step 5. どうか、名前で呼んでください
「幸いにして、人的被害はなかったと聞いています」
アルバートの気遣うような声が、思考の波を漂っていたリゼットの意識を引き戻した。
「ええ。……不幸中の幸いでした。建物や機械なら、また作ることができます」
「……あなたは、領地のことをよく学んでおられるのですね」
そう言ってリゼットを見つめる藍の瞳から、探るような色は消えていた。
「あの、……」
リゼットは、少し迷って言いよどむ。
「……領地の事だけなら、結婚までしなくても、いいと思うのです……もちろん、ハーシェル家にとっては良縁ですわ。でも、辺境伯様ならもっと…………。結婚を急ぐ理由が、何かおありなのではないですか?」
思い切って問いかけたリゼットを、アルバートは目を瞠って見返した。
そして、困ったように眉を下げる。
「急いでいるわけではないのですが、……私は長いこと領地を離れていましたし、いつまでも独身では、なかなか一人前とみなされないのです」
「そういう、ことでしたか」
「ええ。それに、あなたとなら、良い関係を築けそうで安心しています」
リゼットは目を瞬いた。
「あなたは、領地や領民に関心を持ち、しっかりと学んでいるように見受けられる。……ノーコットは厳しい土地です。私も領主として未熟だからこそ、なによりも領主としての仕事を優先したい。それを不満に思うような方を妻として迎えることはできません。その点、あなたは理解してくださるだろうと、今の話を聞いていて感じました」
(この方は、とても冷静にこの婚約を客観視しておられるのだわ)
これから婚約しようという相手になんとも色気のない、場合によっては失礼にも取られるようなことを正直に話してくれたことに、リゼットは逆に好感を持った。
「私も……辺境伯様となら、良い夫婦になれると思いますわ」
リゼットは自然と微笑んでいた。不安ばかりだった政略結婚も、悪いことばかりではない。今はまだ、恋することはできそうにないけれど、早くもアルバートに友情のようなものを感じている。
「……それ、やめませんか」
「え?」
また、アルバートは眉を下げていた。
「どうか、名前で呼んでください。……良い夫婦に、なれるように」
どこか決意を込めた目だった。
「では、……アルバート様、と」
名前で呼んだとたん、急に気恥ずかしくなって、リゼットはついと目をそらした。
そんなリゼットを、アルバートがかすかに笑った気配がする。
「はい。これから、よろしくお願いします」
屋敷の中へと戻る道すがら、アルバートは切り出した。
「これから一年、婚約期間を設けて、次のシーズンが始まったら、王都で挙式。お父君との取り決めでは、そういう話になりました。問題ありませんか?」
「はい」
リゼットはしっかりと頷いた。家同士の話に、リゼットが口をはさむ余地はない。それをお互いわかりきっていても意向を確認するアルバートの気遣いに、心が慰められた。
「……よかった。一年では短すぎるのではないかと心配だったのです」
心底安心したというような声音に、リゼットは隣を歩く声の主を見上げた。どうやら本気でリゼットの意向を聞いていたらしい。
(なんだかずいぶん、実直な方ね)
リゼットは、年上の婚約者に抱くにはいささか失礼な感想を抱いた。けれど嫌な気持ちではない。素直に好感の持てる人物であったことに、リゼットは嬉しくなった。自分はとても、運がいいのだろう。親ほどに年の離れた相手に嫁ぐ貴族令嬢も珍しくないのだ。
「一年は、それほど短くないと思いますけれど……」
貴族社会は、昔ほど形式やしきたりにうるさくなくなっている。一年は決して長くはないが、短いとも言えないとリゼットは感じて、そのまま疑問を口に出した。
「そうですか? ……あなたはまだデビューを終えたばかりですし……」
「まあ」
まるで子供だといわれたような気がして、リゼットは声をあげた。少々面白くない理由である。
睨むほどではなくてもじっとアルバートを見上げたが、不思議そうに首を傾げられた。
「リゼット嬢?」
アルバートは、ローランド王国に戻ってきてまだ日が浅い。社交どころではなかったようだし、女性の婚期といった事情には疎いのかもしれない。
「デビューから三年。それを逃したら嫁き遅れなのですよ。デビューの年に婚約が決まるのは珍しくありませんわ」
案の定、アルバートは真剣に聞き入って、目を丸くする。
「三年、ですか。だとしたら、失礼なことを言ってしまいましたね。申し訳ない」
「いいえ。……ルクセン帝国では、女性の適齢期はいくつなんですか?」
さすがに、他国の事情まではわからない。それに、ルクセン帝国との国交が正常化したのは、ほんのここ十年のことなのだ。
「あちらでは女性も十八歳まで学校に通いますから、二十歳前後で結婚する方が多いです」
「そうなのですね」
ルクセン帝国の話をするアルバートは、どこか懐かしむような、遠くを見るような目をしていた。
二日後に国立公園へ出かける約束をして、アルバートは暇を告げた。
ノイマン家の馬車に乗り込んで帰っていくアルバートを見送って、リゼットが屋敷の中に戻ろうとすると、一台の馬車が入れ替わりに入ってくる。
兄、ルイスが帰ってきたようだった。
「おかえりなさい、お兄様」
そのまま出迎えたリゼットに軽く頷いたルイスは、通りの方を見やる。
「一足遅かったか。アルが来ていると聞いて、慌てて帰ってきたんだが」
「なにか用がおありだったの?」
思案するように切れ長の目を伏せて、ルイスは言いよどむ。
「いや、……いいんだ。……その顔なら、顔合わせはつつがなく済んだんだな。どうだ、アルは。気に入ったか?」
無理に話題を変えたようで気になったが、続いた言葉にリゼットは苦笑した。
「そんな言い方、失礼ですわ。私にはもったいないほど素敵な方でした」
本心からの言葉をリゼットは口にした。それを聞いて、ルイスはくいと眉を上げる。
「そうか? フィルほど女好きのする顔はしていないと思うが」
兄が面白がっていることはわかったが、あまりの言い草にリゼットはだんだん腹がたってきた。
「私はフィル兄さまのお顔が好きだったのではありません。それに、アルバート様のことも、容姿だけを素敵だと言ったわけでは――」
「わかってる、からかって悪かった」
リゼットの言葉をさえぎるように謝罪の言葉を口にして、ルイスは微笑んだ。
「少しでも、そういう風に思えたのならよかったよ」