目が覚めたとき、君が
2024年7月9日 本日、電子書籍配信です!
本編23話中、社交シーズンが始まる前の、ノーコット城で過ごしている頃の小話です。
塔の上でふたり、星を眺めたあの夜から、一週間が過ぎた。
今日は静かに雪が降っていて、窓の外の景色は白く霞んでいる。昼下がりだというのに、まだ朝のような、はたまたもう夕方のような、時間の感覚が失われたような日だった。
昼食の後の時間をソフィアと過ごし、ノーコット城の家政について学んでいたリゼットだったが、話が一区切りついた途端に半ば追い出されるように部屋を出てきた。お茶の時間はアルバートと過ごしてあげてと言われ、気恥ずかしくも嬉しく、足取りは軽い。
アルバートは、午後は図書室で調べ物をすると話していた。
図書室へ足を踏み入れたリゼットは、小さな違和感を覚える。
いつも、とても静かな場所ではあるけれど。しんとしている室内は静かすぎて、誰かがいるようには思えなかったのだ。
アルバートがここで本を読むときは、少し奥まった書棚の影の、長椅子にいることが多い。
「アルバート様?」
小さな声で呼びかけながら、リゼットは書棚の向こうへ顔を出す。そして、目に飛び込んできた光景に、はっと口元を押さえた。
(眠っていらっしゃるわ……)
アルバートは、3人はゆうに座れる長椅子の端に腰かけた姿勢のまま、眠っていたのだ。
長椅子の背もたれに預けられた頭は、わずかに傾いている。膝の上には目録だろうか、開かれたままの帳面が置かれ、片手はその上に乗せられていた。ごくかすかに上下している胸元のリボンタイは少し歪んでいて、状況と相まってリゼットの目には微笑ましく映った。
思わず息を殺していたせいか、穏やかな寝息が聞こえてくる。しかし寝顔が険しく見えて、リゼットはそろそろとアルバートのそばへ近づいた。
そっと身をかがめてみると、アルバートの目は固く閉じられ、眉間にはぎゅっと力がこもっているようだった。
(起こしてさしあげたほうがいいかしら)
疲れているのなら、このまま眠らせてあげたい。けれど苦しそうにも見えるので、リゼットは悩んだ。
そしてふと、士官学校に通う弟のシャノンが、執務室で座ったまま仮眠をとっていた兄ルイスに話していたことを思いだした。眠るときはきちんと横になったほうが疲れが取れる。作戦行動中の軍人でもないのだから、長椅子かベッドで休んだら? と。
リゼットは、アルバートを起こすことに決めた。
「アルバート様」
呼びかけた声には反応がなかった。ずいぶんとよく眠っているらしい。
「アルバート様、起きてください」
さきほどよりも少し声を大きくしてみたリゼットだったが、アルバートはまだ起きなかった。けれど少しだけ、目元がぴくりと動く。
しかしリゼットの期待をよそに、その両目が開かれることはなく、あろうことか眉間のしわが深くなってしまった。
そのときリゼットは、自分でも驚くような行動に出た。アルバートのすぐ隣に腰かけると、好奇心とほんの少しの悪戯心で、婚約者のぎゅっと寄せられた眉根に指先で触れてみたのだ。とん、と触れた瞬間、アルバートの目元は一瞬力が抜けたようで、またわずかに動いた。
「ん……」
アルバートの小さな声に、リゼットは慌てて指を引っ込めた。
(私ったら、なにをしているのかしら)
子供じみた行動に恥ずかしくなったリゼットは、どうやらこの状況に寂しさを覚えているらしいことに気づく。想いを打ち明けてからのアルバートは、リゼットが名前を呼ぶといつも柔らかく微笑んで、優しいまなざしを返してくれる。その表情を見るだけでリゼットの心はあたたかくなって、気持ちが満たされるのだ。
でも今は、リゼットが名前を呼んでも、その声は宙に浮くばかり。
「アルバート様……」
こぼれ出た自分の声があまりに寂しげで、リゼットは驚いた。
けれど、ようやく声が届いたようで、アルバートがゆっくりと目を開けた。藍の瞳はぼんやりしていて、瞼も重そうだ。やがてすぐ近くのリゼットをとらえて、柔らかく目を細める。
「リゼット……? なんだ、まだ」
のんびりとした口調でなにごとかを話しながら、アルバートは笑った。そっと伸ばされた手が、リゼットの頬に触れる。少し乾燥した指先は、いまだまどろみの中にいるからか、じんわり熱い。けれど触れられたリゼットの頬も一瞬で熱を持って、すぐにその差はなくなった。
リゼットは動けなくなってしまった。
そしてアルバートは、触れた頬の感触があまりに現実的であることに気がついたようだ。みるみる目が開かれていく。
「……夢、じゃ……ない」
言い終わるころにはすっかり覚醒して、アルバートは呆然と手を離した。そしてその手で顔を覆って、かぼそい声で話し出す。
「リゼット、ごめん。寝ぼけて……」
謝られるようなことではない。リゼットは小さく首を横に振ったが、顔を覆ってしまっているアルバートからは見えないだろうと気がついて、なんとか返事をする。
「私こそごめんなさい、よく寝ていらしたのに」
あんなにも気が緩んでいるアルバートの姿を、初めて見たリゼットだった。見てはいけないものを見てしまったような気持ちになって、鼓動が少し跳ねている。
「ううん、起こしてもらえて助かった。今日中に目を通さないといけなかったから」
そう言ったアルバートは、膝の上の帳面に目線を落とした。ぎこちない空気が変わる気配に、リゼットも話題をつなぐ。
「これは……献上品の目録ですか?」
「そう。例の伝統模様の絨毯がこの城にどれだけ納められたのか、洗い出しておこうと思ってね。どうもこういう記録は、ひとりだと眠くなってしまうな」
困ったようにこぼすと、アルバートは小さく伸びをした。
「私にもお手伝いさせてください」
リゼットが勢い込んで言うと、アルバートは小さく瞠目する。そしてまるでなだめるように手を取って、笑う。
「じゃあ、二人で手分けして読もうか。ありがとう」
手伝いを断られなかったことが嬉しくて、リゼットは張り切った。
「気分がすっきりするハーブティーをいれてもらいましょう」
そう言って、侍女に頼もうと腰をあげたリゼットを見上げ、アルバートはひとつ瞬きをする。そして何かに思い当たったように表情を緩ませてたずねた。
「もしかして、お茶のお誘いに来てくれてた?」
「……はい」
言い当てられて、リゼットは素直に頷く。
アルバートは嬉しそうに微笑んで、何かを言いかけた。けれどすぐに口をつぐんで、そっと目を伏せてしまう。表情が陰ったわけではなかったが、リゼットは気になって呼びかけた。
「アルバート様?」
応えるようにあわさった目線。アルバートはまっすぐリゼットをその目に映して、しみじみと言葉を紡ぐ。
「こうして過ごすのが、日常になるんだなと思って……」
今はまだ、婚約者だけれど。いずれ二人は結婚し、このノーコット城で共に暮らしてゆく。
アルバートの言葉に、リゼットも未来を想像してみた。少し前までは、頭ではわかっていても実感を伴わなかった想像が、確かなものに変わっていく。
膝の上に置いていたものと、近くのテーブルに積まれた目録とをまとめて持って、アルバートも立ち上がる。続きの作業は執務室で行うことにして、連れ立って図書室を出た。
図書室の入り口で控えていたマリーに、アルバートの執務室へお茶の用意をするよう頼む。マリーは頷いて、きびきびとした動作で階下へ向かっていった。
二人で並んで歩いていても、ノーコット城の廊下はいつもしんと静かだ。けれどその静けさは、リゼットにとって冷たいものではなかった。この城がだんだんと自分の居場所になっていっているのを、リゼットは確かに感じていた。
アルバートはやがて、思い出したように話し出した。
「さっき目が覚めたとき、君がすぐそばにいてくれて。悪い夢を見ていたから、今度はいい夢に変わったんだと思った」
リゼットは、穏やかに話すアルバートの横顔を見上げる。
「でもそれも、夢じゃなくて」
アルバートの声には、彼の気持ちが滲んでいた。喜びと、幸福感と。一度言葉を切って、リゼットに告げる。
「ありがとう」
そのお礼には、リゼットが思うよりもたくさんのことが込められているのかもしれなかった。
少しでも、それをわかるようになりたい。わかりあえるように、過ごしていきたい。
そんな思いで、リゼットの胸はいっぱいだった。
二人で過ごす日々は、まだ始まったばかり。