step 9. 少し、考え事をしていた
それから数日間、主にサミア毛糸産業に関係する場所を案内し、一通り領地を回った。クラーデンは山に囲まれた小さな土地なので、それぞれ屋敷から日帰りで回れる場所ばかりだ。そうでなければ、リゼットはついて行くことができなかったかもしれない。
熱心に話を聞いていたアルバートが一番驚いていたことは、リゼットもサミアの毛から紡いだ糸で手仕事をする、ということだった。
「クラーデンの女性たちは、冬の間家の中でできる仕事をして過ごしますから」
さすがに染色は、服が汚れたり手指に色が染みついたりしてしまうためできないが、ちょっとした防寒具くらいは作れる腕がある。
リゼットは、アルバートを伴って衣裳部屋へ向かった。リゼットを含めた屋敷の女たちが作ったものが、いくつも置いてある。
「王都で流行っているもののようにおしゃれではないですが、この帽子とか、上手にできたんですよ」
美しいブルーに染められた糸で編んだ帽子を、アルバートはそっと受け取った。
「サミアの糸は、とても柔らかくて繊維が細かいんです。だから、織っても編んでも、いい手触りに仕上がるの」
リゼットにとって、クラーデンのサミア毛糸は誇りであった。楽しくて、いつもより口数も増える。
「好きなんだね」
そんなリゼットを、アルバートは目を細めて見つめていた。
「君が勉強熱心な理由が、ひとつわかったよ」
優しい手つきで帽子を一撫ですると、アルバートはリゼットの頭にそれを被せた。
「他の作品も、見せてもらえる?」
恥ずかしさで、微笑むアルバートの顔から目をそらすと、入り口付近で控えている侍女のマリーと目が合った。マリーがほほえましそうにうなずくので、リゼットは余計に恥ずかしくなる。それをごまかすように、次から次へと作品を取り出しては説明を繰り返して、なんとか平静を取り戻した。
「フィリップが、明後日こちらに着くらしい」
夕食の席でルイスがもたらしたその知らせに、リゼットは必死に動揺を隠した。
普段通りの表情を保ったはずだが、なぜかアルバートに見られているような気がして、目の前のスープに夢中になっているふりをする。
「アルは会ったことがあったか?」
「あいさつ程度だけれど」
リゼットはなんだか胸がざわざわして、アルバートの顔が見られない。
落ち着かない夕食は、大好きなデザートの味もよくわからないままに終わった。
その夜、リゼットは自室で休む準備をしながらも、物思いに沈んでいた。
フィリップに、ハンカチを返さなくてはならない。となると当然、お互いにあの時のことを思い出さずにはいられないだろう。
フィリップに会うのが、どうしようもなく怖かった。しかも、ここには今アルバートがいるのだ。
しっかりけじめをつけるつもりだったのに、その夜のことが原因で、こんな思いを引きずっている。自分がひどく不誠実な人間のように思えてきて、リゼットは落ち着きなく手元のクッションをいじった。
(このままでは、眠れないわ)
夜に考え事をしてはいけない。思考が悪い方に悪い方に向かってしまう。
気分を変えるべく、リゼットは厚手のガウンを羽織ってバルコニーに出た。
月の明るい夜だった。しかし目を凝らせば、美しい星々も光を放っていることがわかる。
ひんやりした外気に触れて、リゼットは大きく深呼吸をした。胸のつかえが、この冷たい空気とともに流れてしまえばいいのに。
そのときふと、視界の下の方でなにか動くものをとらえた気がして、リゼットはバルコニーの手すりから外を見降ろした。
リゼットの部屋のバルコニーは、ちょうど中庭に面している。その中庭のベンチに、誰かが座っているようだった。
あのような黒髪を持ち、自由に中庭に出入りできる身分の人は、今この屋敷に一人しかいない。ハーシェル家の面々は、濃淡はあれどみな金髪なのだ。
このときリゼットを突き動かしたものは、まぎれもなく衝動だった。
足早に寝室を出て、ちょうど水差しを持ってきたマリーと行き会う。
「あら? お嬢様、どうされました?」
「マリー、ちょっと中庭に出てくるわ。酔いを覚ますだけだから、すぐ戻ります」
成人したとはいえ、夕食の席でリゼットが口にする酒はほんのわずかだ。
そうと知っているマリーは不思議そうな顔をしながらも頷いた。
しっかりとガウンの前ボタンを留めてから、リゼットは中庭に出た。
足音に気がついたのか、アルバートが振り返る。薄明りの中、藍の目を見開いたのがわかった。
「リゼット?」
リゼットは、自室のバルコニーを指さした。
「あちらから、アルバート様が見えたのです」
ああ、と納得しながら見上げる表情は、なんだかあどけなかった。
勢いでここまできてしまったものの、リゼットはどうしていいかわからなかった。とりあえず、アルバートの横に腰かける。
「ここは、星がよく見える。標高が高いからかな」
視線を夜空へと向けて、アルバートはつぶやいた。暗い中で聴くアルバートの声は、いつもよりもリゼットの耳に深く静かに響いた。
「星を見るために、ここにいらしたの?」
違うとわかっていて、リゼットは尋ねた。どこまで踏み込んでいいものか、手探りだ。アルバートはなにかを抱えている。そしてそれは、リゼットも同じだ。フィリップのことについて、彼がクラーデンに来る前にすべてを話してしまおうかとも考えていた。
「……少し、考え事をしていた」
静かな声の、続きを待つ。アルバートはリゼットの方へ顔を向けた。陰になって、表情はあまりはっきりとしない。けれど、まっすぐな瞳がリゼットをとらえていることはわかる。
「いつか、君にも聞いてほしいことなんだ。……正直、まだうまく話せる自信がない」
迷うようなその声をきいたとき、不思議とリゼットは落ち着いていた。アルバートがリゼットに打ち明けようとしてくれている、その気持ちだけで十分だとさえ感じた。
アルバートに応えるためには、自分もまた、正直な気持ちを話すべきだ。一気に決心がついて、リゼットは口を開いた。
「アルバート様のお話、いつまでもお待ちしますわ。ですから、……私の話も、聞いてほしいのです」
いざ話そうとすると、決心とは裏腹に声が震えた。取りこぼすことなく伝えられる言葉を探して、なかなか続かない。
すると、アルバートが助け船を出すかのように言った。
「もしかすると、それは、……従兄殿のことかな」