閑話5 皇太子の純愛
「スイ姫。僕は王として君を大切にするつもりがある。君は妃として僕の隣に立つ気があるかい?」
見合いの席は、いつもこの言葉で締めくくることにしていた。
こう尋ねた時、相手の反応は様々だ。ある姫君は頬を赤らめて頷き、ある姫君は勝ち誇った笑みを浮かべ、ある姫君は不服そうに小首をかしげてそれ以上をねだる。今日はどんな返事が来るだろう。
「……はい、ユリウス殿下」
東方大陸の強国ミナギサから来た皇女は、一瞬だけ悲壮に満ちた眼差しで彼方を見やる。けれど結局、その儚げなたたずまいに見合ったか細い声で肯定した。
*
文官の手によってより分けられた釣書に手を伸ばす。ここに残された釣書は、一度見合いの場を設けたうえで、僕の妃候補としていずれも考慮に値すると判断された姫君のものだ。一番上に置かれていたのは、スイ・ミナギサのものだった。
同い年の、大国の第二皇女。姉姫はすでに既婚者らしい。東方大陸とは国交が盛んなわけではないので、これを機に同盟締結へと至れたら。そういう意図で組まれた縁談だ。
今、彼女には帝都の迎賓館に滞在してもらっている。彼女が故国から連れて来た従者達はもちろんいるけれど、身の回りにはノルンヘイム側が用意した従者も置かせている。ようは監視役だ。
彼らの報告の中で一つ、気になるものがあった────スイ姫は夜な夜な一人で泣いている、と。
この僕の妃候補として選ばれておいて、一体何が不満なのか。彼女だって、前向きな返事をしたはずなのに。
まるでわからない。もうすぐ開かれるだろう春の舞踏会の前に、ぜひ真意を尋ねておくべきだ。
だから僕は彼女のもとを訪れた。事情によっては、候補者の一覧から彼女の名前を消す必要がある。決定は早いほうがいい。
まさか再訪があるとは思っていなかったのか、姫は始終おどおどとしていた。見合いの席でも感じたが、あまり社交的な性格ではないらしい。
固くならないでくれと告げても、姫は委縮するばかりだ。もしかすると、その繊細さゆえに僕の妃となることを負担に感じていたのかもしれない。
「君は、今回の縁談に乗り気でないようだね」
せめて心労を減らそうと人払いをしたうえで尋ねると、姫は目を見開いた。
「勘違いしないでくれたまえ。責めているわけではないんだ。君の正直な意見が聞きたいだけだよ」
姫はうつむき、ぎゅっと目をつぶる。ややあって決心がついたのか、姫はおずおずと顔を上げた。
「わたくしには過ぎたお話だと……。殿下のような素敵な方、わたくしと釣り合いが取れるはずもございません。より殿下にふさわしい姫君のお名前がある中で、わたくしがその末席を汚すなどあってはならないことでございます」
「そうかい? 僕はそうは思わないよ。ミナギサとしても、ノルンヘイムと婚姻を結ぶのは悪い話ではないはずだ」
「……わたくしの心の問題でございます。わたくしのように不埒な女、とても殿下の妃には……」
はらはらと涙がこぼれだす。……困ったな。女性に泣かれるのは苦手だ。
「落ち着いて。僕にふさわしいかどうかを決めるのはこの僕だ。一人で抱え込まずに話してみたまえ。ゆっくりで構わないから」
ハンカチを差し出す。姫は縋るような目で僕を見た。
涙ながらに語られた話をまとめるとこうだ。
姫には兄同然に育った護衛の男がいた。五つ年上のその男は姫に忠実に仕え、姫も彼を信頼した。勤勉な彼は他の皇族からの覚えもめでたく、生まれも名家。ゆくゆくは彼の元に嫁ぐかもしれないと、姫は幼いながらに考えていたそうだ。
だが、ことはそううまく運ばない。二年前、彼の父親が反乱を企てたせいで。
結局、その反乱は失敗に終わった。姫の味方としてあろうとした彼が、実父の背任を告発したからだ。
彼の尽力の甲斐あって反乱そのものはすぐに鎮圧されたものの、彼が姫のもとに帰ってくることはなかった。実父と剣を交え、そして敗れて斬り捨てられたらしい。
初恋の男との予期せぬ別れは姫の心に深い傷を残した。皇女の地位を捨て、神に仕える道を選ぶことを考えたこともあるらしい。
しかし世俗を離れる許可はそう簡単には下りず、城の片隅で彼の安寧を祈りながらひっそりと暮らしていたそうだ。
そんな時にノルンヘイムから縁談の打診を受けた。異国の地で皇女としての務めを果たせと送り出され、あの男のことも僕のことも裏切っているのではないかと怯える日々。彼の犠牲のうえで平穏を手に入れたのに、自分のことを忘れるのかと彼に責められているような気がして仕方がないという。そのせいで、彼女の涙は枯れないらしい。
「事情はわかった。君の心根がいかに美しいかもね」
臣下の死を引きずってばかりいれば、いずれ押し潰されるだけだ。だけど、もしもただの臣下の話であれば、姫はこうも引きずりはしないだろう。
「そのうえで伝えよう。どうか胸を張ってくれ、スイ姫。君は僕の妃にふさわしい」
彼女の目は僕を映さない。彼女の心は、とうに死んだ男のものだ。仮に彼女が皇妃のティアラを戴いたとしても、彼女が僕を愛することはないに違いない。かといって、他の男の子供を身に宿すこともなかった。
……僕はきっと、欲望のままに女性を愛することができない。他の男と親しくしてくれなんて、言えるはずがないからだ。それを叶えてくれるのは、オフェリヤだけだった。
王と妃の間に人の愛などいらない。パートナーとして尊重できれば十分だ。……けれどひとつだけ懸念があった。世継ぎをもうけるというとても大事な勤めを果たせないかもしれない、という。
果たして僕は、愛してもいない妃を前にしてその気になることができるのか。もしもできなければ笑い者になってしまう。
かといって、妃に間男を斡旋することもできない。それで僕達の愛を確かめることができたって、万が一妃が間男の子供を産むようなことがあれば取り返しのつかないことになるからだ。
────けれどこのスイ姫の前では、そんな心配はしなくていい。
僕が頼まずとも、彼女は他の男を愛している。僕の妃候補だというのに、他の男が忘れられないと泣いている。
おそらくそのことへの引け目から、もしオフェリヤのことを……“花園”のことを知ったとしても彼女は強く咎めないだろう。死人の子を孕むわけがないから、系譜が乗っ取られる恐れもなかった。この機会を逃せば、僕の妃として彼女以上の存在はきっと現れない。
「だから、辞退するなんて言わないでくれ。君を繋ぎ止められるなら、あらゆる配慮をしよう。君はどうしたらノルンヘイムに残り、妃として僕の隣に立ってくれるんだい?」
「……図々しい願いだとは承知しております。ですが、もしユリウス殿下さえ許してくださるのなら……どうか美しい思い出として、彼への想いを抱き続けたいんです。心の中でだけでも、留めることができるのなら……貴方にふさわしい妃として、最大限の努力をいたします」
手を取ると、スイ姫はそっと目を伏せて祈るように囁いた。
*
「気をつけてくれ、スイ姫。この子はおとなしいけど、万が一があるといけないからね」
「はい、ユリウス殿下」
狩猟を終えてヴァンペル城に戻ると、スイ姫が迎えに来ていた。
少し離れるよう馬上から伝えると、スイ姫ははにかみながら従った。白い毛並みの愛馬から降りて、馬の首筋を撫でる。愛馬は気持ちよさそうにいなないた。
「殿下、この子の蹄……少し、紫がかっていませんか?」
「ああ、気にすることはないよ。光の加減でそう見えるんだろう」
ふと、視線を落としていたスイ姫がそう口にする。返事をすると、スイ姫は納得したようだ。それ以上の追及はなかった。
「わざわざ外で待っていなくてもよかったのに。冷えてしまったんじゃないかい? もう日も傾いてしまったし」
「お気になさらないでください。わたくしがそうしたかっただけですもの。……お茶を用意させますから、舞踏会の時間までご一緒していただけませんか?」
「ありがとう。では、お言葉に甘えよう。……今日が春の舞踏会の最終日だ。君のエスコートはぜひ僕に」
スイ姫は、安心したように微笑んだ。
彼女はかいがいしく僕に尽くしてくれる。慎ましやかで貞淑で。少し気弱なところを除けば、実に理想的な女性だった。スイ姫のほうでも、僕のように稀有な男は二度と見つけられないと必死になっているはずだ。
思い出というのはいくらでも美化できる。どんな聖人君子でも、理想化された幻影には敵わない。
きっと彼女は、どんな時でも死んだ恋人のことを考えるだろう。
心の操を捧げるのは貴方だけだと人知れず涙を流し、好きでもない男に嫁ぐ不幸を耐えるに違いない。
彼女の夫は僕だというのに、彼女は僕に他の男を重ねて悲恋に酔いしれその結末を嘆くだろう────ああ、なんて完璧な姫君なんだ!
* * *