閑話3 教師の改過
毎日のようにサロンや舞踏会に顔を出した。カード遊びを覚え、貴婦人に囲まれる学者を屁理屈で言い負かし、名前も知らない令嬢達と踊り続けた。
私を気に入った夫人達に、次はどんな愛の言葉を囁くか考えるのが唯一の楽しみになった。
社交界にデビューしたてのませた少年の気障な台詞など誰も本気には取らなかったが、本気にしない相手こそ後腐れがなく心地よかった。彼女達もそれはわかっていたのだろう。息子、あるいは弟―当時の女性の初婚年齢は若く、姉同然の年頃の女性がすでに誰かの妻であることも珍しくはなかった―のように可愛がってもらった。気づけば家にいるよりも、遊び歩いている時間のほうが長くなっていた。
ただ、どれだけ愛されていても、心が満たされることはなかった。どれだけ愛を注がれようと、決して消えない飢餓があった。
両親の愛にすっかり溺れた私の器は、とうに底が抜けてしまったのだろうか。その苦しみから逃れるために、私はいっそう愛を求めた。
そんな日々が二年ほど続いただろうか。それぞれ高尚な役目を担う兄達と放蕩に耽る私とでは、大きく差が開くばかりだった。
父上は魔導師としてカイに背を預け、領主としてクヌートに檄を飛ばした。優しい父親の顔はなりをひそめ、ついに私には目もくれなくなった。
今にして思えば、そういう時代だったのだ。当時王太子だったシグルズ陛下は数々な改革をもたらし、同時に大陸全土を飲み込む戦禍を招いていた。伯爵位を持ち宮廷魔導師長としての立場もあることを思えば、たとえ家族の前であろうと甘い父親の面を見せる余裕があろうはずもないだろう。
父上とカイが敵国を攻め、クヌートが領地を守っている間、私は王都で日がな一日呆けていた。戦乱の風の吹かない社交界で、父上とカイの活躍をどこか他人事のように聞いていた。さしたるとりえもない、齢十四の子供にできることなどそれ以外にあるものか。
短くも激しい戦争が終結し、ノルンヘイムが王国ではなく帝国と呼ばれるようになった時、長兄の腕には一人の赤子がいた。へズガルズの王太子の遺児、ロキ王子だ。
この国の王女であった方を母に持つその貴き赤子は、このノルンヘイムにて育てられることになった。教育係という名目で、その護衛を任じられたのが長兄らしい。
長兄と王女殿下が恋い慕い合っていたという噂は、ロマンスあるいはゴシップを好む者達の間の与太話としてのみ語られていた。実弟たる私にその真偽を問う者もいたが、そのようなことを私が知っているはずもない。
確かにカイはシグルズ陛下に忠実に仕えていた。幼き日のシグルズ陛下が周囲から妾腹と蔑まれて孤立していた頃から、唯一の臣下として。
その縁から、妹君のエイル王女殿下にも気に入られていた節はある。そうでなければ、殿下が人目を忍んでラシック家を訪れるはずもないだろう。だが、二人が何を話し、何かを通わせていたかなど、部外者に過ぎない私の知り及ぶところではなかった。
王女殿下がへズガルズに嫁ぎ、その噂も下火になった矢先の教育係任命だ。惚れた女の息子を世話する男の哀れさを嗤う宮廷人は、それこそをカイの瑕疵としたかったのだろう。とうのカイはどこ吹く風を貫いていたようだが。
平和が戻り、私は相変わらず年上の貴婦人達に侍る日々を過ごした。
同世代の令嬢からの好意は純粋すぎて、孤独を癒すどころかむしろ痛かった。それよりも、愛玩と割り切れる程度には分別のある夫人の愛撫や、酸いも甘いも嚙み分けた未亡人の気だるげな手招きのほうが抵抗がなかった。
何かが足りない、何かがおかしい。私がなりたかったものは、こんな形をしていただろうか。違和感の正体も掴めないまま、愛に溺れた私は退廃を揺蕩い続けていた。
再びの転機が訪れたのは十六の時だ。シグルズ陛下が、王侯貴族の子息を対象とした学園を新たに創設した。新入生として入学できる年齢は過ぎていたが、そこへ私を編入をさせると父上が決めたのだ。辺境に建つ、閉ざされた寄宿舎に。
ああ見捨てられたのだ、と思った。ついに私は、無条件の過度な愛を注いでくれたはずの両親にすらも見限られてしまった。社交界で堕落した放蕩息子の末路として、実にふさわしいではないか。それでも、見限られるだけの何かがあったことだけは、少し嬉しかった。
そして私は年下の少年達に混ざり、デア・ミル学園の一期生となった。
勝手はもちろん異なるが、社交界で身に着けた処世術は大いに役立った。どうやら比べる相手が悪かったようで、自分で思っていたよりも勉強ができるらしかった。意外と一期生には十五、十六の若者も多く、悪目立ちするようなことはなかった。
たのしい、と。純粋にそう思えたのは、いつ以来だっただろうか。ここでは先駆者の陰に怯える必要も、居場所を求めてあがく必要もなかった。自由がそこにあった。
上から数えたほうが早いような成績を修め続け、私は飛び級―と言っても、年齢通りの学年になっただけだ―で卒業することになった。
卒業の日が近づくにつれ気鬱になった。この自由な鳥籠が開け放たれて外の世界に蹴り出されることが、なにより恐ろしく感じられたからだ。
思い悩む私を見かねたのだろうか。恩師が提案してくれた――――この学園の教師にならないか、と。
今いる教師はみな生徒の父か祖父程度の年齢で、生徒を指導するには足りるがどうにも相互理解に至れない。もっと生徒達の気持ちがわかる、若い教師が必要だ。君は優秀だし、なによりこの学園の初めての卒業生だから、きっと生徒達の力になれるだろう。
恩師のその言葉は、ひどく甘美なものだった。
確かに、爵位を継がない私は何か職を見つけなければならない。
家に戻らず、未亡人達のもとで飼われる暮らしもいつまで続けられるものやら。それならばこの鳥籠に残ったほうが、よほど有意義ではないだろうか。
そして私は大学へ進学し、四年を経てから教師として母校デア・ミルに帰還した。
教師の仕事は肌に合った。巣立つ雛鳥を見守りながら、自分はいつまでも鳥籠に残っていられた。外界から隔離されたこの学び舎が、私の新たな居場所だった。
独り立ちした私はもう、家に戻ることはなかった。あの日私を見限った父上は、今度こそ本当に私を息子と認めてくれただろうか。それを確かめる勇気もなかった。
怖かったのだ。再び両親の愛に包まれることがあれば、またあの柔らかな地獄に連れ戻されるような気がしてならなかった。
教師になって二年ほど経った頃、父上が当主の座と魔導師長の位を長兄に譲り、自分は権威ある魔導学園の長になったと聞いた。そちらで教鞭を取ることもちらと考えたが、魔術の才なき私には夢のまた夢だ。相変わらず、私はデア・ミルでの平和を謳歌していた。
それでもただ一つ、悔いはある。無能がゆえに苦しいほど愛されたのだから、才ある者となれば正しく愛してもらえるかもしれない、と。
私に魔術の才があれば、間違いなく父上は私を認めてくれるだろう。だが、己の凡庸さを今さら悩んでももう遅い。
それならせめて優秀な妻を娶り、優秀な子をもうければいいのではないか。それが叶うのであれば、一歩踏み出す勇気が湧いてくる気がした。
しかし悲しいかな、相手がいない。
妻子という可能性に気づいた時には、すでに私は二十七になっていた。同世代の女性はとうに結婚しており、未婚の者には相応の瑕疵がある。親しかった未亡人達も儚くなったか、あるいは子を産める年齢ではなくなったかで頼れないのだ。
ではその娘はどうかと思っても、ここでまた問題がある。その子の妻との過去の関係を厭った夫に拒まれる場合が半分、私自身の気の持ちようが半分だ。
縁談に乗り気な少女達の眩しいまでのまっすぐな好意は、やはり私には重すぎた。
見合い話は母上からも届いた。だが、紹介される若い娘達の熱意は私を気後れさせるばかりだった。
クヌートの元には息子が二人いたし、カイですらいつの間にかどこかの娼婦に娘を産ませていた。ずっと鳥籠の中にいた私だけが大人になれていないような気がした。
姪はその幼さゆえか、私を恋愛対象として見ていなかった。彼女なら血筋的にも申し分ないし、純粋な眼差しに苦しめられることもないだろう。しかし何度求婚しても、了承を得られることはなかった。
四年経った今も、姪ほど可能性のある花嫁を見つけられていない。先日も姪に……というより、カイに求婚を拒まれたばかりだ。姪は私の目論見など気づいてもいないようだし、もう諦めたほうがいいのかもしれない。
今日は姉妹校のディー・ミレア学園との交流会で、朝から生徒達も浮足立っている。あの甘酸っぱい空気を無邪気に味わえるほど若くないという事実も、心に重くのしかかった。肉体が成長し、年を重ねてみたところで、結局愛を得られなければ私は半人前のままだということなのだろうか。
「おや。ニルス君、ここで何をしているのかな」
「ッ! あ、あの、道に迷ってしまって……」
迎賓棟を歩いていると、おどおどと歩く生徒を見かけた。受け持っている一年生の名前を思わず呼んでしまったが、ミレアの制服を着た少女だ。よく似ているので間違えてしまった。謝罪をすると、少女は気まずげに微笑みながら名を名乗った。どうやら彼女はカーレンといい、ニルスの姉らしい。
ここは男子校だ、平時であれば女学生がいるわけがないが……今日がミレアとの舞踏会の日で、彼女がミレアの学生なら話は別だった。
今日はどちらの学校も休講だ。パートナーが決まっていれば、ミルの学生がミレアの学生を夜の舞踏会に間に合うよう迎えに行くし、決まっていないのであればミレアの学生同士で連れ立ってここに赴き、迎賓棟でミルの学生と巡り合う。そういう流れになっていた。カーレンのことはロキ王子が迎えに行ったようだが、ふとしたことではぐれてしまったという。
「殿下は、第八休憩室というところを押さえてくれているそうなのですが……」
「なるほど。ではそこまで送ろう、ついてきなさい」
日はまだ高い。休憩室に衣装を運び込み、パートナーと相談しながら着飾るペアは珍しくはなかった。彼女達もそうなのだろう。
第八休憩室に向かう間、カーレンととりとめない話をした。弟のニルスは利発で快活な印象を受けたが、姉のカーレンは淑やかで思慮深い。双子でも性格は似ていないようだ。ただ、カーレンと話しているとなんだか落ち着くような気がした。何か彼女には私と似たようなところがある、そう思えてならないのだ。
彼女がはにかむたび、錆びついていた歯車がゆっくりと回り出す。私に欠けていたものの答えを、彼女は知っているのだろうか。
「ありがとうございました、コンラード先生」
「ああ。舞踏会、楽しんでおいで」
目的地に到着したものの、カーレンの表情は硬い。まさか、ロキ王子のパートナーを務めるのは気が進まないのだろうか。尋ねる間もなくカーレンは休憩室に入っていってしまった。
結局、その後舞踏会会場で見たカーレンは華やかな笑みを浮かべて仲睦まじげにロキ王子と寄り添っていた。あの時の心配は思い過ごしだったらしい。同時に、彼女に抱いた親近感も錯覚だったと思い知らされた。
「あ……コンラード先生。先ほどはありがとうございました。その、姉がお世話になったようで」
羽目を外して不埒な行為に至る学生達がいないか棟内を見回っていると、背後から声がかかった。今度こそ本物のニルスだ。普段とは違い、どこか気弱そうに佇んでいる。
「当然のことをしたまでだよ。ニルス君は大広間にいなくていいのかい?」
「少し疲れてしまって。一緒に過ごすような相手もいないし……探す気にもなれないし」
どこか静かなところを探していました、とニルスははにかんだ。私の中で、再び歯車が回るような音がする。
日ごろの快活さはすっかり鳴りを潜めている。そのか弱さは昼のカーレンを彷彿とさせた。いや、むしろこの姿こそ彼の本来のありようなのだろうか。
一国の王子として、その細い肩に乗せられた重圧は測り知れないだろう。いつ他国に足を掬われるかもわからない。それでも彼は、戦うことを選んだのだ。
弱い自分を見せない仮面を被り続けるのは、私にはない強さだ。だからこそ、不意に弱さを見せたニルスのことがひどくいじらしいものに見えた。
「あの……先生、これは聞き流してもらって構わないんですが」
ニルスと別れようとすると、そんな風に呼び止められた。何か用事があるのだろうか。
「なんだか僕達、似てると思いませんか?」
教師と生徒以上の交流を持った覚えはないし、この場でかわした言葉も短かった。
それでも彼は、ある種の確信を持っているかのようにそう尋ねる。
――――月に照らされた自嘲気味な微笑みに、何故だか強く心惹かれた。