての位階を引き上げるかな。全人類一人一人が神なのだ、っていう風にさ」
……殿下には一体、何が視えているの?
「種はもう蒔いてある。俺が教え導けば、これまで発芽していなかった奴も目覚めるだろう。紫色素の因子を足掛かりにすれば、“重なり合う者”への進化を促すこともできる」
わたしと一緒にいるのに、殿下はわたしを見ていない。
「この結果を観測たいと思うなら、二度とこの世界を利用した実験はできないぞ。すべてがイレギュラーになった世界で、再現性のあるデータが取れると思うなよ。事前に模擬検証ができなければ動けないお前に、完全に野放しになった楽園を見守る勇気があるか? 白紙なんていう枠組みすらもない、野放図な世界を前にして耐えられるのか?」
わたしと話しているのに、これはわたしに向けた言葉じゃない。
「まあ、今後もお前がこの世界に居座って実験を続けるようなら、俺はこの世界のすべてを進化させるけどな。結局お前は、この実験を終わらせるしかないんだよ」
嗚呼、それはとてもとても────つまらなくて、不愉快だ。
「ロキ」
今のわたし達が世界から切り離されているなら好都合。元に戻る前に、きっちり躾けておこう。
殿下の顎を軽く持ち上げてキスをする。がり、と強く唇を噛んだ。滴った血を薬指でぬぐい取って、わたし専用の口紅へと変える。
「お話は終わりましたか? わたしも、飽きてしまったんですけど」
呆然としていた殿下がぱぁっと顔を輝かせるのと、止まっていた時間が動き出すのはほとんど同時だった。
はっとする。ロキ殿下は普通に椅子に座っているし、わたしも何事もなかったかのようにその隣に腰掛けていた。唇に塗った血の感触はなく、そっと舐めてみても鉄の味はしない。
「今のは……」
「ニルス君」
戸惑うわたしに、殿下が微笑みかけてきた。その名前で呼ばれているということは、ここは間違いなく現実だ。
「あとはチェスで勝つだけだ。そっちも無事に終わらせるから、待っててくれよ」
歓声が広がる。どうやら決着がついたらしい。その興奮に閉ざされて、殿下の声はわたし以外には届かない。
「だから勝ったら、もっとご褒美をくれるだろう?」
「自分からねだるだなんて、悪い子ですね」
そしてロキ殿下は、さも当然のように─あとでヴェイセル先輩に聞いたところ、“近年まれに見る本気の姿”で─鮮やかな勝利を収めてわたしのところに帰ってきた。