わたしの趣味
ラシック伯爵による魔術学の特別講義は、とても有意義なものだった。
特に、破魔の力でも破られないほど強力な防衛魔術は興味深い。わたしが一番得意な風の属性と縁が深かったから、あれなら修得できるかも。
残念ながら攻撃に特化した魔術については触れられなかったけれど、帝国最先端の魔術学の一端は学べたのでよしとしよう。
特別講義にかまけていて、通常の講義がおろそかになるのはいけない。何事も配分が大事だ。他の科目の予習復習も手は抜けない。わたしの失態は、わたしを寮内兄弟に選んでくれたロキ殿下の顔に泥を塗ることにもなりかねないから、なおさらだ。
でもさすがに学業に追われる日々ばかりでは疲れてしまうので、日常にちょっとした癒しを取り入れることにした。趣味と実益を兼ねたそれは、植物園の小さな個人菜園だ。
魔薬学の講義の一環で使用した花壇の水やり当番をしていた時に、偶然見つけた空きスペース。植物園の管理人に訊いてみると、申請すれば個人のものとして使っていい場所だという。
早速申請し、植える種を調達してきた。これでこの場所はわたしの畑だ。これで魔薬の素材は手に入るし、緑を眺めて癒しを得ることもできる。素晴らしい。
植物園は魔術で調整された温室なので、季節はあまり関係ない。さっそく畑に種をまき、水をやること数日。ぷくりと小さな芽がいくつか出てきた。ドクヘビグサ、シビレノノイチゴ、クロキノコモドキ。うんうん、順調順調。すでに土全体をうっすらと覆う緑色はウラニワハビコリだ。ニセタンポポはもうしばらくかかるかな?
「何を悦に入っているんですか」
「げ。ヴェイセル先輩」
わたしの背後には、虫取り網とじょうろを手にして立っているヴェイセル先輩がいた。空の小瓶もいくつか下げている。ここは個人菜園の区画だから、近くに先輩の菜園があるのだろう。
「どうしてよりによってウラニワハビコリを育てているんです? 貴方の菜園が破壊されるのは構いませんが、他の区画に侵食する前に抜いてくださいよ」
わたしの菜園を覗き込み、ヴェイセル先輩が深くため息をつく。確かにウラニワハビコリは圧倒的な繁殖力を誇る野草だ。迂闊に育てると、他の植物の栄養まで奪いかねない。
「ウラニワハビコリと一緒に育ててもなお生き残った薬草は、通常より強い効能が期待できるんですよ」
「初めて聞きました。そんな理由で菜園を戦場に?」
「フリグヴェリルの言い伝えです。フリグヴェリルではそれが普通ですが、何か問題でも? ご心配いただかなくても、自分の領地のことは自分で管理いたします。他の領地に迷惑はかけません」
ヴェイセル先輩は、付き合っていられないとばかりにわたしから離れた。離れたと言っても、向かう先はすぐ傍の花壇だ。色とりどりの綺麗な花が咲いていて、蝶が何匹か飛び回っている。先輩はおもむろに蝶を捕まえ始めた。
「オオミツドリガは使い道も多そうですけど……セイモンアゲハって、何かの素材になるんですか?」
「いいえ。これは標本にするんです」
先輩が慣れた手つきで小瓶に蝶を入れていくのを見ながら何気なく尋ねる。返答は簡単なものだった。なるほど、観賞用か。確かにどれも見応えのある翅をしている。
めぼしい蝶を採った後、先輩は花壇の水やりを始めた。ハルノヒラン、ベニオウギバナ、クジャクババラ。よく手入れをされていてとても綺麗だけど、どれも魔薬の素材にはならない……と思う。園芸が趣味なのかもしれない。
「あの、先輩。この前呼び出されたことなんですけど」
「殿下からお叱りを受けましたよ。可愛い後輩をいじめるなと」
むっとしたように言い返された。ちゃんとロキ殿下は物申してくれたらしい。……よかった、今日の先輩はまだ理性があるみたいだ。
「私はニルス王子を慮っただけだというのに。ひどい誤解もあったものです」
「どこがですか」
「貴方が自ら望んで殿下のお傍に侍ると言うなら、それもまた運命というものでしょう。ですが前に申し上げた通り、第一の側近の座は決して渡しはしませんからね」
「狙ってないので大丈夫です」
わたしが目指しているのは、殿下の側近ではなく妃の座なので。
「ふ、小国とはいえ王子は王子。ヘズガルズの王太子に仕えるなど、望むわけがありませんでしたね」
それは確かにそうだ。わたしがロキ殿下に臣従を誓えば、フリグヴェリルがヘズガルズに降ったと思われてもおかしくない。学園内での関係は、学園内でのみ有効であるべきだった。
「度重なる無礼、謝罪いたします。先走りが過ぎました」
「本当ですよ、まったく。ですが至らぬところも多い僕ですので、これからもご教授いただけると幸いです」
先輩は深く頭を下げ、立ち去っていった。
これで和解は成立した。いずれヘズガルズの王妃になる者……その弟として、ここで軋轢を残しておくのは好ましくない。カーレンへの悪感情に繋がりかねないからだ。
あれから少しローフォール家について調べてみた。『記憶』の中では、ただヴェイセル先輩の実家で、ヘズガルズの宰相を輩出した家だとしか語られていなかったけれど……現実のヘズガルズ史において、その名は結構重要だったらしい。
叩き上げでヘズガルズの宰相になった、ヴェイセル先輩のおじいさん。彼はロキ殿下のお母上と一緒にクーデターを首謀してろくでなしの王族を失脚させる程度には、血気盛んな策謀家らしかった。
共謀の事実がある以上、ローフォール家は容易に切り捨てられないだろう。先輩のお父さんも外交官として権勢を振るっている。その地盤が先輩のお兄さん、そして先輩に引き継がれるのは明白だ。のちの国母と結託している重鎮貴族の一門、未来の王妃としては味方に引き入れておきたかった。
それからしばらくして、ヴェイセル先輩からプレゼントが届いた。中身は額縁に収まったビイドロタテハの標本だ。先輩が自作した標本だろう。
ガラスのように透き通った薄い透明の翅は、淡い虹色の光沢を放っている。悔しいけど、かなり美しい。
ビイドロタテハ自体、珍しい種だったはず。蒐集家には高値で売れるだろう。でもせっかくなので部屋に飾ってやることにした。蒐集家のツテはないし、もらったものを横流ししたと知られれば面倒なことになる。珍しい、足がつきやすい品なのだからなおさらだ。
「カーレン、あの蝶の標本、ヴェイセルの作品じゃないか?」
「いただいたんです。この前のお詫びということで」
「珍しいな、あいつが人に標本をやるなんて」
すっかり互いの部屋を行き来するようになったロキ殿下は、その小さな模様替えにすぐ気づいた。意外そうに標本を眺めている。
「俺にも何か、綺麗な物を贈らせてくれよ。何がいい?」
ロキ殿下は跪き、ソファに座っていたわたしの足に触れる。彼の胸にあるのは嫉妬だろうか。そうであればいい。オフェリヤを見た時の焦燥と苛立ちを、殿下にも感じてもらえるのであれば。
「では、貴方の瞳を。今はまだ人に知られないよう、宝石箱の奥底にしまわせていただきますが」
わたしだけを見つめるこの美しい目を抉り取ってしまえば、その瞬間だけを切り取れる。この人の目に、わたし以外の何かが映ることは二度とない。閉じ込めて、わたしだけのものにしてしまいたい。
だけど、それはできない。それでは何の意味もないのだから。わたしが愛しているのは、ただのロキ・エーデルヴァイスでありヘズガルズの王太子ロキ・エーデルヴァイス・ヘズガルズだ。どちらかが欠けてしまえば意味がない。
「最高のラピスラズリを用意しよう。それに合うドレスもな。着飾った姿はいずれ必ず披露できるようにするが、今だけは君を独占したって構わないだろう?」
猟奇的なおねだりの先にある代替の答えを導いて、殿下はたやすく了承した。
脛から足の甲にかけてゆっくりとキスをされる。それに幸福を覚えるのもつかの間、ちいさな不安がぼたりと落ちて染まっていく――――この関係は、学園を卒業しようと続くのだろうか。
もしも殿下が終わらせようとするのなら、その時は。
その選択が誤りであると、きちんと調教してあげたほうが殿下のためになるのかもしれない。