わたしの困惑
書架の間をぐるぐる回る。二階建ての図書棟はとても広い。在学中の四年間どころか一生かかっても蔵書を読み切るのは難しいだろう。
探しているのは、史学の課題で使う参考書だ。内容は文化史、提出期限は一か月後。史学のルゾ先生は、ありきたりな丸写しのレポートを嫌う。いい評価点がほしかったら、たくさんの資料を用意して視点も工夫したものを書かないといけなかった。
わたしのテーマは、大陸食文化の変遷と改革。主要国をピックアップして、料理が国と民に与えた影響をまとめる予定だ。
他国から嫁いできた王族がその国に何をもたらしたのか、とか、他国の文化を取り入れることで生活にどんな変化が起きたのか、とか、他国のものを自然に受け入れるためにどうやって自国風にアレンジしたのか、とか。
六割は書き終えたけれど、ここにきてまた別の資料がほしくなってきた。モンスターの生態だ。
やはりフリグヴェリルの王族としては、モンスターを食べるフリグヴェリルの文化にも触れておきたい。
何がきっかけで狩猟したモンスターを食べるようになったか、他国でもその文化を受け入れる土壌ができる余地はあるのか。それらをレポートに盛り込むため、わたしは参考書の洗い直しをしていた。
一見無関係そうな資料から情報の取捨選択を行い、繋ぎ合わせて一つのレポートを作る作業はなかなか楽しい。
フリグヴェリルに生息する、食べていいモンスターの調理方法なら知っていた。だからフリグヴェリルにいないようなモンスターの生態を調べ、どう狩猟すればいいか、どう調理すればいいかを考える。
行動パターンが掴めれば狩猟のこつがわかるし、毒性と肉質を把握すれば取り除くべき部位がわかる。生息域や主食がわかれば、肉の匂いや味にもあたりがつくだろう。そうすれば、調理方法の目星もつく。
参考になりそうな本を見つけては書架から抜き取って、取っておいた席に持っていく。今日は地曜日、休日だから利用者は少ないけれど、モンスター関連の書籍は棚の空きが目立つ。狩猟大会に備え、予習している人がいるんだろう。
選んだ文献をぱらぱらとめくっては、レポートに使えそうな部分がないか探していく。参考資料にできない物は本棚に戻して、また新しい本を見つける。その繰り返しだ。
「あっ」
「……」
一冊の本に手を伸ばした手が、誰かの手と重なった。肩の上で一つにくくられた少し長い茶髪と、眼鏡の奥に染まる夕焼け色の目。神経質そうな、目つきの悪い男子生徒……ヴェイセル先輩だ。
ヴェイセル先輩は舌打ちをして、わたしの指が触れた手を不快そうにぬぐう。本も取らずにそのまま立ち去ってしまった。
女嫌いのヴェイセル先輩にそんな反応をされるなんて、まさか男装が見抜かれた……?
一抹の不安を覚えながら、譲られた本を抱えて席に戻る。焦りからか鼓動がうるさくて、内容に集中できなかった。
ヴェイセル先輩はロキ殿下の側近候補だけど、実はあまりお傍にいるところを見たことがない。側近は側近でも、侍従ではなく文官だから当然か。
講義では一緒にいるのかもしれない。三年生の教室がどうなっているのか、わたしにはよくわからなかった。
ロキ殿下とお付き合いしていることは、誰に対しても秘密だ。ヴェイセル先輩も知らないだろう。篭絡す相手をロキ殿下一人に絞ったから、わたしも必要以上にヴェイセル先輩に接触してはいない。
『記憶』のヴェイセル先輩は、潔癖症で女性に免疫がなかった。素直になれず、好意を示すのは恥ずべきことだと思っている。
本音は、示した好意を受け取ってもらえず突き返されるのが怖いらしい。だから基本的には冷たいけど、親しくなれば彼なりの情をもって接してくれる。
だけど、すでにわたしはロキ殿下やルークス君が『記憶』とはまったく違う存在であると知っている。『記憶』のロキ殿下は被虐癖の変態ではなかったし、ルークス君に婚約者なんていなかった。そうである以上、現実のヴェイセル先輩に『記憶』を当てはめるのは無意味なことだ。
かさり、不意に手元で音がした。覚えのないメモと、傍に立つ人の気配。顔を上げる。そこにいたのはヴェイセル先輩だった。
ヴェイセル先輩は忌々しげにわたしを一瞥して去っていく。なんなんだろう。残されたメモに視線を移した。
『今夜一時、談話室で会いましょう。大事な話があります。必ず一人で来てください』
……断ったらだめかなぁ。
*
「失礼しまーす……」
談話室の扉をそっと開ける。すでに消灯済みの廊下の薄暗さに反して、談話室の中は明るい。中にいるのはヴェイセル先輩だけだった。
「よもや素直にいらっしゃるとは。一国の王子たる者、もう少し警戒心を抱かれてはいかがです?」
ヴェイセル先輩はお茶の用意をしながらソファに座るよう示す。呼び出しておいてこの言い草か。むっとしながら対面に座った。
「大事なお話なんでしょう? 先輩からわざわざお声がけしていただいたんです、こちらも応じなければ無礼というもの。国の品位にかかわります」
「これは失礼しました、ニルス王子。招待を受けていただきありがとう存じます」
わたしだって来たくて来たわけではない。ヴェイセル先輩の言う「大事な話」とやらを無視できなかっただけだ。先輩に男装がばれていたら一大事だし。
「それで、一体なんのご用でしょうか」
「ロキ殿下についてです」
ヴェイセル先輩がわたしをまっすぐに見据えた。その目は昼に見たものとはまったく違う。欲望と情念をどろどろに煮詰めた、昏い目だった。
「貴方がロキ殿下に目をかけられて、早いものでもう四か月目です。気分屋のロキ殿下にしては、ずいぶん長く貴方への興味を保っておられるようだ」
「はい。寮内兄弟として、大変よくしていただいております」
「そうですか。それはなによりです。……では、このあたりで殿下の前から姿を消したほうが御身のためですよ」
「……それは、どういう意味でしょう」
拳を握りしめて尋ねる。ヴェイセル先輩は笑った。諦観と愉悦を混ぜたような顔で、先輩は紅茶に手を伸ばす。
「誤解しないでいただきたいのですが、これは善意の忠告です――人生、終わらせたくないでしょう?」
「何を……」
「本当は、もっと早く忠告しておくべきでした。殿下のことですから、すぐに貴方に飽きると思ったのです。しかし私が思っていた以上に殿下は貴方を気にかけていた。これはいけない。このままだと、貴方も私達の二の舞になってしまいます」
熱くて飲めないのか、スプーンを手にした先輩はしかめ面で紅茶をかき混ぜている。
そういえば、『記憶』の先輩も猫舌だった。そこは変わらないらしい。
「ユリウス皇子もルークス殿も、そして私も。みな心の奥底に眠る怪物の名を知ってしまった。殿下がその名を囁いたからです。殿下は私達が本当に欲していたものを教え、破滅の道へと導いた。もう私は元の私に戻れない。……殿下は、私達の人生を終わらせたんですよ」
ヴェイセル先輩は恍惚としていた。名を挙げられた三人の共通点は、『記憶』の中の恋人候補であることだった。
「殿下のせいで、私はもはや真人間として生きられない。殿下は、私をあるべき姿に戻してしまった。私が人間の皮を被る魔性であると、殿下はご存知だったんです。殿下が興味を持ったということは、貴方もそんな魔性の一人。……まだ人間でいられるうちに、殿下の元から去るべきです。そうであれば、貴方は己の中にひそむ欲望を知らないまま真人間として生き続けていられる。……それともすでに、貴方は開花してしまっていますか?」
心当たりなんてない。むしろわたしが殿下を被虐趣味の変態に変えてしまったぐらいだ。
……いざとなれば記憶消去の魔術で綺麗さっぱり忘れてもらうから、性癖を歪めた影響は少ないと思いたい。少ないといいなぁ。
「あの方はきっと、そういう方でした。……あの、星空を落とし込んだような瞳。私が最初に目にした時、あの方の瞳はただ宵の色を宿すだけだったのに。幼きあの日、私の魔性が呼び起こされた後、あの方の目には明星が輝いていた。どこまでも美しい、広がる領域外を映す目に、変貌を遂げていた」
「あの、ヴェイセル先輩?」
宙を見上げるヴェイセル先輩の頬は紅潮している。……ちょっとまずいかもしれない。この人、完全に飛んでいる。茜色の目から理性は感じられなかった。
「熱が、声が、生きた人間の何もかもが煩わしかった私に、あの方は答えを教えてくれた。あの方は許しを与えてくれた。物言わぬ屍を愛してもいいのだと。永遠の静寂を体現する固く冷たい屍体こそ、私が夢見る理想であると」
だから、と。
ぐるん、ヴェイセル先輩の視線がわたしに戻った。
何が「だから」なのがさっぱりわからない。ヴェイセル先輩が何を言っているのかすらも。
でも、ひとつだけわかることがあった。ヴェイセル先輩は今、わたしに敵意を向けているらしい。
「あの方に感化されて魔性を受け入れる気がないのなら、あの方の傍にいる資格がない。歪み、狂い、破滅する前に、浅ましい欲望を隠す人の皮を被り直してあの方の前から消えなさい」
「何を勘違いしているのかわかりませんが、先輩の心配にはおよびませんよ」
横目で退路を確認しながらにっこり笑う。常軌を逸した相手と二人きり、密室で長居なんてしたくない。
「あァ……ではきっと、貴方ももはや手遅れだ。自覚がないだけで、あの方はすでに貴方の魔性を咲かせてしまっているのでしょう。あの方のためを思ってやることが、秘された自分の望みだとも気づかずに」
「え、」
「あの方は、免罪符をくださるんですよ。自分を認められない者ですらも、真の自分を受け入れられるように。貴方はきっとそちら側だ。……あの方に狂気の道を教え導かれた者同士、末永くよろしくお願いいたします。……まァ、あの方の右腕の座まで譲るつもりはありませんが」
ヴェイセル先輩の笑い声が響く。
なんなんだろう、その嫌すぎるくくりは。こんな狂人と一緒にされるなんて絶対にごめんだ。
これ以上の問答は無用だと、わたしは立ち上がって談話室を出ていった。
ヴェイセル先輩の笑い声は、耳にこびりついて離れなかった。