step 20. 寒くない?
ノーコットへ着いてから迎えた二度目の朝は、上掛けから手も出したくないほど冷え込んだ。
マリーに起こされたリゼットは、カーテンを開けてもなお薄暗い部屋でぼんやりと目を開けた。
「……ずいぶん、暗いのね」
「ひどく曇っていますから……」
マリーが差し出した紅茶を一口飲むと、心地よい熱が体をめぐっていく。
「今朝は初霜がおりたそうですわ。暖かい格好にいたしましょうね」
(そうだ、今日は……)
サミアを飼育する候補地や、改築、増築する予定である毛織物加工場を視察に行く予定だった。もともとはアルバートとルイスが従者や技術者、土地管理人らとともに行くことになっていたが、リゼットがぜひにと同行を申し出たのである。できることは少ないが、今後領主夫人として過ごすうえで、見ておきたかった。
朝食を済ませると、リゼットは視察へ行く身支度を整えた。
濃紺のドレスの上に、淡いグレーのケープコートを合わせる。このケープコートは、サミアの毛で織られたリゼットのお気に入りの品だ。
髪は、耳の上から編み込み、首の後ろですっきりとまとめた。マリーは相変わらず手際がいい。
ホールへ降りようと部屋を出ると、今まさにノックをしようとしていたアルバートがいた。
アルバートもグレーのコートを着込んでいる。図らずも服装を合わせたようになってしまったことに気がついて、リゼットは言葉につまってしまった。
アルバートも、リゼットのケープコートに目を留めた。それからゆっくりとリゼットを見つめ、何かを言いたげに口を開いたが、すぐに目をそらし口もつぐんでしまった。
たっぷり十秒ほどたってから、アルバートはやっとこれだけ口にした。
「……行こう」
歩き出したアルバートの背を追いながら、リゼットは小さくため息をついた。このぎくしゃくとした空気をどうにかしたいのに、勇気がでない。
ホールでは、今日の視察に行く面々が待っていた。揃って外へ出ると、頬に触れる風が一段と冷たくなっているのを感じる。
馬車へ乗り込む前、アルバートがリゼットを振り返り、ややためらってから控えめに問いかけた。
「寒くない?」
「……大丈夫です」
答えながら、リゼットは微笑んだ。
ぎこちなくとも気遣ってくれる不器用な優しさが、素直に嬉しかったのだ。
候補地として挙がっているのは、サミアを飼うのに十分な土地があり、飼料となる作物を育てることのできる比較的広い小作地だ。
実際に土地を見て回りながら、その土地の小作人とも直接話をする。
これは、アルバートが望んだことだった。土地管理人を通してある程度伝えてはいたが、領主としてできることはなるべくしたいと考えているのだろう。
実験的な試みのため、小作人たちにかかる負担を最小限にすべく、アルバートは緻密に計画を立てているようだった。昨夜も遅くまで資料を読み込んでいたのだろうか、目元にかすかな隈ができている。
クラーデンからサミア農家や職人なども連れてきて、技術的なことを教える機会も十分につくる予定だという。
リゼット自身も、サミア毛の手仕事に詳しい使用人を幾人か選んで連れてきていた。工場で余った毛や、商品にできないほつれがあるもの、染めに失敗したものなどを、冬の間女性たちが家庭で使えるような物を作るのに使うのだ。うまくできた品を売って家計の足しにしている者も少なくはなかった。冬の気候が似ているノーコットでも、同じことができるだろうと踏んだのだ。
アルバートやルイスたちが土地や飼料の話を小作人にする間、リゼットはその妻や娘、母親など、女性たちと話をしようと考えていた。そのために、同行を申し出たのである。
視察や説明は、おおむね順調に進んだ。はじめは見たこともない家畜を育てることに難色を示しているようだった小作人たちも、アルバートが支援を惜しまないことを約束すると、サミアの毛で何が作れるか、どうノーコットの利益になるのかといったことまで話を弾ませていた。
一日目の視察は無事終わり、そのまま予定していた晩餐会のため城へ戻る。視察には同行しなかった領都の長官や商人たちを出迎えるため、馬車を急がせて帰途についた。
この一日、領主として領民たちと接するアルバートを見ていて、リゼットは以前彼が言っていたことがようやくわかった気がしていた。長い間領地をあけていたこと、けがをしたとはいえまだ壮健な父の跡を継いだこと、そのすべてがアルバートを焦らせているのだろう。早く認められたい、妻帯もその手段だと言ったのは、まぎれもない本心だったのだ。
実際に、晩餐会で口々に婚約の祝いを述べるノーコットの領民たちは、安心したように笑っている。果実酒で顔を赤くした領都の長官がこぼした言葉が、リゼットには印象的だった。これでノーコットも安泰だ、と。
晩餐会の次の日の午後から、また候補地の視察が続けられた。
そして、視察三日目、最後の候補地に向かおうというところで、これまで上機嫌に先導していた土地管理人のマシューが、はじめて顔を曇らせた。
「アルバート様、次がクロフの土地です」
アルバートも、真剣な表情で頷いた。
「話は父から聞いている。大丈夫、はじめから、どこもうまく行くとは思っていないよ」
「……難しいのか」
ルイスが眉をひそめて問いかけた。
アルバートとマシューは顔を見合わせる。
「……今まで通りの畑作には、手が回っていない家です。年々収穫量も落ちている。一部を手放して、残りの土地でサミアの飼料を作るよう持ち掛けたんですが、どうにも」
マシューは苦い顔で首を横に振った。
アルバートが言葉を継ぐように続ける。
「男手が足りないんだ。娘婿が足を悪くしてしまって、力仕事があまりできない。飼料となる作物は手入れの難しくないものを選んでいるから、クロフ一家にとって決して悪い話ではないはずだけど……代々受け継いできた土地を手放したくないんだろう」
眉根を寄せたアルバートの表情を見て、リゼットは考えた。きっと、アルバートはそのクロフ一家に同情しているのだろう。
やがて一行はクロフ一家の小作地へ到着した。
マシューが家の扉の前で声をかけると、それほど間をおかずに扉が開かれる。
出迎えたのは、幼い少女とその母親らしき女性だった。
家の中に通される。居間には大きなテーブルと木の椅子や小さなソファが置かれている。ひときわリゼットの目を引いたのは、床に敷かれている絨毯だった。使われている色は多くないが、花をかたどったような模様が美しい。これまで訪問したどの農家にも、似た模様の絨毯が敷かれていた。
クロフ一家の家長は、女性の父親であるサイモンだった。しわの刻まれた日に焼けた顔は、厳しい表情を隠そうともしていない。娘はそんな父親の態度に困ったように、領主であるアルバートを気づかわしげに伺っている。
マシューとアルバートは、これまでの小作人たちに接したのと同じように、訪問の理由や今後の計画を説明した。
二人が話し終えると、じっと黙って聞いていたサイモンがようやく口を開いた。
「本当に上手くいきますか?」
ぴん、と空気が張りつめたような気がした。マシューが言葉に詰まったように口を開け閉めしている。
「クラーデンといったら、山の向こうでしょう。物を運ぶのにも難儀するようなところと一緒になんて、若領主様は何を考えていらっしゃる」
話の間リゼットが持ってきたサミア毛糸で作られた小物を眺めていた娘は、父の言葉に顔を真っ青にしている。
アルバートが、緊張からか目を何度か瞬いた。深く息を吸って、サイモンと向かい合う。
「懸念はもっともです、クロフさん。確かにクラーデンとノーコットの間は、取引に適しているとはいいがたい回り道しかない。けれどこの取引において、頻繁に物をやり取りすることはほとんどありません。品物を卸す先も、クラーデンとは全く別の販路を考えています」
「……それは、今までのやり方を変えてまですることですか」
サイモンの心情は、結局のところそれに帰結するのだろう。
アルバートはそれ以上強硬に話を進めることはせず、クロフ家を辞することになった。
戸口まで見送りに、サイモンの娘がついてくる。彼女は顔を青くして、アルバートに向けて頭を下げた。
「父が、申し訳ありません……」
アルバートは優しく微笑んだ。
「私も無理強いするつもりはないですから、たとえクロフ家が新事業に加わらなかったとしても、土地を取り上げたりはしませんよ」
それも心配事の一つではあったのだろう、娘はほっと息をついたが、すぐまた眉を寄せた。
「ありがとうございます、けれど……父ももう年ですし、領主様やマシューさんの言う通りにした方が、うちにとってもいいってことはわかっているんです。このまま父が意地を張りつづけたら、地代を収められなくなって、それこそ土地を手放すことになってしまう」
彼女は落ち着かない様子でエプロンのしわをなで、大きく息を吸って続ける。
「父はきっと、恐れているんです。そして、一部とはいえ自分の代で農地を減らすことになってしまうのを、受け入れることができない。……でも私は、お嬢さまにサミアの毛で作った品を見せていただいて、ノーコットの新しい産業に協力したいと思いました。なんとか父を説得しますから……」
「……ありがとう」
最終的にどうするかを決めるのは、クロフ一家だ。アルバートは礼を言うにとどめて、視察の面々とともに馬車に乗り込んだ。
「クロフ家にはまた近いうちに来ることになるな……視察は済んだから、ルイスはどちらでもいいけれど」
「加工場の件もあるから、確約はできないが、都合がつけば同行しよう」
リゼットは背もたれに体を預けて、二人の会話を聞いていた。
ほとんどついて回っていただけとはいえ、体は疲れを訴えている。視察の収穫や今後の予定などを話し込む二人の声がだんだん遠のいていき、やがてリゼットの意識は眠りへと落ちていった。
自分の名を呼ぶ声とともにそっと肩を揺すられて、リゼットははっと目を覚ました。
「着いたよ、リゼット」
車窓に頭を預けるようにして、リゼットは眠ってしまっていたらしい。隣に座っていたアルバートが起こしてくれたようだ。もう降りたのか、ルイスはすでに車内にいなかった。
リゼットに向けられるアルバートの表情は未だ硬いものだったが、わずかに案ずるような色がある。
「疲れたんだね。もうすぐ夕食の時間だけど、休まなくて平気?」
なんだか久しぶりにアルバートが普通に話してくれたような気がして、リゼットは安堵した。自然と笑みが浮かんでくる。
「ありがとうございます、平気です」
「良かった」
答えたアルバートの顔にもまた、微笑みが浮かんでいる。そしてアルバートは考え込むように目を伏せて、やがて光をたたえた瞳でリゼットを見つめた。
「君に嫌な態度をとっていて、ごめん。言わせてはならないようなことも、言わせてしまったよね」
この婚約に納得していないのはアルバートの方ではないか、とリゼットが言ったことだろう。気にしていないことを伝えたくて、リゼットは首を横に振った。
「私の方こそ、ごめんなさい。ひどいことを言いました」
「いいんだ。……言い訳ではないけれど……」
アルバートはそこで、いったん言葉を切った。リゼットはじっと黙って続きを待つ。
「落ち着いたら、君に聞いてもらいたいことがある。長い話になると思う……それでも、聞いてほしい」
サミアの事業に関する諸々は、雪が降る前に終わらせようと過密に予定を組んでいる。その間、領主であるアルバートは当然多忙な身の上だ。
ぎこちない空気を変えられた今、待つことは苦にならない。リゼットはすぐに頷いた。
「聞かせてください」
アルバートは安心したように微笑んだ。
「ありがとう、リゼット」