表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/25

step 23. 信じるよ


「帝国にいたころ、ある女性にずっと片想いをしていた。叶うことはないと、はじめからわかりきった恋だった」


 静かな声で、アルバートは語り出す。


「彼女は、帝国に行って初めて僕に笑いかけてくれた人だった。言葉も交わさなかったのに、たったそれだけで……我ながら、単純だ」


 ふと漏れた苦笑は、アルバート自身が傾けたカップの湯気に紛れて消えた。


「彼女——ヒルデガルドは帝国の筆頭公爵家の令嬢だった。二つ年上で、第三皇子、アルフォンス殿下と同い年でご学友。そんな身分なのに、ずっと婚約者がいないようだった。学園で見かけるたびに不思議に思っていた。どうしてこんなに美しい人が、まだ誰のものでもないんだろう、って。でも、アルフォンス殿下に紹介されたときに、すぐに気がついたんだ。この二人は想いあっている。自覚したのと同時に、失恋した」


 星空を背にして、部屋の隅に灯されたろうそくの灯りに照らされたアルバートの顔は、常にないほどの悲しみに満ちている。遠い記憶にさいなまれているような表情は、より一層歪んで次の言葉を吐き出した。


「彼女は、……あなたもアルね、なんて言って、笑った」


 リゼットの胸の奥が、掴まれたように痛んだ。アルバートの過去の想いが苦しくて、なすすべなく手を握りこむ。


「帝国の皇族は、成人すると皇籍から外れることができる。二人は卒業と同時に婚約を発表した。殿下が公爵家に婿入りするという形でないと、婚約できなかったんだ」


 淡々と語るアルバートは、ふっと表情をやわらげた。懐かしむような優しい顔で続ける。


「二人は、僕の友人になってくれた。立場の微妙な僕の後ろ盾にもなってくれた。二人のことが大好きだった。だから余計、苦しかった。ヒルデガルドに恋焦がれていることは、絶対に知られてはいけなかった。仲たがいした二人の間を、取り持ったことさえある。手に入らないことが初めからわかっていた恋だったから、二人のことは本当に祝福していたんだ。どうしても結婚式を見届けたくて、わがままを言って遊学を二年延ばしてもらった。……僕なりの、けじめだった」


 帰国が二年も遅れた真相は、帝国での日々を過去のものにするための、アルバートの儀式だったのだ。

 そこまで語って、アルバートはようやくリゼットを見据えた。その瞳には、真摯な光が宿っている。


「彼女への想いが断ち切れないとか、そういうことじゃない。臆病な心が、新しい想いを拒絶したんだ。……だからこんなに、時間がかかってしまった」


 では、今は。リゼットは戸惑う心を抱えて、アルバートを見返す。


「リゼットは、僕ととても似ていると思ったのに、僕にできなかったことをやってのけた。ただ時間が過ぎるのを、決定的な瞬間が訪れるのを待つのではなくて、自分から想いを過去のものにしてみせたんだ。……そんな君が、眩しかった。そんな君に、……惹かれた」


 アルバートはリゼットを見つめながら、目を細めた。


「やっと、すべてを話せた気がする」


 安堵したように笑うその顔は、どこか幼くみえる。アルバートの心からの笑みは、いつも温かく、明るい。


(もっと、そうやって笑ってほしい)


 ふと浮かんだその想いに、リゼットは驚いた。これでは、まるで。

 しかし驚いたのは一瞬だった。まだ名付けるには早い不確かなその想いは、確かにリゼットの胸に芽生えている。


 いつの間にか、冬の星空のように澄んだ藍の瞳が、心の中にいた。その瞳が自分を映すことを、嬉しいと思うようになっていた。

 急に恥ずかしくなって、リゼットはぬるくなったカップの中身を一気に飲み干した。それでも落ち着けなくて、椅子から立ち上がる。アルバートの腰かける窓の外を見に、歩み寄った。


 星空を見あげていると、だんだんと落ち着いてくる。アルバートも何も言わずに、同じ空を見ていた。

 そっとその横顔を伺う。優しい顔をしている。とくとくと早くなった鼓動が思いのほか心地よくて、リゼットはふと浮かんだ言葉をそのまま口にした。


「私、冬の星空が好きです」


 続きを促すように、アルバートが瞬きする。


「ノーコットも、好きです。まだ、少ししか知らないけれど……長い冬に閉ざされても、温かな人の営みが、この土地を守ってきたのだと伝わってきます」


 アルバートが頷いた。

 再び恥ずかしさが込み上げてくる。リゼットは頬の熱を感じながら、続けた。


「私は、ここで、ノーコットで……アルバート様の隣にいたい」


 明るいとは言えない部屋の中でも、アルバートの頬が赤く染まっていくのがわかった。藍の瞳が光を増していく。ほんの少しだけ顔を歪めて、アルバートの頬に涙が一筋伝った。初めて見るアルバートの涙は、美しく光る嬉し涙だった。


 アルバートが大きく息を吸う。


「僕も、君との未来を、信じたい……信じるよ」


 アルバートは気恥ずかしげに頬を拭った。少々乱暴なその仕草がなんだか可愛らしくみえて、リゼットは微笑む。


 ごまかすように、アルバートがたずねた。


「寒くない?」

「……少し」


 リゼットがそう答えると、アルバートは窓枠から降りて、羽織っていた毛布を広げて手招きする。

 一歩近づくと、そっと、ためらいがちに肩を抱き寄せられる。腕と一緒に毛布に包みこまれて、リゼットはぬくもりを感じた。

 鼓動が早鐘を打っているというのに、不思議と落ち着いている。じわじわとぬくもりが広がっていく心には、確かな幸福感が満ちていた。


「手が冷たい……戻ろうか」


 毛布の中で触れた手の冷たさに、アルバートは少し慌てたようだった。


「もう少しだけ」


 リゼットがそう言うと、アルバートの頬はまた赤く染まった。嬉しそうにはにかんで、リゼットの両手を温めるように包み込む。


 降るような星空を共に眺めながら、リゼットは思った。この手をずっと、離さないでいようと。



 それから、シーズンが始まるまでの間、ノーコット城での日々は穏やかに過ぎた。


 リゼットはソフィアに様々なことを教わり、女主人としてのふるまいを身につけていく。雪をものともせずに領都からやって来たメイサが住み込みはじめ、新人メイドの教育も経験した。実際に教育するのは家政婦長のハンナだが、すべての使用人の采配は女主人の仕事だ。


 アルバートは領主の仕事をこなしながらも、ゆったりと過ごしている。子供時代を思い出すかのように城のあちこちを歩き回っているので、たまに従者のヴィムが見失って慌てている様子がみられた。なぜかヴィムは、リゼットのところへ来ていないかをまず確認していく。


 そんな日々の中で、リゼットはアルバートについてたくさんのことを知った。

 甘いお菓子はあまり好まないが、甘い飲み物は美味しそうに飲むこと。とても綺麗な字を書くのに、手先が不器用であるということ。城内で過ごすくつろいだ格好には、袖のゆったりしたシャツに簡素なリボンタイを愛用しているということ(自分で結んだときと、使用人に結んでもらったときの違いが非常にわかりやすい)。大きな音が苦手で、自分もあまり音を立てないこと。執務室や私室の片づけがすこし苦手なこと。物を捨てるのが苦手なこと。集中しているときに声をかけると、しばらく返事がないこと。


 リゼットがそうして日々新たな発見をしているように、アルバートもリゼットについての認識を更新しているらしい。どう思われているのかは断片的にしかわからないけれど、どれも悪い意味には取られていないようなので詳しくは聞かないでいる。

 ささいなきっかけで、喧嘩のようになったことも幾度かあった。けれどアルバートはすぐに頭が冷える性質で、リゼットも怒りが持続しない。喧嘩をするには向かない二人だった。


 ルイスはたまの休暇を楽しんでいるようで、すっかりノーコット城になじんでいる。時折王都とやり取りしている手紙を見て難しい顔をしていることもあったが、それについて話すことはついぞなかった。

 そして、とうとう社交シーズンがやってくる。


 降る雪が少なくなっても、積もり積もった雪がとけだすのはまだまだ先のこと。王国内最北の地ノーコットから、社交シーズンの始まりに間に合うよう王都へ向かうには、かなり余裕を持って出発する必要がある。随伴する使用人も最低限に抑えた長い馬車の旅だ。

 体力的にはつらいものがあるが、リゼットの気持ちは上向いていた。前のシーズンで仲良くなった友人たちや、クラーデンでわかれた家族に会えるのも楽しみであったし、華やかに着飾って参加する夜会や晩餐会も、今シーズンはアルバートとともに参加するのだ。

 そして、シーズン開始から二月後には、リゼットとアルバートの結婚式もある。デビュタントよりも忙しいシーズンになりそうだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ