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step 7. 目を覚ますのが楽しみだな


 それから数日の間、王都にいるうちに片付けておくべきことに追われて、アルバートは多忙にしているようだった。ハーシェル家の日程に合わせたためか、多少無理をしているらしい。


 リゼットも、クラーデン領で過ごした後はノーコットへ行くことになっているため、いつもの帰り支度とは勝手が違う。今年はデビューも果たしたので、ドレスや装飾品なども例年の比ではない。タウンハウスに残していくものと持っていくものとを選別するのに、マリーや他のメイドたちと大わらわだった。

 小物類の選別をしているとき、マリーが不思議そうな声をあげた。


「お嬢様、こちらのハンカチは借り物ではありませんか?」


 マリーの手にあるハンカチをみとめて、リゼットの胸はつきんと痛んだ。

 婚約の手続きや他の社交に忙しく、返すのを失念していた。考えないようにしていたとも言えるが、帰郷まで日がないこのときになるまで思い出さなかったことに焦りを覚える。


「フィル兄さまにお借りしたものよ。どうしましょう、お礼も何も用意していないわ」

「料理長に言って、焼き菓子などご用意いたしますか? そうすれば、今日の夕方には私が届けて参りますが……」


 付き合いの長いマリーは、リゼットがフィリップを想っていたことを知っている。リゼットが直接プリスフォード邸を訪問しなくて済むように、使用人を介して返そうと気をまわしてくれた。


 リゼットとしても、会うのは怖い。言葉は曖昧だったが、きっと気持ちは知られてしまった。アルバートとの婚約が新聞で発表されたその日のうちに祝いの品は届いたが、フィリップ本人の訪問はなかった。

 格上の貴族とはいえ親戚なので、直接返しに伺わなくても失礼にはならないだろう。何より、フィリップはそういったことを気にする性質ではない。しかし、今までの関係からすると、使いだけ出すのは不自然なようにも思われる。


 リゼットがどうすべきか考え込んでいると、衣裳部屋の入り口に背の高い影が立った。


「ハンカチくらい、返さなくてもフィルは気にしないだろう」


 少しばかり呆れたように、開かれたドアにもたれてかすかに首を傾げている。

 ルイスの登場に、メイドたちはその場で軽く会釈をした。


「そうかもしれないわね。でも……」

「……持っていたくないのか」


 低くつぶやかれた声に、リゼットはこくりと頷いた。


(未練のようで、嫌だ。はっきり、決着をつけたはずなのに)


 もやもやとした気持ちが、リゼットの胸に広がる。


「どちらにせよ、今日明日で返すのは無理だ」

「え?」


 驚くリゼットに、ルイスはふっと笑った。少し冷たく見える顔立ちに似つかわしい、意地悪い笑みだ。ルイスはよく、妹弟をからかってこの笑みを浮かべている。

 マリーは見慣れているからか平然としているが、今年雇ったばかりの若いメイドは、ぱっと頬を赤く染めていた。


「フィルは今朝、王都を発った。オフの間に一度はうちに来るだろうから、返せるとしたらそのときだな。カバンに詰めておけ」


 それだけ言うと、ルイスは愉快そうな表情を隠そうともせず、ひらりと身を翻して去っていった。


(それを伝えに、わざわざ来てくれたのね)


 わかりにくい兄の優しさに、リゼットは気が抜けたように笑った。




 出発の朝、ほんの少しだけ疲れたような顔で、アルバートがやってきた。

 リゼットは、アルバートが乗ってきたノイマン家の馬車に、ルイスとともに乗ることになった。

 御者の手を借りて奥の座席に落ち着くと、あとから乗ってきたルイスが自然なしぐさで向かいの座席に腰かけた。


「お兄様、そちらに座るの?」


 リゼットの問いかけにも、ルイスは口元をゆがませるだけだ。

 アルバートは、車内の様子を見て少し眉を寄せた。そしてルイスの隣に座ろうとする。

 ルイスがかぶっていた帽子を座席に置いた。


「アル、お前は向かいだ」

「……リゼット嬢、失礼するよ」


 苦笑して、アルバートはリゼットの隣に腰かけた。辺境伯家の馬車は決して狭くはないが、隣はやはり距離が近い。石鹸のような微かな香りが鼻孔をくすぐって、リゼットは少し落ち着かない気分になった。


「なんだ、ずいぶんと他人行儀な呼び方だな」


 ルイスがくいと片眉をあげる。


「そう、かな」


 アルバートは首を傾げたが、声の調子は弱い。婚約者としての二人の距離感がぎこちないのは自覚しているのだろう。リゼットも、まだ緊張が抜けないでいる。

 馬車が動き出し、しばし車内には沈黙がおりた。アルバートがそれを破る。


「……じゃあ、リゼット、と、呼んでもかまわない?」


 伺うように見つめる藍の瞳をちらりと見返して、リゼットは気恥ずかしくなりながらもうなずいた。


「もちろん、かまいません」

「ありがとう」


 ルイスが面白がっているのがわかって、余計にリゼットは恥ずかしくなった。きっとこうして面白がるために、アルバートをリゼットの隣に座らせたのだろう。


「それにしても、アル、顔色が悪いな」


 ルイスの言葉に、リゼットはアルバートの顔を見た。馬車に乗る前から少し疲れた顔をしていたと感じたのは、気のせいではなかったようだ。


「王都でやっておくことが意外と多くて……ここのところ、あまり眠れていないんだ」


 言っているそばから、アルバートはあくびを耐えるように口を引き結ぶ。


「アルバート様、少しでも、お休みになられた方がよろしいのでは? 私たちのことはお気になさらず」


 座っている体勢でも、いくらか仮眠をとるくらいならできるだろう。そう考えて、リゼットは提案した。

 王都からクラーデン領までは二日間の旅程だ。馬車に乗っているだけとはいえ、長距離の移動は体に負担がかかる。


 アルバートは眉を下げながらも、どこかほっとした顔をした。柔和に垂れた目を細めて、ふわりと微笑む。


「話しているうちに寝てしまいそうだったから、そう言ってもらえて助かる。ごめんね、リゼット、ルイス」


 さらりと呼ばれた名に、リゼットは軽く息を呑んだ。

 思えば、フィリップとルイス以外の若い異性に気安い呼び名を許したことは、今までなかったのだ。改めて、婚約者という立場を意識してしまった。


 それから、だんだんと間遠になっていく会話も上の空で、リゼットが落ち着けないでいるうちに、アルバートは車窓に頭を預けるように寝入ってしまう。

 アルバートが微かに立てているだろう寝息は、馬車の揺れる音にかき消されている。

 リゼットがそっと隣をうかがうと、アルバートはわずかに眉根を寄せていて、寝顔は固い。


「……お疲れなのね」


 ぽつりとこぼすと、向かいで黙っていたルイスが顔をあげ、頷いた。


「帰国したばかりだし、爵位も継いだんだ。ノーコットも通り過ぎただけで、生家に寄る暇もなかったらしい。あちこちから招待もされていた。その上婚約者のご機嫌伺いまでこなして……リズのことは気にしなくていいと言ってあったんだが、律儀なやつだ」


 どこか呆れたように話しながらも、ルイスの表情は柔らかい。ともに過ごした時間は学校生活のほんの一部であっただろうに、ルイスにここまでの好意を抱かせるアルバートの人柄が垣間見えて、リゼットは胸が温かくなった。


(本当に、もったいないほど、良縁なのだわ)


 今はまだじくじくと痛む失恋の傷も、きっと癒していける。決意のような、確信めいた思いを大切にしようと思えた。


 そのとき、石か何かを踏んだのか、馬車が大きくがたんと揺れた。驚いて、リゼットは小さく声を上げる。

 しかし、そのすぐあとに、リゼットはもっと驚くことになった。

 揺れに身じろぎをしたアルバートの頭が、リゼットの肩にもたれるように傾いたのだ。


 さらりと艶のある黒髪から、石鹸が香る。兄やフィリップがつけているような男性用のコロンの香りとは違うそれと、肩に感じる確かな重みに、リゼットはじわじわと頬が熱くなっていくのを感じた。


「お、お兄様……」


 リゼットが顔や体を動かせずに目だけで助けを求めると、ルイスは心底愉快そうに顔を歪め、肩を震わせていた。明らかに笑いだすのをこらえている。


「そのまま、肩を貸してやれ。……ふっ、目を覚ますのが楽しみだな」


 震えた声で言ったかと思うと、口元に手をあてて、くつくつと低く笑いだす。

 リゼットは、羞恥やら緊張やらで何も言えず、少しうつむいてそれを耐えた。


 目を覚ましたアルバートが、耳まで顔を真っ赤にした次の瞬間には真っ青になってひどく慌てたのは言うまでもなく、怜悧な美貌も台無しになるほどルイスが大笑いしたのもまた、言うまでもないことだった。



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