【隕ウ貂ャ】懊悩
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植物園の花壇に水を撒くニルスの手つきは荒っぽい。苛立っているようだ。
理由はおそらく、ディー・ミレア学園に通う双子の弟だろう。ロキからそれとなく聞かされた彼の失態は、ニルスにとってかなり頭の痛いものだったらしい。
より正確には、弟が失態を重ねていることよりも「嫌いな女に指摘を受けた」という事実のほうが効いているのだろうか。
オフェリヤに嘲笑われた、と思っていてもおかしくないだろう。ロキにそんな話を持ち込むのはオフェリヤしかいないと、ニルスは確信しているようだった。
弟から届く手紙では、万事問題ないと書いてあったはずだ。
ところが実際はどうだ。紫色素の異能をいまだにコントロールできない彼は日常的に体調を崩し、精神にも不調を及ぼしている。それは“カーレン・ラグナ・フリグヴェリル”の名を傷つける行為にほかならなかった。
王女の悪評が取り返しのつかないものになれば、大国の王太子たるロキ・エーデルヴァイス・ヘズガルズとの縁談が結ばれるどころではないだろう。
彼女とて、こうなることは予想できたはずだ。自分の顔と名前を他人に貸し与えてしまえば、自分の管理下にないところで何があっても止められないのだから。
彼女にとって不幸だったのは、人の少ない田舎育ちで気の弱いニルスにとって同世代の子供が多く集まる学園はストレスそのものであり、その負荷を想定できなかったことだろうか。カーレンが思っていた以上に弟が脆かった、と言い換えることもできるかもしれない。
今からカーレン・ラグナ・フリグヴェリルの名誉を挽回しようにも、ニルスとしての顔がある以上彼女本人がディー・ミレアに赴くことができるのは休日だけになる。
平日に仮病を使えば外出届を取得できないし、脱走しようにも幾重にも張り巡らされた魔術障壁を突破するのは不可能だ。そもそも、いっとき入れ替わりを正したところでその場しのぎにしかならない。
それならば休日の間に入れ替わり、弟がニルスとして、姉がカーレンとして平日を過ごしてはどうだろう。
しかしそれでは、今度は“ニルス・ナレク・フリグヴェリル”の評判が落ちてしまう。もともと弟が王子の名にふさわしくないからと決めた入れ替わりだ。“カーレン”でさえ演じきれない弟なら、“ニルス”に戻った時の醜態は目に見えていた。
水やりを終えてからも疲れた顔で温室を巡る彼女は、何か考え事をしているのだろうか。
これからどうするのか、あるいは気を紛らわせる別のことなのか。ふと、その足が止まった。何も植えられていない荒れた一角の前にしゃがみ込み、その土を確かめている。
確かそこを管理していたのは、一つ上の代の卒業生だったはずだ。この温室は魔術的な薬や道具の素材を育てる植物園で、申請すれば個人の区画を持つこともできる。
実験に熱心だったその卒業生は、ここで育てた植物の種や株をきちんと回収して後輩が使えるスペースを空けていた。しかし次の所有者が見つからず、新入生の入学からひとつ季節が過ぎた今もいまだ空き地になっている。そういった空の花壇は他にも散見されていた。
「趣味、作ろうかな……」
ニルスは遠い目で呟き、手のひらを傾ける。その上に載っていた土がぱらぱらと落ちていった。
*
ニルスは今日の体力育成の講義を見学するつもりらしい。誰もいない教室で、一人彼女は机に向かっていた。教師に与えられた課題を黙々とこなしている。その片手間で綴るのは、弟への手紙の返事のようだった。
弟いわく、成績は別に悪くない。確かに寮の部屋にこもりがちだけど、先生達も配慮してくれている。“カーレン”の紫色素の異能についても理解を得られた。素行についてはおいおい改善していきたい……だそうだ。
それに対して姉は、こう返している。最初から社交については期待していないから大丈夫、身体のことを第一にして無理なくのびのびと暮らしなさい、と。
虚弱で引きこもりの少年を、いかにして儚い深窓の姫君に見せるのか。起こしてしまった癇癪はもはや仕方ない、それを逆手に取って気高い高嶺の花でも演じなさい……それが助言ということだろう。
魔術のかかった便箋は、すぐにディー・ミレアの郵便受けに届けられる。密書を送ろうとしても必ず検閲で止められてしまうが、この程度の内容なら問題はなさそうだ。不出来な弟を叱責する姉のように、猫被りの指南を子供に送る家は多かった。
課題も片付け、ニルスは小さくあくびをした。廊下も教室も静まり返っている。近くの教室は使われていないようだ。
「狩猟大会が一番都合がいいだろう。あれを逃せば、他の機会を見つけるのは至難の業だぞ」
教室を出ようとしたニルスだが、そんな声が廊下の向こうから聞こえてきたせいか、ふとその動きを止めた。
三人の学生が廊下を歩いている。だが、講義の時間はもう半ばも過ぎていた。とてもどこかの教室に向かう風には見えない。
「確かにな。モンスターを使えば、楽に殺せる」
「馬のほうに細工をして、わざと罠に嵌らせるか。あとはモンスターに襲わせればいい。そうすれば、うかつに罠に落ちた間抜けが悪い、ということになるだろう」
「……物騒な話だなぁ」
彼らに気づかれないように、ニルスはほんのわずかに開けた扉の陰に身を隠した。
タイの色からして、ヴィゾーヴ寮生ではなさそうだ。ヴェズル寮の三年生だろう。三人とも、ノルンヘイムの属国を祖国とする貴族のようだ。
だが、ニルスにとっては見ず知らずの学生だ。わかるのは相手の声だけで、タイの色すら彼女の視界には映らない。
「いかに文武両道のユリウス皇子と言えど、四方をモンスターに囲まれればなすすべもなく肉塊に変わるだろうさ。せめてあのキレイな顔だけは遺してもらいたいものだが。それすら潰されれば、本人確認が面倒になるからな」
「不慮の事故で皇太子が死ねば、帝国は必ず混乱する。それがロキ王子の手引きだと思われればなおさらな。その隙に乗じて祖国が戦を仕掛ければ、必ず勝てるだろう」
「ノルンヘイムとヘズガルズ、目障りな大国を潰すまたとない機会だ。互いに消耗しているところに割り込めば、次の覇権を握るは我らの祖国に違いない」
嗤う声に、下卑た含み笑いが重なる。ニルスの眉がぴくりと動いた。
「ふぅん……」
彼らが行ってしまう前に、ニルスは気づかれないように相手の様子をうかがった。なんとかその顔を視認できたようだ。やはり心当たりはないのか、彼らの顔を忘れないよう目に焼きつけるニルスの眼差しは険しく鋭い。
冬の狩猟大会は、デア・ミル学園の学校行事の一つだ。学校が所有する広大な森に獣やモンスターを放ち、寮ごとに獲物を競う。その開催まで一月を切っていた。
「魅了を使って自殺させてもいいけど……不確定要素が多すぎるかな。もっと確実に消しておいたほうがいいよね。せっかくお膳立てしてくれるみたいなんだし」
ニルスはひそやかに笑う。その鮮やかなペリドットの瞳は、獲物を見つけた捕食者のように残忍で、盤上を見つめる支配者のように冷徹な光を湛えていた。
【隕ウ貂ャ險倬鹸繝サ邨ゆコ】