わたしの準備
狩猟大会を明日に控え、わたしとロキ殿下、そしてユリウス殿下は厩舎に来ていた。
わたしは以前、ユリウス殿下の暗殺とロキ殿下の失墜を目論む先輩達の密談を聞いてしまった。その時に、彼らがユリウス殿下の馬に害をなそうとしていると知ったのでロキ殿下に相談したところ、馬の様子を見に行くことになったのだ。
「其は光。あまねく生命を照らし出すもの。万物が賜りし至上の栄冠」
ユリウス殿下の馬は、つややかな毛並みの白馬だ。ユリウス殿下が手綱を握る横で、目を閉じたロキ殿下は何か呟きながら白馬に触れている。
「神は自ら動かない。故に歩みを止めるな、迷える子らよ」
集中しているのか、ロキ殿下の顔は険しい。汗が一筋つぅっと伝った。拭いてさしあげたいけど、下手なことをして集中を乱したら悪いだろう。
「ならば第二の摂理、【万物の教導者】の名において赦そう――知恵ある者が見出した、新たな道を行くことを」
白馬がいななく。体を震わせ、後ろ脚を大きく蹴り上げた。
目を開けたロキ殿下はふぅと息を吐く。もう動いても大丈夫だろうと、わたしはハンカチを取り出して彼の汗をぬぐった。ユリウス殿下が馬を撫でている間に、ロキ殿下に問いかけてみる。
「ロキ殿下、今のお言葉はなんですか? 何かの宗教の聖句でしょうか」
大陸には統一された神の教えはない。昔は大陸全土で聖鐘教という宗教が信仰されていたけれど、ノルンヘイムの皇帝陛下がその教義を弾圧して以降は下火になったからだ。皇帝陛下を現人神とする教団や、人に紫の異能を与えた神を信仰する教団なんかがあるぐらいだろうか。
ただ、神はひとりだけど、国によって違う名前で信仰しているような場合が一番多いらしい。フリグヴェリルはもともと自然崇拝が根付いているのであまり関係ないけど。
「ただのまじないさ、気にするな。これで多少のことなら馬も動じなくなったはずだ」
君の馬にもかけてやろうか、とロキ殿下はにこにこしている。せっかくのロキ殿下のご厚意なのでありがたく受け取っておいた。
殿下は自分の馬にも同じおまじないをかけていたけど、三頭の馬は別に変わった様子は見られない。まあ、こういうのは気の持ちようか。
「頑丈にしたし、痛覚も鈍くしておいた。骨が折れても問題ないと思うぜ。ついでに、もっと疾く走れるようにしたから、振り落とされるなよ」
「副作用は?」
「寿命は二年ぐらい削れたかもな。あと、すぐに腹を空かせるだろうから飼い葉の量を増やしてやってくれ」
ロキ殿下とユリウス殿下が難しい顔で何か話している。……どうやらただの気休めではなさそうだ。聞き耳を立てていると、わたしに気づいたユリウス殿下が説明してくれた。
「いいかいニルス、これはまじないなんかじゃない。ロキの異能だ。副作用が強いから乱用はできないが、動植物に新たな力を与えることができる。……ロキ、説明する気がないなら何故彼を連れて来たんだい?」
「嘘は言ってないぜ、言葉自体はただのまじないだからな。あれは、今から力を使うっていうただの合図だ。ようは気分の切り替え用だな。ニルス君に訊かれたのは、俺が何を詠唱したか、だったろう?」
「屁理屈を言うのはやめたまえ」
ユリウス殿下にぴしゃりと叱られて、ロキ殿下は肩をすくめた。
「俺の異能は生物の変異を促すんだ。やがて進化に至るためのな。こいつらは虚勢済みだから、突然変異で終わるだろうが」
「でも、ロキ殿下は紫色素ではありませんよね?」
服の下の素肌はさすがにまだ目にしたことがない。人の目に触れないような場所に痣か何かが浮かんでいるのだろうか。その可能性もあったけど、とりあえず否定の形で尋ねてみる。ロキ殿下は茶目っ気たっぷりに片目を閉じた。
「紫色素だってことにしておいてくれ。そういうことにしておけば、余計な詮索もされないし説明の手間も省けるんだよ。俺にこんな力があるなんて、一握りの人間しか知らないことだからな」
「はぁい」
四か月ほどロキ殿下のお傍に侍っていて、わかったことがひとつある。ロキ殿下が話をはぐらかそうとしているときは無理に質問を重ねず、聞き分けのいい返事を返したほうがいい、ということだ。
本当に必要なことならば、そのうち殿下のほうから改めて説明があるだろう。その時にわたしが理解できるかは別として。
けれど、殿下はすぐに視線を動かす。何もない虚空を一瞬だけ睨みつけてから、小さな声で吐き捨てた。
「ヒトの極北、真理の体現者、領域外からの観測を拒み重なり合った可能性。……まったくたいそうな名前だよ、よりにもよって世界の導き手とは。俺はただ、俺にとって楽しい方向に物事が進んでいけばそれでいいのにな」
「殿下?」
「……ああ、悪い。ただちょっと、どこぞの悪趣味な観測者の視線を感じてな。これもあるから、あまり力は使いたくないんだ」
誰かいたんだろうか。周りを見渡してみる。人払いはすでに済ませてあるので、わたし達以外の影はなかった。
でも、ロキ殿下はまだ何かを警戒しているみたいだ。どこかうんざりした様子で、殿下はぶつぶつと独り言を呟いている。
「こっちの声は届くんだろう? 何度も言うが、俺はお前達を楽しませるために動く気はない。世界を終わらせてほしいなら他を当たってくれ」
どうしたんだろう。心配になって、ユリウス殿下にアイコンタクトを試みる。ユリウス殿下はやれやれと肩をすくめて首を横に振った。
「ニルス、気にしなくていいよ。あの能力を使うと、ロキはいつもこうなんだ。だいぶ神経を使うらしいから、まいっているんだろうね。放っておいても害はないから勝手に喋らせておくといい」
「お疲れなのですね……」
可哀想に。寮に戻ったら、ロキ殿下のために温かいハーブティーでも淹れてあげよう。
*
狩猟大会の日は、よく晴れた絶好の狩り日和だった。深夜の大焼肉会に向け、ヴィゾーヴ寮生の闘志は燃えている。
各寮の代表として、四年生の監督生がそれぞれ宣誓を述べた。狩猟大会の指揮を執る先生が、大会のはじまりを告げる。広い森の中に、三寮の学生達が一斉に飛び込んでいった。
「ユリウスの傍にはルークス君がいる。ユリウス自身も腕に覚えはあるし、向こうは任せて大丈夫だろう」
「安心しました。じゃあ、早く獲物を追い詰めないといけませんね」
わたしとロキ殿下は並走して森を駆ける。たまに遭遇する普通の獣や弱そうなモンスターは、ヴィゾーヴ寮の得点稼ぎとして利用させてもらった。
狩猟用に放たれた獲物には管理用の魔具がついているので、それに寮章をかざせば該当寮の天幕まで勝手に転送される仕組みだ。あとは大きさやら種族やらを基準に、審査委員が点数をつけてくれる。
わたしの得物は弓だけど、殿下は魔術で次々と獲物を仕留めていく。
森の中かつ馬を連れての狩猟ということで、派手な魔術は使えない。それでも魔術に自信のある生徒は繊細な操作によって魔術での狩猟を行うようで、殿下もその手の人らしい。一応弓も扱えるけど、魔術のほうがコントロールしやすいんだとか。
「あ。あの子、使えそうです。惹きつけておきますね」
「なら、ここで二手に分かれるか。合流地点までの誘導は任せてくれよ」
鈍色に輝くその甲虫型モンスターは、ざっと見積もっても馬車ぐらいの大きさがある。発達しすぎて角が生えているように見える大顎は、本物の剣さながらの鋭さだ。ずらりと並んだ牙の状態もよさそうだし、ちょうどいいだろう。
ロキ殿下を見送ってから、鋸角の大甲虫に魅了をかける。モンスターはたちまち発情状態に入り、わたしに近寄ってきた。
さて。あともう二、三匹、使える男を捕獲してこようかな。