step 24. 踊ってくださいますか?
リゼットたちが王都に到着した翌々日。
シーズンの始まりを告げる王宮舞踏会の日がやってきた。
ハーシェル家のタウンハウスで、リゼットは舞踏会の支度をしていた。
今日着るのは、淡いシルバーブルーのドレスだ。首から胸元まで繊細なレースで上品に覆われている。スカートの、流れるようなドレープが美しい。前日にアルバートから届けられたこのドレスは、どうやら昨年王都を発つ前に注文したものらしい。協力を頼まれたというルイスは、デザインや色などを選ぶアルバートが散々悩んでいたとリゼットにわざわざ教え、反応を楽しんでいた。
ドレスの着付けや化粧を終え、髪も結い終わった。マリーが腕によりをかけて、側頭部の編み込みにパールを散らすなど工夫を凝らしている。
さて次はアクセサリーを、というところで、部屋の外からメイドの声がかかった。迎えに来るにはかなり早いアルバートの到着を知らせる。
不思議に思いながらも入室を許可する返事をすると、アルバートが平たい飾り箱を持った従者のヴィムを連れて入って来た。夜会服の胸ポケットから、リゼットの瞳やドレスの色と合わせたであろう、淡いブルーのポケットチーフが覗いている。
「こんばんは、リゼット。……ドレスは、気に入ってもらえた?」
「もちろんです、アルバート様。ありがとうございます」
「よく、似合うよ」
はにかんで告げたアルバートの言葉に、嘘はないのだろう。けれど彼は少し悔しそうな顔をした。
「……今なら、もっと君に合うドレスを選べただろうな」
そんなことはない、と首を横に振りながらも、昨年との関係の変化を感じ、リゼットは気恥ずかしくなった。
ごまかすように、早い訪問の理由を聞くと、アルバートはヴィムを振り返って箱を開けさせた。
「……これを君に、と思って」
アルバートが持ってきたのは、一揃いの耳飾りと首飾りだった。深い青の丸い宝石があしらわれたそれらは、シンプルでありながら気品があって美しい。
「素敵……」
「公国時代から受け継がれているものなんだ。きっと、そのドレスにも、……君にも、似合うと思う」
優しく微笑むと、アルバートはそっと首飾りを手に取った。
「……じっとしててね」
かがむようにして、アルバートはまるでリゼットを抱きしめるように腕を回した。ふわりと石鹸が香る。首飾りの金具をつけようとうなじのあたりで手が動く気配がして、リゼットの鼓動はどんどん早くなっていった。顔も近い。とても目を見ることはできなくて、アルバートの白い頬を穴が開くほど見つめることになった。
リゼットは知っている。アルバートはあまり、手先が器用ではない。
しばらく挑戦していたようだが、結果は芳しくなかった。
「ごめん、なかなか……えっと、後ろに回るよ」
前から手を回してつけることはあきらめたのだろう。後ろに回ってからも、金属の触れ合う音が何回か鳴った。部屋の隅で控えているマリーもヴィムも、固唾をのんで見守っている。
ようやく、首飾りの重みを感じる。緊張感に満ちていた室内の空気が、安堵で緩んだ。
アルバートは、深く、長く息を吐いた。
「こんなときまで、格好つかないな、僕は」
呆れたようにつぶやいて、アルバートは首元のクラヴァットを少し緩めた。
「耳飾りも、と思ってたけど、この調子じゃ舞踏会に間に合わないから……」
控えていたマリーに耳飾りを渡すアルバートは、少し肩を落としている。リゼットは微笑んだ。
「これからたくさん、機会がありますわ」
言ってから恥ずかしくなったリゼットの頬が、ほんのりと熱を持つ。それを見て、アルバートもわずかに赤面した。
無事に支度を終えたリゼットとアルバートは、ノイマン家の馬車にのって王宮へと向かった。
王宮の門を、貴族家の馬車が次々とくぐっていく。夜だというのに辺りは煌々ときらめき、人々はシーズンの始まりに胸を高鳴らせていた。
舞踏会が始まる。両陛下への挨拶を終えた二人を待っていたのは、結婚を祝う知人たちだった。誰に会っても、お互いを紹介するのもそこそこに祝いを述べられる。昨年あまり社交にでていなかったアルバートは、帝国でのことも含めて質問攻めにされていた。
大勢に歓迎され、祝われる二人を面白く思わない人もどうやらいるらしい。リゼットの周囲の人物に絡めたのか、ルイスやフィリップに比べてアルバートの容姿が地味だと揶揄する声が、リゼットの耳に届いた。
リゼットは思わず声の主を探して振り向いてしまう。扇子で口元を隠し、鋭い目つきでこちらを見ている女性と目が合った。アルバートの腕にかけている手に、ぎゅっと力がこもる。
滅多に感じない怒りがリゼットの心にふつふつとわいてくる。顔も険しくなっていたのだろう。アルバートがなだめるように力のこもった手を握った。
「リゼット、君がそんなに怒らなくても」
アルバートの声は、どこまでも穏やかだ。むっとした顔を戻せずにそのまま見上げると、アルバートはなぜか笑っている。
「でも、怒ってくれるのは、悪い気がしないな」
明るい笑顔を見ていたら、リゼットの怒りも霧散した。
けれど悔しいことには変わりない。きっと、昨年はフィリップの陰に隠れていたような小娘が辺境伯家に嫁ぐことが気に入らないのだ。リゼットのせいでアルバートが悪く言われたと言える。
気分が落ち込んで、わずかにうつむいてしまう。そんなリゼットに、アルバートは声をかけた。
「もうすぐダンスの時間だ。踊ってくれるね?」
思えば、一緒に舞踏会に出るのは初めてだ。ダンスもまた、初めてということになる。
「もちろんですわ」
「笑顔が戻ったね」
ファーストダンスは、素晴らしく楽しかった。久しぶりのダンスに息が上がっているところへ声をかけてきたのは、なんとフィリップだった。
開口一番に結婚式が楽しみだ、というので、リゼットはアルバートと顔を見合わせて笑ってしまった。
そんな二人をじっと見て、フィリップも笑顔を浮かべる。
「なんだか二人、仲良くなったね?」
楽しくて、明るくて、不思議な夜だ。いくらも会話しないうちに、フィリップは令嬢たちに囲まれてしまった。
友人や知人との会話を楽しみ、それぞれの友人を紹介しあった。その流れで何曲か、パートナーを変えて踊る。
舞踏会も中盤に差し掛かった。心地よい疲れを覚えた二人は、そっとダンスの輪を抜け出した。
会場の隅を歩いていた給仕のトレイから、アルバートが果実水を二つもらう。静かなところで休憩しようと、二人はテラスへ出た。
ノーコットほど澄んだ空ではなかったが、星の美しい夜だ。火照った体に、冷たい果実水がしみわたっていく。
会場の灯りを背にして星空を見ていると、ふと昨年の最後の王宮舞踏会を思い出した。
ここで、アルバートと初めて会話したのだ。
あのときと似た星空なのに、リゼットの心は大きく変わった。今隣にいる人との幸福な未来を信じている。
何も言わず星を見上げていたら、飲み終えたグラスをアルバートがそっと手から抜き取った。そして、その手をすくい上げるように取られる。
「アルバート様?」
首を傾げて見上げると、アルバートが真面目な面持ちで口を開いた。
「改めて、言いたくなった」
何をですか、と問いかける前に、リゼットは息をのんだ。
アルバートが、すくい上げたリゼットの手の甲に、そっと口づけを落としたのだ。
「僕と、結婚してください」
視線を合わせてそう告げられて、リゼットの鼓動が跳ねた。顔にもじわじわと熱が集まっていくのを感じる。
「は、い」
リゼットは、やっとのことでそう答える。
もうとっくに婚約しているというのに、どうしてこんなに胸が高鳴っているのだろう。
アルバートの瞬くような笑みが、いつの間にか浮かんできた涙でにじんだ。
「わ、リゼット、泣かないでよ」
頬を拭おうと、リゼットの手を握っていない方の手をあげたアルバートだったが、グラスを二つ持っていることを思い出して慌てている。その様子がおかしくて、リゼットは泣いているのに笑ってしまった。
そんなことをして二人で笑っているうちに、時間があっという間に過ぎていたらしい。
会場に戻ると、次の曲が最後のようだった。
顔を見合わせた二人は、どちらともなく手を取った。
「ラストダンス、踊ってくださいますか?」
ことさらに真面目な口調で、アルバートが問う。リゼットはすぐに頷いた。そしてそれでは少し足りない気がして、言い添える。
「これからは、ずっと。ラストダンスはあなたと踊ります」
アルバートが目を瞠った。そして、今日一番の笑みを見せる。
ワルツの演奏が始まった。
昨年の、最後の舞踏会。心が震えるほどに美しかった星空が、リゼットに、別れと、そして新しい出会いをくれた。
ラストダンスを踊っているという状況だけは、あの日と同じだ。けれど、何もかもが違う。
出会えた幸福と、これからの未来に心を躍らせて、二人は息を合わせてステップを踏む。
星のようなシャンデリアの輝きが、二人を照らしている。
美しく、幸せで満ち足りた夜は、ゆっくりと更けていった。
完