わたしの嚆矢
ぱちりと目を覚ます。昨日は入学式と施設案内だけで終わったので、実質今日が講義の初日だ。
ロキ殿下の寮内兄弟になったことであてがわれた一人部屋は、誰に気兼ねすることもなく自由に過ごすことができた。もし四人部屋なら、同室の寮生の目を常に気にしていないといけなかっただろう。
わたしの朝は、魔薬で満ちた小瓶を呷るところから始まった。これは、声を少しだけ低くする効果のある薬だ。
いくら魔術でもさすがに肉体そのものを改造することはできないので、女性的な曲線は制服のサイズを大きくしたり詰め物をしたりすることで隠している。外見をごまかすだけなら幻惑作用のある薬を使うこともできるかもしれないが、それには毒性があるので常用はできない。疑われて、痛くもない腹を探られるのはごめんだ。ただでさえ、疑念を抱かれかねない力がわたしにはあるのに。
寝癖のついた髪を梳いてさらしを巻き、制服に袖を通す。鏡に映るのは、どこから見ても双子の弟だった。
本物のニルスは今、カーレンとしてディー・ミレア学園に通っている。もしも父様や母様がわたし達の入れ替わりに気づいても、わたし達を連れ戻すことはもうできない。「その王子と王女は偽物でした、これから本物を連れてくるのでひとまず返してください」なんて言い出せば国の沽券にかかわるだろう。だってわたし達はもう、それぞれ別の学園に入学してしまったのだから。
『記憶』の『わたし』は、復讐のためにニルスの姿を借りた。けれど今のわたしは、国のためにニルスの姿を借りている。優秀な王子はこの学園で色々なことを学ぶし、国境を越えた人脈を作るだろう。たとえ彼が虚像であっても、一度導線を引いてしまえば後はもうこっちのものだ。
ディー・ミレア学園は、家督相続権の有無によって学ぶことが変わるらしい。フリグヴェリルの王女に王位継承権はないから、花嫁修業や淑女教育が主になるだろう。その程度のことなら、ニルスにもできるはずだ。社交は期待していない。
「だからニルス、大丈夫だよ。全部わたしがやってあげるから、安心してね」
ディー・ミレアにいるニルスには届かないだろうけど、鏡に向かって声をかけてみた。鏡の向こうのわたしは笑った。
*
「美味しいだろう? この食堂のオムレツは絶品だ」
朝食を食べるわたしの前にはロキ殿下がいる。咀嚼中だったのでとりあえず小さく頷いておくと、殿下はわずかに笑みを浮かべた。あまりの色香にくらくらする。
愁いを帯びた顔立ちのこの美少年は、『記憶』にも登場していた人物だ。
『記憶』の中のロキ殿下は、復讐を誓った『わたし』の学内における―数少ない―協力者であり、それと同時に倒さなければいけない障害だった。
『わたし』が恋をする男は全部で五人。
『記憶』は、まるでいくつも世界があって『わたし』の選択次第でそれらが枝分かれしていくように展開していく。どんな分岐であってもそれは変わらない。
『わたし』は必ずその五人の中の誰か一人と恋に落ちて、復讐を取るか愛を取るかで悩み苦しんだ。
ロキ殿下は、男装する『わたし』を支えてくれる人だ。ロキ殿下は『わたし』が女だと知っていて、『わたし』が誰を選んでも寮内兄弟として助けてくれる。
でも、『わたし』が選んだ相手によって、殿下が『わたし』に協力してくれる理由が変わる。そして、理由はどうあれ態度も必ず豹変する。
たとえば、ノルンヘイムの皇太子・ユリウス殿下を選んだとき。
ロキ殿下は、『わたし』という復讐者にユリウス殿下やその父親の皇帝陛下を暗殺させて自分が実権を握るため、あえて『わたし』の面倒を見ていた。
たとえば、担任のコンラード先生を選んだとき。
ロキ殿下は、男子校にもかかわらず手違いで女子生徒を入学させてしまったという醜聞をごまかすために『わたし』を懐柔しようと、『わたし』の世話を焼いてくれた。
そんな殿下は帝国に対する歪んだ忠誠を持っていた。だから『わたし』が復讐者であると知ると、事故に見せかけて始末しようと執拗に命を狙ってくるのだ。
たとえば、ヘズガルズの宰相の孫であるヴェイセル先輩を選んだとき。
ヴェイセル先輩は女性が苦手だ。だからロキ殿下は、側近であり友人でもある彼の苦手意識を克服させたいと思っていた。
そこで、手始めに男装の女性である『わたし』を先輩に引き合わせるつもりだった。けれど結果的に『わたし』に横恋慕してしまい、ヴェイセル先輩に対して横暴な振る舞いをするようになる。
たとえば、ノルンヘイムの名門侯爵家の嫡男であるルークス君を選んだとき。
ロキ殿下は、気まぐれで『わたし』を庇護してくれた。
もっとも、その優しさは表向きだけだ。笑顔の裏の本当の姿は、ルークス君や『わたし』のことが気に食わないあまりに端役の生徒をけしかけて酷いことをする、陰湿ないじめの首謀者だった。
たとえば、生家の繁栄を夢見るボリス君を選んだとき。
ロキ殿下は、男ばかりの学園に女を混ぜたら楽しそうだから、なんていう身も蓋もない悪趣味な好奇心で『わたし』の秘密を守ってくれた。
一方で、秘密を知る者として『わたし』やボリス君を脅迫し、様々な無理難題を押しつけては『わたし』達の困った顔を見ようとする。『わたし』とボリス君は、ロキ殿下の玩具に過ぎなかった。
たとえば、『わたし』が誰との恋も選ばず復讐も果たせないまま一年を終える、そんな中途半端な結末を迎えたとき。
ロキ殿下は協力の理由こそ明かさないまま、性別を偽る復讐者の『わたし』を断罪して学園から追放する。
未遂とはいえ、出自と目的はごまかせない。そして誰もいない場所で、『わたし』は役立たずとして殿下に消されてしまうのだ。殿下の真の目的はなんだったのか、わからないまま『わたし』は死んでしまう。
まるで物語を辿るような『未来の記憶』。どの分岐のロキ殿下も、その後の展開に一切の齟齬がない。すべての物語を俯瞰した時、明らかに事実も人となりも矛盾しているにもかかわらず。
だからすべての理由が疑わしく、頼れる人であると同時に何もかもが信頼できない人だった。今わたしの前にいるロキ殿下は、何を思ってここにいるんだろう。
でも、『わたし』が……違う。わたしが『わたし』になる前の、『わたし』を通して『未来の記憶』を見ていた『誰か』が一番好意を寄せていたのは、他ならない彼だった。
「どうした? 俺の顔に何かついているか?」
「……いえ。なんでもありません。失礼しました」
ロキ殿下から目をそらし、焼き立てのクロワッサンをカフェオレに浸す。素材のひとつひとつにこだわりぬいた朝食は、フリグヴェリル特有の素朴な味つけに慣れたわたしの舌には過ぎたものだ。
あまりにも贅沢な時間だった。前世から恋い慕った男が目の前にいるというのも理由の一つだろう。それでも美味しいということだけはわかる。これと同じ味をフリグヴェリルで再現しようとしたら、コストはどれくらいかかるだろうか?
……それにしても、本当に顔のいい男だ。すっと通った鼻筋ときめ細やかな肌を眺めるたび、神は人に二物も三物も与えるのかと瞠目してしまう。
肩につくかつかないかぐらいの長さの、さらさらの臙脂色の髪。それをまとめるハーフアップは他の少年がすれば軽薄な印象を与えそうなものだが、不思議とロキ殿下によく似合っている。軽薄どころか、むしろアンニュイな魅力が強調されてずっと大人っぽく見えた。
長いまつげに覆われた物憂げな青い瞳に見つめられると、思わず惹き込まれてしまいそうだ。よく見るとその目には金色の小さな斑点が点々と浮かんでいる。まるでラピスラズリのような、不思議な瞳だ。
……でも、『記憶』の殿下はそんな不思議な色の目をしてたっけ。『記憶』の中の殿下は、普通の青い目だったような……?
いくら悪役だったとはいえ、『記憶』の『わたし』が一度も彼と恋仲になれなかったのが悔やまれる。とはいえ、それは仕方のないことだ。だって、どの『記憶』のロキ殿下にも婚約者がいたのだから。
彼にとっては従妹に当たる、ノルンへイムの第一皇女。ディー・ミレア学園に通っているらしいけど、『記憶』の中では名前ぐらいしか聞かなかった。精々ディー・ミレア学園との合同行事があった時や、『わたし』がユリウス殿下を選んだ時の終盤に、一瞬ちらりと顔が見えるか見えないかぐらいの人だ。だから、彼女についてはよく知らない。
「謝ることはないさ。言いたいことがあったら言ったほうがいい。話ぐらいならいくらでも聞くぞ? どうせ始業まではまだ時間があるしな」
ロキ殿下は微笑を浮かべ、コーヒーを口に運んだ。
今、この長テーブルにはわたしとロキ殿下しかいない。どの寮生もロキ殿下に畏怖の目を向けているのが理由だろう。
少なくともこの寮で何も気にせずロキ殿下の傍にいられるのは、殿下の従弟のユリウス殿下と、すでにロキ殿下の一番の側近として扱われているヴェイセル先輩、そして殿下の寮内兄弟として殿下本人から呼びつけられるわたしぐらいだ。
ユリウス殿下は朝がとても早いらしく、すでに朝食を済ませているのかどこにもいない。反対にヴェイセル先輩は朝に弱いようで、朝食を摂らないことも多かった。今日はまだ来ていないはずだ。ぎりぎりで来るか、食べずにそのまま授業を受けるのだろう。
「では……殿下は何故、初対面の僕を寮内兄弟に指名してくださったんですか?」
『記憶』の通り、ロキ殿下はわたしを寮内兄弟に選んだ。けれど、その理由がわからない。『記憶』の中のどの分岐が、現実の彼に一番近いのだろう。
「そうしたほうが、君のためになりそうだったから……この答えじゃ足りないか?」
顔を上げ、ロキ殿下はあっさりとそう答えた。
「いえ、十分です。答えてくださってありがとうございます」
権力がある男はいい。見目麗しいならなおのこと。だけど使える男はもっと好き。その三つを兼ね備えているなら、最高だ。
大陸最大の版図を持つ皇帝の甥で、裕福なヘズガルズ王国の王太子。彼は美貌の中にどこか影のある憂いを背負った長身の貴公子だ。そしておそらく、すでにわたしの性別に気づいている。
ロキ殿下の本当の目的はわからない。いつか手酷く裏切られるかもしれない。けれど、彼は確かにわたしを庇護する意志を見せた。少なくとも今はまだ、彼のことは味方とみなしていいはずだ。
利用価値としてはそれだけで十分だろう。その見返りとして、殿下が何を要求してくるのかにもよるけれど……彼を利用しない手はなかった。
すでに婚約者がいても構わない。だって今のわたしは男の子だし。彼に侍り、利潤を得ることに支障はなかった。
さすがに、ノルンヘイムの皇女という婚約者がいるロキ殿下をカーレンとしてたらし込むのは、リスクが大きすぎるからやる気はない。国と色恋を天秤にかけたとき、傾くのは国を載せた皿なのだから。
……でも、目の保養ぐらいには思ってもいいはずだ。
「君はフリグヴェリルの王族だろう? あの後、ユリウスに訊いたら教えてくれた。なんでも、双子の姉君がいるらしいじゃないか。姉君は、ディー・ミレアの学生かな」
「フリグヴェリルのような小国のことを、ユリウス殿下が?」
少し意外だ。てっきり忘れ去られていると思っていたのに。よもや帝国の皇太子に存在を認識されているとは。近い未来の侵攻対象として調べられていたのだろうか。
「ユリウスは真面目だからな。周辺諸国のことなら大抵知ってるぞ。姉君の名は、カーレン……カーレン・ラグナ・フリグヴェリルで合ってるか?」
「はい。カーレンと言います」
「いつかカーレン嬢にも挨拶したいな。……俺は面白いことが大好きでね。君を見ていると、退屈しなさそうだ」
「買い被りですよ。殿下のお気持ちだけは、姉にも伝えておきますが」
ロキ殿下は満足げな様子で、わたしの目を見て微笑んだ。