わたしの霊夢
本日2度目の更新です。
「これでチェックメイトだな」
「うぅ……」
目の前でみすみす取られたキングの末路を案じながらテーブルに突っ伏す。談話室でやっていたせいていつのまにかギャラリーができていたけど、みんなわたしに哀れみの目を向けていた。
無理だ、勝てない。ロキ殿下、チェスが強すぎる……!
明日は寮対抗のチェス大会。チェス大会が終わればすぐに定期試験と夏季休暇が来て、それが明ければ進級式だ。
チェス大会は、特に成績には関与しない。でも、お忍びで皇帝陛下が観戦する。それに、大会と名のつくもので手を抜くのはなんだか居心地が悪い。だからみんな真剣だ。
わたしはといえば、代表選手を決める予選で敗退してしまったので応援に力を入れるつもりだけど。今日は、明日の大会に向けて殿下の実力を間近で見たいという興味本位丸出しな理由で対局をお願いしていただけだ。
「まさか一勝もできないなんて。どうしてそんなにお強いんですか?」
「子供の頃からやってたからなぁ。ラシック伯爵も伯父上も、チェスが好きでさ」
『記憶』では、ロキ殿下がチェス大会に参加することはなかった。『わたし』が誰と恋していた場合でも、殿下は追い詰められていてそれどころではなかったからだ。
殿下は閉会式に乱入したり、チェス大会の裏で暗躍したりと忙しく過ごしていた。具体的に何をやっているかは相手によって異なるけど……チェス大会が終了すると同時に、殿下はそれまでの罪を暴かれて断罪されるというのは変わらない。うぅ、考えただけで寒気がしてきた。
もちろん今はそんなこともないので、当然普通に参加してくれる予定だ。ロキ殿下がいれば、わたし達ヴィゾーヴ寮の優勝は固いだろう。
* * *
夢を見ている、というのはすぐにわかった。なんだっけ、自覚のある夢を指す言葉。……そうだ、明晰夢。
「まさか君がすべての黒幕だったなんてね、ロキ」
「少し考えればわかることだと思うけどな。余計な情に惑わされるから騙されるんだぜ?」
わたしを庇って立つユリウス殿下。正面には、悪い顔をして笑うロキ殿下。これが現実であるわけがない────けれど、わたしはこれを知っている。
「その女のこともそうだ。お前みたいな真面目な優等生が、本気で恋に溺れるさまはずいぶん面白い見世物だった。そんなにその娼婦が気に入ったのか? 喜んでもらえて俺も嬉しいよ」
「カーレンを馬鹿にするな!」
「……変わったなぁ、ユリウス。たかが女一人にそこまで執着するなんて。そんなお前に残念なお知らせだ。さあカーレン、皇子様に真実を伝えてやれ」
『わたし』の運命を決める問いかけ。ユリウス殿下と恋に落ちてしまった『わたし』に与えられた、最後の選択。
今なら引き返せると、悪魔の囁きが聞こえる。当初の目的通り、隠したナイフを恋人に突き立てて。そして祖国と家族の無念を晴らそう、と。
今ならやり直せると、天使の懇願が聞こえる。手にした復讐の刃を捨てて。憎しみではなく愛のために生きよう、と。
ユリウス殿下と共に立つ『わたし』の答えは、すでに決まっているようなものだった。
でも、わたしはそれを言わない。だって、わたしは『わたし』ではないから。ユリウス殿下を選んだ時の『記憶』とまったく同じこの光景に、付き合う必要はまるでない。
「ロキ殿下の凄みのあるお顔、久しぶりに見せていただきました。最近は蕩けたお顔しか見せていただいていないから。もちろん、どちらのお顔も大好きですけれど」
夢の中とはいえしっかり目に焼きつけておこうと、しげしげと眺める。ちょうど世界が止まったように誰も何も言わなくなってしまったので、邪魔は入らなかった。
そういえばこの人、『記憶』ではちゃんと悪役をしていたなぁ。眼福だ。ここまで悪意に満ちた目で嗤う人が、わたしの前では跪いて愛を乞うなんて。やっぱり、背徳感というものは恋情のいい刺激になるらしい。
「……この状況で出るのが、その能天気な感想か」
ややあって、ようやく世界が動き出す。ユリウス殿下が呆れたような顔でわたしを見た。
「君は実に度し難いな。君が後天的な“羽搏く者”に選ばれてから、実験は常に予想外のほうに転がっているよ。ただでさえ、“重なり合う者”によるエラーのせいで測定が困難なのに」
「はい?」
お二人の輪郭がブレる。そんな台詞、『記憶』にあったっけ。うろ覚えだ。もっともこれは夢だから、すべてが『記憶』に忠実であるわけではないけれど。
「君の魂はこの世界に招かれた。この世界の運命を決める存在として、君がもっともふさわしいと計測結果が出たからだ」
この人は違う。この人は、ユリウス殿下じゃない。夢とはいえ溢れ出した不気味さに、思わず彼から距離を取る。
「我々の用意したゲームは楽しんでもらえただろう? だから『君』はカーレン・ラグナ・フリグヴェリルとしてここにいるはずだ」
でも、おかしいのはユリウス殿下だけじゃなかった。ロキ殿下も、さっきとは打って変わった様子でわたしを見ている。
「『君』は、特に熱心にユリウス・ヴィンタケーケン・インステイン・ノルンヘイムを選んでいたね。だからきっと、この世界でも彼を選ぶと思ったんだ。それがよもやロキ・エーデルヴァイス・ヘズガルズを選ぶとは」
ロキ殿下じゃないロキ殿下はため息をつく。ロキ殿下の姿形を勝手に借りて喋るそいつは、まるで正体不明の侵略者のように見えた。
「この世界のこの時代には、定められた運命があった。我々は、それを一度白紙に戻して新たな運命を紡がせるために、滅んだ小国に生き残りの女性王族がいると仮定した。彼女が世界に刻む爪痕が、後の歴史となるように。では、世界の運命を委ねられたその姫君は、一体どんな風に生きるのか……それを予測した箱庭を、まったく異なる世界に与えたんだ。彼女に共感した人間を、この世界の“羽搏く者”にするために」
侵略者の声はノイズのように響く。侵略者は困惑しているようだけど、わたしにもその話がうまく理解できない。
「偶然にも誕生の場に立ち会ったことで“重なり合う者”の存在を観測した我々は、彼を箱庭に登場させられる絶好の機会を得ていた。だから我々は、我々が予測しうるロキ・エーデルヴァイス・ヘズガルズの行動パターンを算出したものを箱庭に付け加えていたんだ。もっとも、それでも“重なり合う者”が閉じた箱の中で何をしでかすかは観測しきれなかったわけだが」
身動きが取れない。何かを話すこともできない。今はまだそうするべきではないと、上から抑えつけられている……そんな感覚。明晰夢なら、夢の主の思う通りになるはずなのに。
「そうやって我々は意図的に“重なり合う者”ロキ・エーデルヴァイス・ヘズガルズを悪役とした。そうすることで、いずれ“羽搏く者”カーレン・ラグナ・フリグヴェリルとなる者に彼への悪感情を植え付けたつもりだった。同時代に生まれた“重なり合う者”と“羽搏く者”が敵対することによるデータがほしかったからね」
それは、いわば神様に縛られているようなものだった。人智を超えた存在を前にして、人間にできることは何もないと言われているような。ちょっと腹立たしかったけど、実際に逆らえないから仕方ない。
「箱庭に我々の作意を持ち込んだ点については、謝罪の必要があるが……今後の模擬検証の精度向上のため、これだけ聞かせてくれないかな」
ようやく重圧から解放された。“神”の許しが出たらしい。
「我々が観測した可能性は完璧だったはずだった。君も、すべての可能性の終着点を知っているだろう。それなのにどうして君は、“羽搏く者”でありながら我々の予測とまったく異なる道を選んだんだい? 指針通りに進んだほうが楽だとは思わなかったのかな?」
『わたし』でもわたしでもない、『誰か』の声が自然と浮かぶ。
侵略者の質問の意味はわからないし、浮かんだ言葉も呪文のように聞こえる。けれど、この言葉が今の質問に対する回答としてもっとも適したものだということだけはわかった。
「全キャラ攻略したのはコンプして隠しルートを探すため。ユリ様ルートは一番ロキ様の出番多かったからやりこんでただけなんだけど。だってわたし、悪役萌えだし」
* * *
目覚めのベルが鳴り響く。手を叩きつけるようにして置き時計を止めた。……何か変な夢を見た気がするけど、なんだっけ。
まあ、夢なんてそんなものか。早く身支度を整えないと。今日の朝食は何を食べようかな。