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閑話4 側近の愉楽

* * *


 静かな場所が好きでした。一人で過ごせる時間が好きでした。

 話し声や笑い声、立てられる物音……かすかな呼吸の音までも、そのいちいちが気に障りました。

 うっかり誰かの手に触れてしまうたび、その異様な柔らかさと気持ちの悪い生ぬるさに怖気が走ったものです。


 けれど、私以外の誰もそんな風には思っていないようでした。ですから私は、自分はおかしいのだと自覚しました。


 生きていないものが好きです。話さないし笑わない、動かないから音もしない。眺めていても、文句ひとつ言いやしないからです。

 絵画や文学、生物の標本や剥製……その無機質さだけが私を安心させました。気狂きちがいの私でも、それらを通じてであれば怯えることなくいきものと触れ合えました。


 想像上の生物や、すでに死んでいる生物は、私を傷つけることはありません。私には理解できないことをすることもありません。生きているものを相手にするよりよっぽど楽で安全で、何よりとても落ち着きました。


 このままではいけないと、思ったことは何度もあります。

 ですから私はそれを隠し、何もないかのように振る舞っていました。そうすれば、いつかは他の人間のようになれると信じていました。普通まともになれる、と。


 実際、そうなれていたはずでした。私の考えはうまくいっていたのです。命あるものへの嫌悪を押し殺しているうちに慣れ、命あるものへの恐怖は薄れていったのですから。


 私はきちんと、他の人間達のように振る舞えていました————あの時までは。



「ヴェイセル君、君に面白いものを見せてやるよ」


 無邪気な笑顔で誘われました。この国の王太子であり、私が仕えることになるお方にです。


 当時、ロキ殿下と私はまだ知り合ったばかりでした。父上は、私達が同い年であることを好機と見たのでしょう。覚えをよくして売り込むために、私達を引き合わせたのです。

 断る言葉は持ちません。拒める道理もありません。これを機に親しくなれたら、という打算ならばありました。


 誘われたのは、私だけでした。

 連れていかれたのは、王宮の庭園の片隅にある庵でした。薄暗く、人はあまり来ないような場所でした。私自身、こんなところに建物があるのを知りませんでした。

 隠者でも住まわせているのでしょうか。庭園に隠者を置くのは、富裕層にとってはそう珍しいことでもありません。散策の息抜きがてら話し相手とさせたり、助言を求めたりするからです。


 隠者の知恵でも聞かせてくれるのでしょうか。それとも、隠し芸のようなことができるのかもしれません。

 どこにでもいるような子供の心を獲得できていた私は、期待に胸を膨らませていました。


 ロキ殿下がドアを開け、私に入室を促します。

 そこにあるものを目にした時、思わず言葉を失いました。


「どうだ? 君ならきっと、気に入ってくれると思ってな。わざわざ用意したんだ。もっと近くで見てもいいんだぜ」


 返事もできないまま、ふらふらとそれに歩み寄りました。

 きれいだ、と。ようやくそれだけ呟くことができました。


 それは、若い女性でした。それは、蜘蛛の巣に絡め捕らわれた乙女でした。


 それは、眠っているかのように目を閉じていました。それは、息をしていませんでした。


 ————それは、私が初めて目にした人間の死体でした。


「気に入ってくれたのなら贈ろう。俺からの友情の証と思ってくれ。俺は、君ともっと仲良くなりたいんだ」


 おそるおそる触れました。彼女の肢体は固く冷たく、とてもあの生者みにくいものからできているとは思えませんでした。


 胸が、目が、唇がうごめかないだけで、人はこんなにも美しく在れるだなんて。


「自分を偽るのはよくないぜ、ヴェイセル君。人はもっと素直であるべきだろう。それに、他人と違うことの一体何が悪いんだ?」


 生まれて初めて、蕩けるような感動を味わいました。普通の人間になれたというのは、ただの勘違いだったと思い知りました。


 あまりにも美しすぎるこの女性に、私は初めての恋をしてしまったのです。自分の中で、何かが音を立てて崩れた気がしました。


 その女性は、恐れ多くも殿下の暗殺を目論んだために粛清された侍女でした。女性の亡骸のことは、私と殿下だけの秘密になりました。


 殿下は特別に、庵の鍵を貸してくれました。殿下に会うという名目で、私は毎日のように王宮に赴きました。物言わぬ女性をうっとりと眺め、その美を讃える詩を捧げました。殿下は口裏を合わせてくださいました。


 やがて遺体は腐りきり、私は失恋の痛みを知りました。こんな風に思う私は、やはり何かがおかしいのでしょう。けれどロキ殿下は、そんな私を許してくださったのです。


「俺はズッキーニが大嫌いだ。でもお前は好きだろう? 俺だって、お前の嫌いな芽キャベツが好きだしな。それと同じじゃないか。好きなものなんて人それぞれなんだよ。それで優劣とか、おかしいかおかしくないかなんて決まるわけがないじゃないか」


 いつからか、ずっと自分を責めていました。他人と同じように思えない自分を否定し、封じ込めようとしていたのです。


「だからな、ヴェイセル。お前が生きた人間より死んだ人間のほうが好きだからって、何も変じゃないんだぜ」


 普通の人間になろうと思っていました。私は生きた人間達の中で暮らす、生きた人間なのですから。


 それなのに。私に手を差し伸べた殿下が、今はただまぶしくて。これ以上、自分を騙せる気がしませんでした。


 ――――ああ、この方こそが私を照らし導いてくれる光なのだ。そう理解してしまいました。


 私はもう、まっとうな人間にはなれないのです。

 けれど、後悔などはありませんでした。この方が見守ってくださるのなら、どこまでも堕ちていけるのですから。


 貴方様は生きているから触れたくないです、と言うと、殿下は愉悦に目を細めました。まるで、その言葉こそを待っていたかのように。


*


 己の本性を受け入れたからと言って、それで何かが劇的に変わるわけではありません。

 殿下はああおっしゃってくださいましたが、自分の欲望が倫理に大きく反していると判断できるだけの理性は私にも残っていたからです。


 自分を騙すことをやめたものの、周囲を欺くことは変わらず続けました。殿下という唯一無二の理解者を得られたことで擬態はよりたやすくなり、勇気も湧いてくれました。


 私は殺人に快楽を見出しているわけではありません。死体を愛しているだけなのです。

 もしも生きている人間を殺せば、その体液が私に付着してしまうでしょう。熱い血潮がこの手を穢し、生き汚い断末魔混じりの吐息を吹きかけられ、なおもあがく心臓が最期の鼓動を刻むさまを見せつけられる。それを想像するだけでぞっとしました。命の残り香など、感じたくもありません。


 愛した人が腐ってしまって物足りなさを覚えれば、紛れ込める葬儀がないか調べました。身寄りがないまま死んだ女性を探しました。

 多くはその場での鑑賞にとどめるのみでしたが、その美をしっかりと目に焼き付けて帰宅後にスケッチに収めました。幸運にも引き取ることができたごくわずかな“恋人”とは、短い逢瀬を楽しみました。


 自ら人を殺さない私が、死んだ人間と出逢える機会は限られています。それでも、わざわざ生きた人間を殺すのは危険が大きいのです。

 法に触れることをすれば、家や殿下に迷惑がかかるでしょう。人間のように大きな生き物を、それと知られず大量に殺すのもあまりに効率が悪いことでした。


 それでもただひとつ、私が殺せる命がありました。それは虫です。


 小さいせいか、あるいは見た目が大きく離れているからか、獣や人間よりはまだ殺すことに嫌悪がありませんでした。なにより手軽で、罪に問われないのです。


 いつしか、綺麗な虫を捕らえてはそれで標本を作ることが楽しみになっていました。

 標本を眺めるのは元から好きでした。自分で作るようになっても、家族や使用人もいぶかしがることはありませんでした。


 特に出来のいい蝶の標本を何点か、ロキ殿下に献上しました。あの日の運命の返礼には到底足りませんが、友情の証ぐらいには思っていただければいいと。


 殿下はその出来栄えを褒めてくださいました。

 私が美しいと思ったものを、殿下も認めてくださっているのです。そのことは大きな自信に繋がり、私の欲求をも満たしました。


 私はロキ殿下によって、己が進むべき道を知りました。

 殿下に教化され、本当の自分の姿を認めることができたのです。


 殿下には、返しきれない恩があります。それと同時に、私は殿下に忠誠を誓う以外の選択が残されていません。


 殿下さえいなければ、私は一線を越えずに踏みとどまれていました。


 自分が狂人であることを思い出させ、私の人生を破壊した殿下。死体を愛していいことを知らないまま、まっとうに生きられた可能性を摘んだ殿下。戯れで私の一生を終わらせた殿下には、一生をかけて償っていただかなければなりません。


 私の忠義を受け取り、命ある限り侍ることを赦すこと。私はそれを殿下に求め、殿下も応じてくださいました。


 そのおかげで、私の生は報われました。人生を台無しにされた代償に、かけがえのない二つの歓びを手にすることができました。


 美しい死体を愛でる以外に幸福を感じることがあるとすれば、それは殿下にお仕えすることだけなのですから。

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